「尊師麻原は我が弟子にあらず」 1995.徳間書店
▼座談会を終えて▲
不要な修辞を排して、率直に、かつ簡潔に記しておこう。
本書(「尊師麻原は我が弟子にあらず」1995 徳間書店)に収録されているシンポジウムが開催された後、シンポジウムの参加者の中に、とうてい同意することのできない発言をなす人々が現れた。一人は、山崎哲氏である。山崎氏は、『宝島30』9月号に掲載されたインタビューの中で、村井刺殺事件に関連して次のように語っている。
「僕は『この人たち(オウム・ウォッチャー)は異常だ』って思いました。僕には、どんな死者であれ『悼む』って感情があるんですけれども、彼らにはそれが何もない。(中略)やっぱり死者に対しては、僕らは敬虔になるべきじゃないか」
あらゆる死は悼ましい。死を前にして人は敬虔になるべきである。それは同意できる慎ましい言辞である。ところが、そうした言葉に続けて、まさに「舌の根もかわかない」うちに、山崎氏はこうした言葉を口にする。
「オウムの子供たちがもし危険だとすると、その危険な子供たちを産んだのはこの社会です、この家族です。何でそのことに気が付かないのか、わかんない。それぐらい彼らは鈍感だと思います。だから子供の側からすると、そういう奴らは殺してもしょうがない」
「そういう奴らは?」という、間をおかずに発せられたインタビュアーの問いに対して、「江川紹子に代表される連中ですよ」と山崎氏は言下に答えている。
要するに、江川紹子氏は「鈍感」だから殺されても仕方がない、というのだ。周知の通り、江川紹子氏はオウムによって毒ガスのホスゲンを自宅にまかれ、実際に殺されかけた経験のある人物である。つまり、山崎氏の発言は、オウムによって現実に行われた殺人未遂の犯行を、事実上肯定していることになる。少なくとも、彼が自身の発言を撤回していない現在、そう解釈されても「しょうがない」だろう。
また、山崎氏はインタビュアーの「サリンを撒くっていう方法も『あり』なんだって(中略)そこまで言ってしまっていいということなんですか」という問いにもあっさりと「僕は言っちゃってもいいんじゃないかと思います」と答えている。すなわち、サリンをまくことは是認される、ということだ。
サリン事件に巻き込まれて生命を失ったり、障害を抱えるに至った人々と、その家族の痛みの深さについて今さら言葉を費やす必要もないだろう。言うまでもなく、山崎氏の発言はそうした人々の神経を逆なでする「暴言」である。村井秀夫という人物の死については「敬虔であれ」ともっともらしく説教しておきながら、こうした「暴言」を同時に吐ける神経を、私は理解することができない。わかることは山崎氏が自己の発言に際し、「二重基準(ダブル・スタンダード)」を用いることをためらわない人物である、ということだけである。
こうした「殺人肯定」発言を山崎氏が正式に撤回したという話を、私は寡聞にして聞かない。念のため『宝島30』編集部に問い合わせると、「記事は山崎氏自身が語った内容そのままであり、インタビュー・テープも保存してある。本人にゲラを見せてチェックも受けている」という。ゲラ刷りを本人がチェックし、了承を与えたのなら、単に「口がすべった」わけではない「確信犯」的言辞と言うことになる。
しかし、言葉の上でのセンセーションよりも、真に問題だと思われるのは、オウムによる殺人を肯定する主張の論拠が、山崎氏自身によってまったく示されていない点である。「殺す側の論理」を正当化する理屈が、彼の文章や発言の中に見当たらないのだ。「鈍感な人間は殺されてもしょうがない」では、理屈になっているとは到底いえない。相応の論拠もなく、罪を犯していない人間を殺害する行為への肯定を平然と口にしてしまうこの無神経さと思慮の無さ――。
探してみると、『サンサーラ』11月号に掲載された「世相――オウム報道の無惨さ」というコラムの中に「殺す側の論理」らしきものを山崎氏が述べているくだりがみつかった。「ひとはなぜ、法や道義を超えて、ひとを殺すことがあるのか。これも一言でいえば、ひと(相手)を殺さなければ、自分が死ぬしかないからである。自己の存続の危機に陥る。そのときひとは、その危機を突破しようとして、ひと(相手)を殺すのである。
断言してもいいが、そうした内省に立たない報道や批判などまったく無効である」これは要するに、人間は事故の生存の危機に瀕したときには、防衛行動として殺人をも犯しうるのだと、ありきたりの正当防衛の論理を語っているにすぎない。では、麻原は、あるいはオウムの人間たちは、サリンをまかなければ自分多胎が誰かに殺されてしまうという切迫した状況に追いつめられていたのだろうか。
否である。彼らを肉体的抹殺にまで追い込もうとしていた勢力など、どこにも存在しない。むろん、「一般世間(あるいは市民社会)が彼らに圧迫を加えていたではないか」などという主張は認められない。いかなる個人・集団も、多かれ少なかれ他者との摩擦を抱えながら、法秩序の下でなんとか折り合いをつけて生きているのであり、特段の、生存の危機にさらされるような危害を加えられていたわけでもないオウムの犯罪を正当化する根拠には決してなり得ない。米軍やフリーメーソンから毒ガスをまかれているなどとでたらめな主張をして、被害者を装っていたオウムのほうこそ、自ら仕掛けて人を殺していったのであり、正当防衛の論理は、サリン事件その他の被害者にこそ当てはまるのであって、麻原やオウムが持ち出せる筋合いのものではない。
山崎氏の表現を拝借すれば、「断言してもいいが」オウムの殺人を肯定する論拠としては、正当防衛の論理は「まったく無効である」。
山崎氏は改めて、自身が主張する「殺す側の論理」の論拠を明確に提示すべきである。そしてその場合は、「二重基準(ダブルスタンダード)」を用いることを控えてもらいたい。この『サンサーラ』のコラムでも、山崎氏は「二重基準」にもとづく不可解な主張を展開している。
コラムの冒頭では、山崎氏はこう書いている。「電車に乗って吊り広告に目をやると、いきなり、
『江川紹子さん語るというバカでかい活字にぶつかった。
死刑だけでは許さない
麻原に坂本さん一家と
同じ恐怖を味わわせてやりたい』
ある女性週刊誌の広告で、この通りだったかどうか自身がないが、私は慌てて目をそむけた。体に悪寒が走ったからだ。とても正視に耐えられなかったからだ。
江川さんはどうして、こういうおそろしいことを平気で言えるのか。私にはどうしても、その神経が理解できないのである」ところが、信じられないことに左頁の末尾では、こう書いているのだ。
「『宝島30』にも言っておく。私はインタビューに答えて、『サリン事件は正しかったかもしれない、という観点も含めて事件を考えなければだめだ』と言った。それがどうして『サリン事件は正しかった』というタイトルになるのか。そんな短絡的な頭脳でよく編集長がつとまるものだ」
山崎氏は、自分の原稿につけられた見出しが気にくわないと怒っている。その一方で、ろくに確認もしないまま、中吊り広告のコピーを江川氏本人の言葉であると決めつけて「恐ろしい」と述べているのだ。雑誌の見出しや広告のコピーは出版社サイドがつけるというのが常識である。「恐ろしい」という言葉は、自分が『宝島30』誌に毒づいたように、その女性誌の編集部に対して向けるべきだろう。わずか二頁のコラムの中で、こうした「二重基準」を行使し、論理のすりかえを平然と行なう。これでは話にならない。
繰り返すが、『宝島30』誌上に載った氏の発言は、オウムを理解・分析するための「文化人の参考意見」という程度をはるかに逸脱した「暴言」である。仮に、殺人をも肯定可能な論理の立脚点が、どこかにあるのだとすれば――『宝島30』誌上でしきりに「市民社会の外部」という言葉を用いているが、それが何を指し示すのか明示されていない――誌はそれをハッキリと言明すべきである。もし、それが説得力を持ちうるならば、私は、氏の発言を「暴言」と断定した自分の断定を「暴言」として撤回し、詫びるにやぶさかではない。しかし、もし氏が言論人として当然の、自己の言動に対する責任をとらず、このまま言いっ放しでお茶を濁そうとするならば、私もまた、氏を批判した自分の発言を撤回する必要はないだろうと心得る。
もう一人、疑問に思うのは、吉本隆明氏である。吉本氏は山崎氏のように単純な「暴言」を吐いているとはいえないが、表面的に見れば「麻原援護」とも受け取れる発言をたびたび行なっている。
私は、麻原を援護したから即、けしからん、などとここで主張したいのではない。そうではなく、吉本氏のオウムに関連しての発言には、あまりにも論理的に曖昧な点や矛盾が多すぎて、このままでは評価のしようがないと言いたいのである。シンポジウムに先立つ氏の特別講演を拝聴したときも、困惑を覚えたものだが、その後、「産経新聞」(1995年9月5,7,11,12日付夕刊)誌上でのロング・インタビューにおける発言、そして『サンサーラ』などに掲載された文章など、オウム事件に関連した吉本氏の言動および文章のほとんどに目を通して、その論理破綻ぶりは看過できないと思うに至った。
11月現在までのところの吉本氏の主張は、煎じつめれば、ヨガ修行者ないしは宗教者としての麻原彰晃を「世界有数の高度なレベルにある人物」と評価し、他方、「オウムの犯罪を根底的に否定する」という、本人自身も「二重性を抱えている」と認める分裂した言説を、整合することなく表現しているだけにすぎない。
以下、吉本氏の主張の論理破綻について、簡潔に指摘しておきたい。
<一>吉本氏は「『生死を超える』は面白い」(吉本隆明著『親鸞復興』所収。初出は『Cut』92年5月号)という文章の中で、「この本を読んでいるとヨーガの肉体的な修練が、なぜ仏教の世界観である生死を超える理念をつくるところにたどりつくかが、一個のヨーガ修熟者の記述を介して『普通の人間』にも実感的にわからせるところがある。この記述は貴重なもの」と、麻原の著書『生死を超える』を高く評価している。この文章の発表以後、吉本氏は麻原評価のボルテージを次第に上げてゆき、最近では産経新聞での「僕は現存する仏教系の修行者の中で世界有数の人ではないかというくらい高く評価しています(中略)『麻原彰晃、つまりオウム真理教というのは、そんなに否定すべき殺人集団ではないよ。この人は宗教家としては現存する世界では有数の人だよ』という評価になると思います(9月5日付夕刊)「人が考えているよりも、あの人はそんなにちゃちなものじゃないぜ、負けられないぜ、と思うのです」(9月12日付夕刊)という発言にまで至っている。
<二>吉本氏は講演その他で、「麻原と彼らの引き起こした事件によって、すべての仏教は根本的に批判された。生き残ることが可能な仏教思想があるとすれば、法然・親鸞の説いた浄土系だけだ」と語っている。吉本氏が浄土系の思想(とくに親鸞)を評価する根拠の一つは、親鸞が、瞑想修行をはじめあらゆる難行苦行を経た後に、ひたすら一念を持って南無阿弥陀仏と念仏を唱えれば、万人が阿弥陀浄土に行けるとする他力本願の思想・信仰を切り開くとともに、従来の聖道(しょうどう・僧のみに可能な難行のこと)を否定して、易行道(いぎょうどう)を確立した点にある。
<三>「二」によって明らかな通り、吉本氏は、一方ではヨガを含めた瞑想修行のような聖道を否定した親鸞を評価しているのであり、これは「一」で述べた、ヨガ行者としての麻原を高く評価する姿勢と著しく矛盾する。
<四>吉本氏はヨガ行者としての麻原と、宗教家としての麻原を明確に区別することなく、曖昧に混同して高い評価を与えている。しかし、この二つはぴたりと重なり合うものではない。ヨガ行者が、必ずしも、他人を教化したり、導くことを目的とした宗教を立宗する必要はないのであり、また、宗教者がヨガ行者である必要もない。麻原彰晃は、あくまでも自称ではあるが「ヨガ行者」であり、かつ「宗教家」である。この場合の「ヨガ行者」という要素は「宗教家」というカテゴリーに包摂されうる。麻原が自らを「宗教家である」と名乗るときに、彼のヨガ体験なるものと、彼の予言なるものと、そして彼の教義とは不可分のものとして結びついているのであり、また、宗教家としての麻原を評価する者も、それらの要素を不可分のものとして扱わなければならない。
<五>麻原彰晃は、自分自身の教義を説いた『ヴァジラヤーナコース 教学システム教本』の中で、明確に殺人を肯定する思想を説いている。教本に収録された1989年9月24日、世田谷道場での説法をここで紹介しておく。
麻原はまず、ここにAさんという人物がいたとする、として、このAさんに慢が生じてきたとすると、この後、彼は悪業を積んでいき、寿命が尽きるころには地獄に落ちるほどの悪業を積んで死んでしまうだろう、と述べる。そしてこういう条件のもとで、このAさんを「成就者」が殺した場合、その事実は見方によって意味が変わってくるのだ、と説くのである。(以下は原文の通り)「すべてを知っていて、生かしておくと悪業を積み、地獄へ落ちてしまうと。ここで例えば、生命を絶たせた方いいんだと考え、ポワさせたと。この人はいったい何のカルマを積んだことになりますか。殺生ですかと、それとも高い世界へ生まれ変わらせるための善行を積んだことになりますかと。(中略)客観的に見るならば、これ殺生です。客観というのは人間的な客観的な見方をするならば。
しかし、ヴァジラヤーナの考え方が背景にあるならば、これは立派なポワです。そして、(中略)智慧ある人がこの現象を見るならば、この殺された人、殺した人、共に利益を得たと見ます。(中略)
これは大変に速い功徳の積み方である、でしょ。
ていうのは、ここにいる人を、今、人間界の低次元から天界へ上げると。しかも、そこには偉大な救世主がいて、その人と縁があって、その天界へ行った人は永遠不死、マハー・ニルヴァーナに入ることができるとしましょうと、そこに一人送り込んだわけだから、大変な功徳を積んだことにならないですか。どうですか。
だから、そういう偉大な功徳の積み方、これができるのがヴァジラヤーナであると考えて下さい」ここで明らかなように、麻原の説く教義の「奥義」には、ヴァジラヤーナの教えに従って人を殺した場合、殺された人間は天界へ転生できるので、殺された当人にとってプラスになるのだという、実に図々しい、殺人正当化のための「思想」がある。従って、単なる「ヨガ行者」ではなく、「宗教家」としての麻原を評価する場合、この殺人肯定思想を含めての評価にならざるをえない。麻原の「思想」や「教義」と、オウムの犯罪とは直結しており、切り離すことは不可能である。殺人を肯定する教義を説き、その説法にもとづいて教団の武装化および具体的な殺人指令を下した容疑の濃厚な麻原彰晃を「高く評価する」と吉本氏が主張することは、吉本氏が自ら「犯罪は許されない」と主張することと決定的に矛盾する。
<六>産経新聞のインタビューの中でオウム真理教のやったこと、やらせたことは、親鸞流にいえば、造悪論の中に入ると思います」と吉本氏は述べている。造悪論とは、親鸞の「善人なほもて往生を遂ぐ。いはんや悪人をや」という逆説的でかつ詩的な言葉を、弟子達が「悪事を多くなした者こそが、より浄土に近づける」と、散文を読む作法で逐語的に曲解した屁理屈のことである。しかし、オウムの教義では、悪事をなす人間を殺害することは、悪業ではなく善業を積むことであり、殺される本人の益にもなるのだと説かれているのであって、造悪論とは一致しない。
<七>吉本氏は、「法廷において司法的な決着がつかない限り、無罪の原則は貫かれるべきであり、マスメディアが麻原を犯人扱いするのは許されない」と語った。これは、法治の原則である「無罪の推定」を拡大解釈して主張したものだと理解することができる。
<八>吉本氏は、「市民社会のちっぽけな倫理」を超える、「浄土における倫理」のような「大きな倫理」を構築しなければならないと主張している。すなわち、その「大きな倫理」の前には市民社会の倫理は「とるに足らない」ものであるという。
<九>吉本氏の強調する「無罪の推定」は、イギリスにおいて慣習法として形成され、フランス革命において成文化された法概念である。フランスの人権宣言にも記載されている。フランス革命が近代の市民社会形成に決定的な役割を果たしたことはいうまでもない。要するに「無罪の推定」は近代の市民社会がたどりついた価値であり、近代法的概念であり、倫理なのである。
<十>吉本氏は市民社会の倫理であり、法概念である「無罪の推定」という原理を極端に拡張して主張しておきながら、一方では、「八」で述べたとおり、市民社会の倫理を、浄土の倫理に比べればとるに足らないと退けるという、これまた明らかな論理矛盾をおかしている。
<十一>「六」に関連して補足しておくと、吉本氏の「法廷で司法的な決着がつくまでは一切の言論は慎むべきである」という主張には同意できない。「無罪の推定」原則が法的義務として課せられているのは、司法権力(特に挙証責任を負う検察)である。すなわち、「無罪の推定」とは、刑事訴訟法上の原則であり、国家と個人の関係を規定するものなのだ。個人が個人に対して行なう言論活動をさしとめるのは、メディアの報道・言論活動を含めて、法的には名誉毀損による他はない。
また、別の観点から言えば、シンポジウムにおいて島薗進氏が発言されていたように、法的決着がつけばそれが真実であるとは必ずしも限らない。メディアは(繰り返すがそのメディアで言論活動を行う評論家や言論人を含めて)司法権力にすべての判断をゆだねるのではなく、自らは他の「権力」がそうであるように、錯誤とミスを犯す可能性を常にはらんでいる。そうしたミスを犯さないように、まずは自らが自身の報道や言説のあり方を律していかなければならないのはいうまでもない。しかしながら、結果としてミスを犯した場合は、原稿の実定法上はメディア上の言説は名誉毀損として処罰されるのであって、最初から最後まで「無罪の推定」という原則に拘束されるわけではない。仮にまた、そうなったら、全体主義国家の国家権力に従属する御用メディアと同じになり果ててしまう。
<十二>吉本氏はテレビのワイドショーの騒々しい報道ぶりをはじめとして、マスコミ全般を「どうしようもない」と批判している。マスコミの中に興味本位の誇張された報道があったことは否めない。それは批判されるべきである。しかし批判に際しては、マスコミ一般としてひとくくりにするのではなく、きちんと個別・具体的に記事・番組の過ちを指摘して批判するべきである。同時にまた、吉本氏の言説もまた、雑誌や新聞や書籍(本書を含めて)というメディアを通じて語られていることを忘れてもらっては困る。
吉本氏は『週刊朝日』(10月13日号)の取材に答えて、「僕はいま麻原と思想的に格闘している。『坂本さん一家がかわいそう』などという低次元の話に引きずりおろさないでほしい。くだらないことで議論して、麻原にバカにされたくないんだよ」とコメントしている。これは氏が口を極めて罵る、テレビキャスターに美人のお姉ちゃんの言葉や振る舞いよりもはるかに不快な発言だろう。傷を負った人間を、さらに二重に踏みつけにする愚劣な言葉である。メディアの言説を高みから批判する前に、まずは自分の言い放った言葉を自己批判するべきであろう。
以上、申し述べてきたように、山崎哲氏と吉本隆明氏の言説に関しては、私にはとうてい受け入れられないと思える部分と、当人が自身の発言の根拠を曖昧にしていたり、論理矛盾を放置しているために、きちんと評価できない曖昧さが残されている部分とがあり、そうである限り、私は両氏と同じ地平に立つことはできないと考えている。
シンポジウムをもとに、「プロジェクト猪」が企画編集する書物が刊行されると知らされたとき、私は自分の言葉を両人の言説と一緒に並べられることには現時点では同意できないと当初、執筆依頼を断ったが、シンポジウムの記録そのものが収録されると聞いて、考えを改めた。
私がシンポジウムに出席し、発言したことは、間違いのない事実である。シンポジウムというものは一人だけで成り立つものではなく、「私の発言を削除して掲載してくれ」と身勝手な主張をすることができる性質のものではない。したがって私は、山崎・吉本両氏の言説に関して私の抱いている疑問と批判を記したこの一文を添えさせてもらった上で、本書に、シンポジウムにおける私の発言が掲載されることを了承した次第である。
最後に――。
山崎哲氏を好意的に取り上げた「朝日新聞」10月30日付朝刊の「ひと」欄において、オウムに題材をとり、十数年後のサティアンを舞台にした芝居を演出する氏は、「今回は闘争宣言だな、という唐十郎さんの感想が、僕は一番うれしかった」と語っている。何に対し、どのような根拠と、どのような手段を持って「闘争」をするのか、それは今後きちんと見据えていきたい。
私たちの生きている「市民社会」なるものが不完全であり、平和的な手段であるならば、改善する余地を多々残してあるものであることを私も認める。(むろん、仮に「完全」に「理想的」な社会が成立したとしても、自分の意志とは無関係にこの世に生まれ、自分の意志とは無関係に死なざるを得ない人間という存在の根源的な苦悩が「解決」されるわけではない)しかし、彼らのいう「闘争」が、この「市民社会」に生まれ、その中で生きることを余儀なく引き受けている人間すべてに対し、無差別に向けられたオウムのサリンと同調するものであるとするならば、その「闘争宣言」に対し、私は「正当防衛宣言」を返答として返すつもりである。
メディアに関わる者は自分の言葉に責任を真摯に負ってこそ、人々に自分の言葉を届かせる資格を有しているのであり、その責任を負わないものは自ら「資格」を外して静かに沈黙すべきである。逆に、「殺人肯定」の思想であろうとなんであろうと、自分の言説に徹底的に責任を負う覚悟があるなら語ればいい。ただし、その場合は一切のごまかしを排して、誤解の余地のない明晰な言葉でその論拠を述べるべきである。そしてもし、論拠を明らかにできないなら、それはただの呪言の独白に等しい。
万人にとって愉快なものとはいえないにしろ、否定しようもなく現存するこの「市民社会」を、不完全ながらも機能しているこの「法秩序」を、そしてこの世界の中で苦悶しつつも生きている人々を、ただただ唾棄し、呪うだけならば、己一人の心の中で呪えばよろしい。それは自由である。そしてその「呪い」が何を本人にもたらし、どう裁かれるべきかは、まぎれもなく「凡夫」であると自他ともに認める私の、あるいはその他の人々の関知や介入のおよぶところではない。それは文字通りの「外部」に委ねられるべきことである。
島薗 進(しまぞの・すすむ)
宗教学者、東京大学教授。1948年東京都生まれ。72年東京大学卒業。以来、宗教論、宗教運動論を研究し、とくに現場接近を重んじる。著書に『現代救済宗教論』(青弓社)、『オウム真理教の軌跡』(岩波書店)など。
山崎 哲(やまざき・てつ)
劇作家、演出家。1946年宮崎県生まれ。広島大学中退後、唐十郎の「状況劇場」を経て、「転位・21」を主催。「連合赤軍事件」「金属バット殺人事件」など、実際に起こった犯罪をテーマにした芝居を書きつづける。著書に『犯罪フィールドノート』。
吉本 隆明(よしもと・たかあき)
評論家、詩人。『試行』主宰。1924年東京都生まれ。東京工業大学卒業。著作に『言語にとって美とはなにか』(勁草書房)、『共同幻想論』(河出書房)、『心的現象論序説』(北洋社)、『ハイ・イメージ論』(福武書店)、『吉本隆明全集撰』(大和書房)、『吉本隆明全対談集』(青土社)、『大情況論』(弓立社)、『愛する作家たち』(新潮社)、『超資本主義』(徳間書店)など、多数。