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「Number 246」 1990.July 5

ベルリンの壁崩れて沈黙を破った

レニ・リーフェンシュタール「民族の祭典」監督

が語る”政治とオリンピック”




1936年ナチスの鉤十字旗がひるがえるなかで開催された第11回ベルリン大会はかつてない絢爛さで世界を圧倒し、その記録映画「民族の祭典」は喝采をもって迎えられた。しかしナチス・ドイツの崩壊とともに、ドキュメンタリーの最高峰と讃えられたこの作品はファシズムのプロパガンダ映画と貶められ、監督リーフェンシュタールにはナチ協力者としていわれなき中傷が浴びせられた。政治と芸術の狭間で数奇な運命をたどった一人の女性の真実に迫る。




 開いている車窓から、綿毛が舞い込んでくる。ドイツはいま、ポプラの種子が空を狭しと飛びまわる季節だ。ミュンヘン中央駅から乗ったS−BAHN(市街鉄道)は、初夏の青々とした木立の間を通りぬけてゆく。家並みは、その木々の間にゆったりと点在している。ドイツの地方都市はどこも、目に鮮やかな緑の森の中にある。
 もう半月ほどで、7月1日がやってくる。東西ドイツの通貨が統合され、国境の検問もその日を境に撤廃される。議会と行政府はまだ二つずつある、とはいっても、人と金と物は自由な往来を始めるはずだ。風に乗る気ままなポプラの綿毛と同じく。
 半永久的にそびえ立つかと思われた東西分断の壁が崩れ去って、まだわずか半年あまりにすぎない。あまりにも急な速度で進む変化に、ドイツ人自身も喜び以上にとまどいを覚えている。統合に対する期待と不安は、東西の市民の間では明らかにくい違い、政治家、資本家、労働者もそれぞれに思惑が異なる。そんな不協和音の中から忽然とわき上がってきたのが、統合のシンボリックなイベントとして、2度目のベルリン五輪を開催しようという大合唱だった。成り行きに従えば、2000年かあるいは2004年か、いずれにしろそう遠くない将来、実現されることだろう。統合に向かう求心力には、それを充分に可能にする勢いがある。
 レニ・リーフェンシュタールに会うならば今しかない、と思われた。
 21歳の年にノイエ・タンツ(新舞踊)の舞踏家として華々しく登場、女優に転じてのち、29歳にして女流映画監督となった世紀の才女。「天才」の名をほしいままにした彼女は、ベルリン五輪のドキュメンタリー「オリンピア」(邦題・第1部「民族の祭典」、第2部「美の祭典」)によって、名声を不動のものとした。そしてまたそれゆえに戦後、「ナチのプロパガンダに協力した御用監督」と、厳しい批判にさらされ続けてきた。
 ’70年代後半から、彼女はミュンヘンから30km余り離れた、シュターンベルク湖のそばの閑静な田園に家を構えている。晩年の安息を乱すのは、心苦しくもあったが、ひとつの時代が閉じようとする前にどうしてもたずねておきたかった。ベルリン五輪とその時代とは、何だったのか。2度目のベルリン五輪が開催されるなら、それは1936年とどう異なり、何が重なりあうのか。



私はナチ党員ではなかったし、
ユダヤ人迫害に賛成したこともない。
私が興味があったのは、”美”だけ



 まあ素敵。さっそく飾りましょ。僕が持参したバラの花束を手にして、レニ・リーフェンシュタールは艶やかな笑顔をみせた。華のあるひとである。思い描いていた硬質のイメージとは、ずいぶん違う。自分の年齢の約3倍、2年後には90歳になろうという女性をこう形容するのもいささかためらわれるが、チャーミングで可愛らしくすらある。
 写真の撮影は、許可されなかった。「130歳に見られるのが怖い」という理由からだった。元女優としての自意識は、今も健在である。かわりに若い頃のポートレートと、昨年パラオで撮影したものだという、数枚のスナップを手渡してくれた。「私のラスト・ピクチャーよ」と彼女は言った。
「毎日、とても忙しいわ」と、レニは微笑みを絶やさずに喋る。「タイピングをして写真を撮って、陸に上がってからもいっぱい仕事をこなさなくちゃいけないの。もう海には1300回くらい潜ってるわ。このまえキューバに行ったときは、毎朝深度50mまで潜ってたのよ」
 スキューバ・ダイビングは、72歳から始めた。今は、水中写真が仕事の中心である。書棚から写真集をひきだしてきて、頁を繰って見せる。なかなか本題に入れない。どこか振るまいが無邪気で天真爛漫なのは、富裕な中産階級の子女として生まれ、何不自由ない環境の中で育ってきた生い立ちゆえだろうか。彼女自身、1987年に上梓した自叙伝の中で、「幸福な子供」だったと述懐している。
「私は政治に全然関心がないの。昔も今も。私が興味のあることは、ただひとつ、美だけ」
 ナチスの依頼を受けてニュルンベルク党大会の記録映画を撮ったのも、つまりは政治にうとく、無知ゆえのこと。当時はそれがどのような意味をもつのか、理解できなかった、という。1935年に公開されたその映画「意思の勝利」は、彼女がナチスのシンパであると印象づける結果を招いた。
「でも、私はナチ党員じゃなかったし、ユダヤ人迫害に一度だって賛成したこともなかったわ。それに実際のところ、ヒトラーがどんなに恐ろしいことをしていたか、戦争が終わるまで全く知らなかったのよ」
 戦後、連合軍によって投獄され、ナチスとの関わり、戦争犯罪を追求された。約4年間にわたり獄中で辛酸をなめつくした末、ナチ党員ではなかったこと、ユダヤ人虐殺に荷担していなかったことが立証され、最終的に無罪の判決がいいわたされた。
「あの頃、ドイツ人は誰もヒトラーのことを疑ってませんでした。ナチスの政権が始まってわずか1年で600万人もいた失業者が激減したんです。短期間に生活はすごく良くなりました。戦争がこれから始まるなんて、誰も考えていませんでした。あの当時、ナチスに反対する人なんていなかったんです。誰ひとりとして!」
 40万人の群衆が集まった党大会の熱狂は、我々の想像を超えるものであったに違いない。ナショナリズムに対して無警戒でいられた時代、屈折もなく民族的昂揚に身をゆだねられた時代を、レニは見事に映像化してみせた。皮肉なことに、ベニスのビエンナーレは、このフィルムに対して金賞を贈っている。政治的無知とイノセントは、彼女だけのことではなかった。
「『オリンピア』の制作・監督を、ナチスから依頼されたというのはとんでもない嘘です。私はIOCの当時の会長、スイス人のメイヤー氏から直接依頼されたのです。私は自分のプライベート・カンパニーをつくり、トブスという映画会社から融資を受けて、あのフィルムを製作しました。ですからあれは、完全な個人映画なんです。私は今もコピーライトをもっています」

 そもそもオリンピックの開催地を決定するのはIOCである。そのIOCがベルリンでの開催を決めたのは、ナチスが政権をとる以前のこと。ナチスとヒトラーは、ベルリン開催の決定に際して、IOCに何ひとつ影響を与えていない、という。
「ヒトラーは『自分はオリンピックには関心がない』と、私に直接はっきりと言いました。彼は人種偏見のために、アメリカの黒人選手が活躍するシーンを見たくなかったんです」
 ヒトラーに面会を求めたきっかけは、彼女と宣伝相ゲッペルスとの「確執」だった。
『ドクター・ゲッペルスは、ことあるごとに私の仕事を妨害しました。開会式のとき、ヒトラーの挨拶を撮るために、主賓席にカメラを立てたんです。当時は、現在のような望遠もズームもなく、被写体のすぐそばにカメラを置かないと、アップが撮れませんでした。ところが、ゲッペルスは、カメラが邪魔だといって、私が許可を得て撮影しているにもかからわず、撤去を命じたのです。抗議してもききいれず、私が泣きだすと、国務大臣のゲーリングが慰めてくれました。結局、私はヒトラーに直接、直訴して、撮影の許可を得たのです。オリンピックには関心がないと彼が言うのを聞いたのは、そのときです」
 自叙伝の中で、レニはヒトラーやゲッペルスとの個人的な関係について告白している。それによれば、ヒトラーは彼女に対して一貫して好意を寄せ、ときに庇護者として振るまったこと、女性として彼女を求めたこともあったが、それは彼女が拒んだこと、また、ゲッペルスにも執拗に迫られ、強く拒絶したところ逆恨みを買って、以後ことあるごとに敵対視される羽目となったことなどが書き綴られている。
 こうした記述から、想像力をたくましくすることはいくらでも可能である。彼女はやはり、ナチスのコントロールを受けていたのではないか、と疑うこともできるだろう。また、彼女はヒトラーやゲッペルスの愛人だったと、外国のゴシップ・ジャーナリズムが書きたてたことも過去にあった。
 しかし、それらはやはり邪推ではないか。確証はない。が、社会性の欠如と裏腹の、彼女の愚鈍なまでの無垢は信じられてもいい、と思う。そしてそれゆえに、彼女が宣伝屋ではなく、天性の芸術家であることも。
「内容や素材は私にとって何だっていいのです。芸術家にとって大事なことは、そこから美を表現する手法、技術なんです」と、レニは言う。そんな話となると、いきいきと目を輝かしはじめる。
 競技場を俯瞰する映像を撮るため、小さな気球にカメラをくくりつけて飛ばしたが、いつも風に流されてうまくいかなかったこと、100m走者と同じスピードで併走するカタパルト・カメラを考案したが、IOCの許可が出なかったこと、映画史上初めて水中カメラを使用し、水泳や飛び込み競技のまったく新しい映像をつくりあげたこと、練習中のマラソンランナーに首から小さなカメラをさげてもらい、彼らの足元を映して、ランナーの孤独感や疲労感、ぎりぎりの緊張感を表現するのに成功したこと。
「選手がその試合をどのように感じているのか、ということ。それが私の一番の関心でした。緊張、不安、孤独、疲労、闘志、そうした心の微妙な動きを、肉体の動きと組み合わせて表現したかったのです」
 純粋な記録、純粋な報道としての映像は、念願になかった。それは週刊ニュース映画の役割である。彼女の狙いは「時間が経過しても、人びとの感動を呼び起こせるような芸術的映像」を創造することにあった。
 撮影ずみフィルムは、40万m、270時間分にもおよんだ。その中から「作品」となるカットを選びださなくてはならない。すべての競技、すべての国の選手の動きを、均等に映像化することは不可能である。大会終了後、1年半かけて1人で編集に取り組んだレニは、思い切ってフィルムを刻み、取捨選択をおこなった。



棒高跳びの決勝は、日が暮れたため
撮れなかった。そこで後日、
2人に頼んで再現してもらった



 円盤投げ、100m走、棒高跳び、水泳、マラソンと、競技の名前をあげ、それらをレニは「私にとって重要なスポーツ」と、評した。「なぜか、私は球技などのチーム競技や、フェンシングなどの対人競技ではなく、個人競技のほうに魅かれるのです。多人数で同時に動いている様子は、あまり魅力がない。1人で孤独に戦う競技のほうが、その肉体の動きや表情の変化、感情の揺れがはっきりあらわれますからね」
 分厚い写真集をめくりながら、印象深かったシーン、選手についてとりとめなく語る。
「忘れられないのは棒高跳びです。3人のアメリカ人と2人の日本人が、熾烈な競争を続けたために、決勝は夜になってしまった。当時のカメラでは、夜間撮影は無理でした。でも、それを撮れなかったのがくやしくて、私は後日、彼らに頼みこんで、もう一度、ファイナルの再現をしてもらったのです。試合の緊張感から解放されて休日を楽しんでいた彼らは、はじめ渋りましたが、最終的に引き受けてくれました。いざ、撮影がはじまると、彼らは次第に夢中になって、本番と同じような迫力のある映像を撮ることができたんです」
 この一連の場面は、西田修平、大江季雄の両選手の健闘もあって、日本人観客には忘れがたい印象を残すことになった。しかし、この夜間の死闘は、当事者による事実の再現とはいっても、シミュレーションであることには変わりない。総立ちとなって喝采を送る観客のカットも、アルバイトをやとって演技させ、あとから合成したものである。いわば”やらせ”なのである。同様の手法は、水泳での選手の表情のクローズアップ、マラソンでの足や影や、流れるススキの穂のシーンの挿入として用いられた。
 厄介なことは、いったん作品として完成されると、ドキュメントとシミュレーションの区別がつかず、映像上は違和感もなく、むしろより劇的な感動を与えるのに成功してしまうことだ。
 レニ・リーフェンシュタールのドキュメンタリーを評価するにあたって、困惑を招くのはたとえばそういう点であるに違いない。事実とフィクションの合成というこの方法が認められれば、ノンフィクションであるという看板のもとに、どのようにでも事実を歪曲することが可能となる。たとえばそれが、政治的な作品に用いられたとしたら----。
 事実にこだわる愚直なドキュメンタリー作家であれば、必ず躊躇するであろう、事実と虚構との間の深い溝を、レニはためらうことなく跳躍してしまう。芸術家の野蛮な無邪気さによって。
 むろん、我々が何かを「見る」ときに、完全に客観的であることはありえない。事実をいくら採集したところで、それだけではただ断片の集積にすぎない。ドキュメンタリーやノンフィクションがリアリティーを獲得するためには、常に事実の一定の切り捨て、視点の限定、バイアスのかかった再構成の作業を避けることができない。そこには作者の恣意が必ず介在する。であるからこそ、作者は、自己に対する批評を検証を怠ってはならないはずなのだ、と思う。

 「オリンピア」に描き出された選手たちは皆、美しい。誰もが邪心のない純粋な求道者であり、「より高く、より速く、より強く」というイデアに向かって進む以外に、何ひとつ心にとらわれがないかのようである。
 彼らは美しいと同時に、孤独である。レニがとりあげた個人競技の勝者は、団体競技の勝者と違い、その勝利を分かちあうチームメイトがいない。彼は何者かに勝利を祝福されなくてはならない。そのとき、画面にあらわれるのは国旗である。個を浮き彫りにすればするほど、それを包みこみ、讃える国家の存在が、大きく見るものに迫る。
 マラソンの金メダリスト・孫基禎(ソンキジョン)が、日章旗に対して頭を垂れているシーンも、彼の次のような告白を知らない限り、敬虔な祈りとしかみえない。
「優勝の表彰台で、ポールにはためく日章旗を眺めながら、『君が代』を耳にすることは耐えられない屈辱であった。私は思わず頭を垂れた。そして考えてみた。l果たして私が日本の国民なのかどうか。だとすれば、日本人の朝鮮同胞に対する虐待は、いったい何を意味するのだ。私はつまるところ、日本人にはなれないのだ」(『ああ月桂冠に涙』孫基禎著・講談社刊)
 マラソンは、「オリンピア」の中では、最もドラマチックなイベントとして、映画のクラインマックスに位置づけられている。翻る日の丸と響きわたる君が代。大日本帝国の栄光と孫基禎の勝利とが、結びつけられて描かれ、うなだれている孫の、胸のうちにある心情はスクリーンから理解することはできない。1940年、「オリンピア」が日本で初めて封切られたとき、列をなして映画館につめかけた日本人は、このクライマックスのシーンに胸をうたれ、満員の映画館の中でもらい泣きをする人もいた、という。同胞の健闘と、彼の日章旗への敬虔な祈りを目にして。
 レニは、印象深かった選手を思いだしながら、孫の名前をあげ、「そういえば彼は韓国人だったんですね、そうでした」とつけ加えた。
 彼女は当時、日韓併合の事情をよく理解していなかったに違いない。「オリンピア」のクライマックスシーンが、ナチス・ドイツの同盟国である日帝のプロパガンダを意図してつくられたと決めつけるのは、彼女がナチスの操り人形だったと断定するのと同様の短絡であると、重う。当時のナイーブなドイツ人や日本人と同様、彼女もまた、意識することなく時代の熱狂の中に巻き込まれていったひとりなのだ。

 2度目のベルリン大会は、どんなオリンピックになるのだろう。
 冷戦の間、東西ドイツは、多額の資金をオリンピック・アスリート育成のために投資して、スポーツによる代理戦争をエスカレートさせてきた。その過剰は、壁がとり払われ、敵が消失してから、どこへ向かうのだろうか。
 そう尋ねると、レニは質問の意味が分かりかねるといったふうに怪訝な表情をみせた。僕は、言葉を継いだ。
 東西ドイツは統合によって、社会の内部にいくつもの難問と不満を抱えこむことになる。すでに東ドイツでは企業の閉鎖と失業がすさまじい勢いで拡大しつつある。それを外に向かってそらすための政治的トリックの一つとして、たとえばオリンピックが利用されはしないだろうか。
 レニは小さくうなずき、きっぱりとした口調でこたえた。
「もし、近い将来、再びドイツでオリンピックが開かれたとしたら、新しい政治的な意味も入ってくると思います。民族が再び統一された喜びがあり、大きなお祭りをつくりたいという気持ちが、ドイツ人の中にありますから。今、ドイツ人たちは大喜びしているんです。でも、それは当然の喜びでしょ。ただし、他の民族には迷惑をかけません。他の民族の人たちは心配いりません。今のドイツ人はもう、戦争を望んでいませんから。不安はありません。みんな平和を望んでいるのです……」
 そう言いつつ、しかし彼女は断固とした口振りで、1936年のベルリンのオリンピックも政治的なオリンピックじゃなかった、第2次大戦とあのオリンピックとは何の関係もない、と幾度も繰り返した。
「戦争の危険はいつでもある。もし’92年のバルセロナ五輪のあと、2年後に戦争が起きたとしたら、バルセロナ五輪の価値は失われてしまうのですか!? それはおかしいでしょ。1936年のときは、それから2年後に戦争が始まるなんて、誰も知らなかったんです」
「ベルリン五輪が、ナチのプロパガンダに悪用されたなんて大嘘よ。それこそプロパガンダだわ。どこの国で開かれても、いつ開かれても、オリンピックはオリンピックよ。ベルリンがナショナリズムのプロパガンダだとしたら、ロスも同じでしょう。モントリオールもメキシコも東京も、全部同じことだわ。ソウルの開会式は本当に素晴らしかった。でも、あれも韓国という国のアピールでしょ。それを誰も非難しないじゃない。あれとベルリンとどこが違うっていうの。私には分からないわ」
 そう。彼女のいう通りだ。ベルリンだけを断罪しておきながら、ナショナリズムとオリンピックの関係について、我々はいまだに誰も答えを出していない。



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