「ゼロサンTokyo Calling」 1990 4月号 新潮社
「大問題だよ」と、ジェラルド・ムリストは顔を小さくしかめ、声をひそめて言った。
牧師が聖書の一節を読みあげている。地下室の広さは学校の教室ほどで、その片隅で小声で話をしていると、授業中に私語をかわす高校生のような気分になる。
「なぜ?」
僕もまた、声をひそめて問い返した。意外だった。ベルリンの壁が崩れたことについてどう思うか、と僕は問いかけたのだ。
「なぜなら」と、この19歳のパンクスは、その風体に似つかわしくない、繊細な口調で続けた。
「今でも失業者がたくさんいるし、住宅難なのに、この上東ドイツから人が来たら大変なことになる」
彼らに職をとられることを怖れてるわけ?
「そうじゃない。新しいトラブルが始まることを怖れてるんだ。東ドイツ人は東へ帰れ、と言い出す連中もでてくるだろう。それ以上に、トルコ人をはじめ、この国で働いて暮らしている外国人に圧力がかかる。新しい差別や対立が始まるのが心配なんだ」
昨日の晩、ビアホールで知り合ったフランクフルト在住の日本人銀行マンの話を思い出した。西へ脱出してきた東ドイツ人が、こちらの社会に適応できず、ノイローゼに陥るケースが続出している。最近も、3年がかりでつくったオペラハウスに東ドイツ人が放火する事件が起きたばかりだ、と「彼は言った。
"壁"が崩れたことをドイツ人はみんな建て前では歓迎してるけど、本音はどうかなあ。東への投資については西ドイツの銀行はさすがに積極的だけど、ロンドンのシティあたりは冷静だしね。まあ、うちなんかも様子見ですねぇ……。
「問題はそれだけじゃない」と、ジェラルドは続ける。
「東西ドイツが統一されれば、人口は8000万人、経済力も軍事力もヨーロッパの他の国より圧倒的に強大なパワーになる。これは他の国々にとって、脅威だよ。だいたいドイツはビスマルクからヒトラーまで、一つに統合されるたびに、大きな戦争を引き起こしてきた。第一次大戦もそうだし、第二次大戦もそうだ。今度もまたきっと、ナショナリズムが力をつけてくる。現在でも、小さいファシストのグループはたくさんあるんだ。ネオ・ナチは若い世代にもいる。たとえば極右の共和党なんかは急に支持者が増えていて、東ドイツにまで入りこみはじめてる。すごく不安だよ。僕はベターなのは、ドイツは二つの国家のままでいることだと思う。僕らはアンチ・ファシズムだ。パンクスはみんなそうさ」
隣の席の中年男が、せき払いをして注意を促す。僕らはしばらく黙って、牧師の説教に聞き入るふりをした。
1989年のクリスマス・イヴのベルリンは、思いのほか静かだった。西ベルリン最大の繁華街、クーダム通り周辺は、クリスマス用の電飾にいろどられ、それなりに美しく、華はあるものの、いまひとつ高揚に乏しいように思われた。もっとも聖夜をバカ騒ぎの口実にしているのは、不信心な極東の東洋人くらいのものかもしれない。
西ベルリンの中心地ZOO(ツォー)駅の前には、ネオ・ロマネスク様式の尖塔が、第二次大戦の戦火によって焼かれ、破壊された姿そのままで、のっそりと建っている。東西分断の象徴である"壁"がベルリンの外殻なら、戦争に対する悔悟と内省を濃厚にとどめおくこの廃墟は、戦後ベルリンのいわば心臓にあたる。悲劇の記憶こそがまず、この街の存在証明なのだ。
カイザー・ヴィルヘルム記念教会という名のその廃塔のまわりを、クリスマス・マーケットの夜店が取り囲んでいる。つかの間の夢のような雑踏のにぎわいに身を置いて、暗い夜空にそそりたつ塔をあおぎ見ながら、東京に同様の廃墟があるか、と考えてみる。思い浮かぶのは、地上げ屋が跳梁跋扈したあとのマンション建設予定地か、近未来の「廃墟感覚」とやらを取り込んだポスト・モダン建築のいずれかだ。「高度資本主義」という名のブルドーザーが、戦争の記憶を更地にしてゆく。忘却は侵略国当事国には許されないことではないのかという疑念が、ふと頭をもたげる。
塔の隣には、新しく建てられた青い八角形の礼拝堂が建っている。そこでは一般のミサとは別に、地下室でホームレスや失業者のためのささやかなパーティが開かれるときいて、僕はそちらに加えさせてもらったのだった。
もてなしは、温かく、心なごむものだった。牧師と数人のソーシャル・ワーカーたちが、紅茶と手焼きのクッキーと慈悲深い笑顔でゲストを迎えてくれる。パーティの参加者たちは、おおむね、疲れと老いが深くシワに刻まれた中高齢者たちだった。東ベルリンの人間も少なくない。そして、そんなホームレスや失業者たちにまぎれて、おとなしく静かに紅茶をすすっていたのが、髪を赤く染め、穴のあいたジーンズをはいたジェラルドだった。
「僕はベルギー生まれ。今でも国籍はベルギーだよ」
ほら、といって彼はパスポートを見せた。10歳のときに両親と一緒にドイツへ移住してきたのだ、という。
「僕らのような外国人は珍しくはない。ベルリンにはいっぱいいるよ。そして、もしファシストたちが力をつけてきたら、一番はじめに狙われるのは僕たちのような外国人なんだ」
牧師の説教のあと、パーティの参加者たちがひとりひとり立ち上がって、短いスピーチをした。
今年のクリスマスは、私たちドイツ人にとって最高のクリスマスです。あの呪わしい"壁"が崩れ、私たち同胞が自由に出会えるようになりました。これも神の御業です−−。
中年の女性が、胸の前で手を合わせて切々と語ると、拍手が起きた。
「僕はクリスチャンじゃない。ここにいるのは、金を使い果たしてもう行き場所がないからなんだ」苦笑しながらジェラルドは言う。
「僕はあらゆる宗教を信じてない。資本主義も共産主義も信じてない。僕が信じているのはヒューマン・ソシアリズムだ。ヒューマン・ソシアリズムがベストな社会だと、僕は信じている」
教会とパンクと人間の顔をした社会主義。手術台とミシンとこうもり傘みたいな組み合わせだ、と思った。
パンクと出会ったのは、ローティーンの頃だ。セックス・ピストルズ、デッド・ケネディーズ、クラスなどにたちまちのめりこんだ。ベルリンのバンドでは、ノイバウテンやイデアルから影響を受けた。現在はBCBというバンドを組んで、ヴォーカルとギターを担当している。たまにアンダーグラウンドの小さなホールでギグをやるが、レコードを出せる見込みはまだない。仕事はときどき、翻訳のアルバイトをするだけで定収入はない。貧困は免れがたく、今はガールフレンドのアパートにもぐりこんでどうにかしのいでいるという。なぜガールフレンドと一緒にイヴを過ごさないのかは尋ねなかった。人にはそれぞれ事情がある。
夜の9時。賛美歌を歌い、聖書を読み、神の恵みに感謝の祈りを捧げる会が終わると、敬虔な信者たちは、教会がおみやげに用意したケーキを、それぞれ2個も3個も持って帰ろうと先を争いはじめた。その中のひとり、東ベルリンのホテルで皿洗いの仕事をしているという45歳の女性はこう言った。
「西と東の一番の違いは、西には秘密警察の連中がいないってことよ。それから西側って物が何でも高い。私たちのおカネじゃ何も買えない。もちろん西と東じゃ収入も違うけど、仕事を見つけるのはそんなに簡単じゃないし、住宅難でアパート探しも大変だっていうじゃない。私はだから東の方がいいわ」
失業がないはずの東ドイツで、なぜか無職の55歳の男性−−。
「大問題は為替だよ。今、東ドイツマルクと西ドイツマルクの相場は1対15だ。めちゃくちゃだよ。東ドイツの経済は押しつぶされるんじゃないか。何万人も西側へ出ていったけど、あれはみんな若くて元気な連中だけさ。彼らは西側の競争社会の中でも生きていける自信があるんだろう。でも、私には無理だ。もう若くない……。これからが不安だよ。東ドイツも資本主義の競争原理を取り入れるだろう。そうしたらまっさきに首を切られるのは年寄りだ」
西ドイツ政府から支給される歓迎金はもらったけれども、100マルク(約8,800円)では何も買えないと愚痴をこぼす。もし、金が充分にあったら何が欲しいの、と尋ねると、全員が日本製のラジカセやカラーテレビだ、と口をそろえた。
ジェラルドと一緒に教会を出た。ビールを一杯おごるという約束で、彼にパンクスの集まるカフェへ案内してもらうことにした。彼のあとについて、U-BAHN(地下鉄)に乗りこむ。
ベルリンには、夜のU-BAHNに乗ってみないとわからない表情がある。失業者、ホームレス、アル中、ジャンキー……。ベルリンの地底には資本主義のはらむ闇がよどんでいる。「資本主義のショーウィンドウ」といわれ、消費文化の厚化粧を塗りたくった昼間の顔とは別の、暗く沈鬱にうつむく表情が、そこにある。
ジェラルドの行きつけの店には、30人ばかり髪の毛を立てた彼の仲間たちがたむろしていた。何をするというのでもない。所在なげにビールをあおり、ビリヤードに興じ、あとはおおむね押し黙っている。バックにはハードコア・パンクが大音量で流されてはいたが、そこは奇妙に静かな場所だった。
この街も、僕もこれから変わる。
ジェラルドはそう言いながら、ビールをゆっくり飲んだ。でも、どう変わるのか、よく分からない……。
僕も彼も、しばらく何も言わずにビールを飲み続けた。"壁"という大前提が突然崩れ落ちて、今までのベルリンを成立させていたさまざまなものが失われた。しかしポスト冷戦の世界は、まだ姿を現していない。そのエアポケットの中で、彼らはみんな途惑い、行き暮れているように見えた。
日本の経済力は強すぎるよ、とジェラルドは言った。特に車。いま、'92年のEC統合を前にして、日本の自動車メーカーの工場がヨーロッパの中に次々建っている。仕事も増えるし、税金も払ってくれるからヨーロッパの経済にとっては良いことなんだろうけど、でも10年後にはヨーロッパ全体が日本経済の一部になっちゃうんじゃないかって、みんな内心恐がってるよ。
ジェラルドは、リクルート事件や政界におけるウーマン・パワーの台頭まで知っていたが、天皇崩御については知らなかった。興味もあまりなさそうだった。
「ところで」
と、彼はビールを飲み干した後、僕に尋ねた。
「日本にもパンクはいるの?」
いるよ、もちろん。
「ふうん、彼らはどんなポリシーを持ってるの?」
言葉につまる。彼の尋ねているのはむろん、きわめて具体的でストレートな政治的ポリシーのことだ。しかし、そんなバンドが、パンクに限らず今の日本に存在するのだろうか。
よく分からないな。たぶん、ない、と思う。
僕がそう言うと、彼は肩を小さくすくめてみせた。
東でも西でも、とにかくベルリンにいま足を踏み入れると、実に不思議な光景を目にすることができる。ベンツ、BMW、アウディなどの西独製の高級車と、ソ連製のラダ、東独製のトラバントなどがすれ違い、あるいは並走するシーンである。工業力の格差を、こんなに極端な形で見せつけられる光景は、そうざらにはないだろう。
とにかく、ラダやトラバントのオンボロさといったら、日本人の想像を絶するものがある。その馬力、走行性、居住性とも、ほとんど玩具に等しい。ボディは金属ではなくプラスチックと合板でできていて、中には穴のあいた土手っ腹にビニールをかぶせて、平然と市中を走っている車もあるくらいだ。
だが、こんなオモチャを購入するために、東ドイツの国民は12〜17年も待たなくてはならない。車を購入する申し込みの権利がもてるのは、18歳になってから。手に入るときには30歳を過ぎている。しかも価格が異常に高い。トラバントが約2万東ドイツマルク。ラダが約3万東ドイツマルク。東ドイツの労働者の平均年収の2倍から3倍近い。これが中古車になるともっと高くなる。正規の申し込みでは待ち切れない人が、プレミアムをつけて購入するためだ。
技術力や工業力の格差が集約されて表れるのは、エレクトロニクスの分野でも同様である。そしてこの分野では、少々ヨーロッパ人が気の毒になるほどに、メイド・イン・ジャパンが他を圧している。歓迎金の100マルクを手にした東ドイツ人たちが、まずのぞきこむのは日本製のAV製品が飾られているショーウィンドウであり、そしてその値段の高さに一気に嘆息し、肩を落とす。
メイド・イン・ジャパンを断念した者は、西ベルリン市内のディスカウント・ショップへ足を運び、台湾や韓国などNIES製の安い製品を買うか、いっそウォークマンもラジカセもきっぱりあきらめて、洗剤やチョコレートを買い、バナナを食べ、ハリウッド映画を割引で観る。
どうしてもあきらめられない場合は、闇マルクに手を出すしかない。東ベルリンのフリードリッヒシュトラッセ駅には、そんなあきらめの悪い人間が群れをなしていて、盛んに外国人にチェンジ・マネーをもちかける。
「西ドイツマルクを持ってる? ドルや円でもいいよ」声をかけてきたのは、銀縁眼鏡をかけ、カシオの電卓を片手にした17歳の高校生だった。ひょろりと背が高く、まだ幼い顔つきの彼は、シャープ製の600西ドイツマルクのラジカセがどうしても欲しくて、歓迎金の100マルクでまずスニーカーを買い、残った51マルクを元手に"ビジネス"を始めた、と言った。フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドとジェニファー・ラッシュのファン。カオマも好きだという。東ベルリンのディスコでランバダが流行する日がくるのだろうか。
ハードとソフトは、もとより常に足並みをそろえて普及するものである。ラジカセとともに、西ベルリンで、レコードを買っていく東ドイツ人も少なくない。クーダムのヨーロッパ・センターのレコード店の主人は言う。
「東ドイツ人の購買傾向は二つに分かれるね。ひとつは定番志向。ビートルズとかローリング・ストーンズとかピンク・フロイドとか。こういうレコードを買うのは30代以上が多い。逆に20代以下は、西ドイツのヒットチャートをそのままなぞって買ってゆくね。いまはフィル・コリンズとトレイシー・チャップマンが一番人気ある。他には、ペーター・マファイ、ハーバート・グローネンメイヤー、ウド・リンデンベルク、ウエスタンハーゲンそれからネーナかな」
そもそも、東ドイツ国民と西側の間に情報落差はほとんどない。西ベルリンのテレビやラジオの電波は、東ドイツのほぼ全域で受信可能だからだ。その点では、西側の情報にアクセスしにくい他の東欧諸国と東ドイツでは大きな差がある。西ベルリンという街は、社会主義国に浮かぶ「資本主義の孤島」であると同時に、ワルシャワ条約機構の中に埋めこまれた西側の電子メディア・ネットワークの端末でもあるのだ。
西独製の車、日本製のAV製品、英米のロックとハリウッド映画。社会主義国の人々に大規模なエクソダスをもたらした「資本主義の魅力」とは、これらの世界的な普遍性を持った商品であり、マスカルチャーなのである。それにもうひとつポルノグラフィを付け加えることができるかもしれない。言うまでもなく、資本主義社会は避けがたい必然として性をも商品化する。免疫のない東側の人間にとってはこの"魅力的"な商品の誘惑はあらがいがたく、クーダムにある「ベアト・ウーズ・インターナショナル」というポルノ・ショップには、昼間から東ドイツ人たちの長蛇の列ができる。
トーマス・ディートリッヒと会ったのは、クリスマスの日の夕方、そのポルノ・ショップの前だった。よれよれのジャンパーにGパン、ザックを肩にかけ、ウォークマンのヘッドホンを耳にあてた彼は、ポルノ・ショップの列には加わらずに、道のまん中に一人ぽつんと立ちつくし、ヌードの描かれた店の表看板をぼんやりとながめていた。その力の抜けきった、無防備な背中が気になって、僕は彼に声をかけた。
歳は21。職業はウェイターだった、という。
「3日前にこちらへ来たばかりだから、いまは仕事はまだないんだ。ここで働きたい、ここで暮らしたいと思ってる。西側へきたのはもちろんはじめてだけど、西と東じゃ何もかも違うね。昼と夜くらい違う。東は監獄だよ。国全体がひとつの監獄なんだ。壁がなくなって、ようやくここへくることができた。本当に嬉しいよ」
西ベルリンへ来て彼が一番最初にしたことは、歓迎金の100マルクでウォークマンを買うことだった。まず45マルクの台湾製を手に入れ、残りの金で、西ドイツの人気歌手ニッキィをはじめロックやポップスのカセットテープを買った。
失業者、というよりは"難民"の彼にとって、100マルクは当面の飢えをしのぐための貴重な資金のはずだ。それをこんなふうに使ってしまって大丈夫なのだろうか。
「まず、ロックを浴びるほど聴きたかった。すべては、それからだよ」
ということは、このウォークマンは君にとっちゃ自由のシンボルってわけだね。
「まあ、そんなもんだね。そう、自由のシンボルといえば、もうひとつある」
そう言って彼はポケットから紙切れを一枚取り出した。「釈放証明書」とそこには書かれていた。
何だい、これ?
「刑務所にいた証明書さ。政治犯として放りこまれていたんだ。12月21日、つまり4日前に自由になって、出獄したばかりなんだよ」
驚かないわけにはいかなかった。東ドイツは監獄だと言った彼の言葉は、ただの比喩ではなかったのだ。ともかく、くわしい話を聞くために、僕らはマクドナルドへ入った。
ビッグマックにフライドポテト、そしてコーヒー。何ということはないメニューだったが、はじめて口にするアメリカの味を、彼はとても素直に喜んだ。
おいしい?
「うん、おいしい」
にっこりと笑う。卑屈さのない自然な笑顔だ。
はじめて捕まったのは、'84年のことだった、と彼は語りはじめた。
単独で東ドイツからチェコへ抜けて、第三国から亡命しようとした。しかし、綿密な計画があったわけではない。国境警備の厳重さについて、あるいはさまざまな脱走のテクニックについて、まるっきり無知だった。無理もない、そのときはまだ16歳だったのだ。結局、あっさりと列車の車中で逮捕され、1年半、刑務所に入れられた。
出獄してから、レストランのウェイターの仕事についた。このときはすでに、徹底的な反政府主義者になっていた。組織的な地下運動にコミットしたわけではないが、ホーネッカー政権への敵意と不信を隠そうとはしなかった。そしてそれは当時の東ドイツにおいては、充分に「犯罪」として成立する所業だった。
'88年の6月のある晩、勤務先のレストランで、終業後に仲間の従業員たちとひとしきり雑談にふけった。そしてそこでまた、いつものように彼は、政府批判を口にした。
秘密警察が、彼のアパートの部屋をノックしたのは、その翌朝のことだった。うむを言わさず彼は連行され、形式的な裁判によって「保険証偽造」という罪がデッチ上げられて、再び刑務所に叩き込まれた。
「刑務所での生活は、2回とも似たようなものだったね」と、彼は淡々と話す。やせこけた頬ににこやかな笑みをたやさず、まるで遠い昔を回想する油の抜けきった老人のような落ち着きぶりである。
朝は4時に起床、朝食はパンとマイルドコーヒーのみ。午前5時半から夕方の4時まで、1時間の昼休みをはさんで、9時間半の間、工場で電器部品をつくらされる。年間を通して休日はなし。週に1度だけシャワーを浴びることが許されるが、真冬でも冷水しか出ない。就寝は8時。8時間眠ることだけは、どうにか許された。
その刑務所に収容されていた政治犯たちは2,800人。完全にオーバーキャパシティだった。彼のいた部屋は12人部屋だったが、18人詰めこまれていた。
感情の浮き沈みをみせない彼が、一度だけ表情をくもらせた。恋人の話をしたときだ。
「2回目に刑務所に入れられてから、彼女は、手紙をくれなくなった」
そう言って、視線をテーブルに落とし、ひと言、英語でつけ加えた。
「I LOST HER」
刑務所の外での民主化の動きは、塀の内部にも伝えられた。彼らもその動きに呼応する形でハンストを決行、アムネスティに訴えた。政府がついに政治犯の釈放を決定したのは、ホーネッカーが辞任してから1カ月近くたった12月6日。漸次釈放がはじまり、彼は21日に出獄した。
「家には帰らなかった。連絡もとってない。家には両親と4人の妹がいる。僕が帰ったら迷惑がかかる」
ということはつまり、東ドイツ政府が民主化されたとは信じてないんだね?
「まだね。わからないもの。自由選挙が行われて新しい政府が選ばれたわけじゃないし。僕はそんなに簡単に、あの国が変わるなんて信じてない」
店が混んできた。僕らは表に出た。12月の風は刺すように冷たく、容赦なく体温を奪う。
これからどうするの? あてはあるの?
「寝ぐらならあるよ。あそこさ」
そう言って彼は駅を指さした。駅の構内で夜を明かすのだ、という。
たぶんもう会うことはない。そう思うと感傷的になるのを避けられなかった。ふと思いついて、別れ際、新品の乾電池をまとめて手わたした。これでたぶん、しばらくはウォークマンで好きなロックを聴き続けることができる。
「ダンケシェン」
彼はあくまで潔く微笑み、再び壁のこちら側の、もうひとつのベルリンの闇の中に消えていった。
ニールス・ガイヤーに会ったのは、1月の中旬、再びベルリンに戻ったときだった。クリスマス休暇の終わった街は落ち着きをとり戻し、チェックポイント・チャーリーに並ぶ列もずいぶん短くなっていた。
ニールスは、"ディ・ヴィジョン"というバンドのリーダーである。25歳。10年前は、彼もパンク少年だった。今は「パンクをやるには、もう若くない」と堪能な英語で語る。
「ノイエ。ドイチェ・ヴェレ(ジャーマン・ニュー・ウェイヴ)なんて、もう10年も昔の話だよ。僕らは、ポスト・ポスト・ニュー・ウェイヴの世代だ。影響を受けたことは認めるけど、それがすべてじゃない。僕らは80年代の社会状況全体に影響されてきた。政治的な状況はもちろん、音楽的にいえば、アメリカのダンス・ミュージックの新しいトレンドにも影響を受けていると思う」
彼とはじめて会ったのは、東ベルリンのはずれの、工場と住宅が雑然といりまじる一角にある。小さな金属加工工場だった。その工場のオーナーが彼のガールフレンドの父親でその父親の許可を得て、工場の中にある大きな冷蔵庫を、バンドの練習のために使わせてもらっているのだという。
「ここは元は魚加工工場だったんだって。この冷蔵庫はその頃魚を冷蔵しておくのに使っていたんだ。ところが、"壁"ができてから、新鮮な魚が手に入らなくなっちまった。それで金属加工の工場に模様替えして、この冷蔵庫は倉庫がわりにしてるってわけ」
さまざまな道具類の中に混じって、マルクスとレーニンの全集がずらり並んでいるのが目をひいた。
「倉庫にいらないものをしまい込むことになって、一番はじめに放りこまれたのがこの全集なのさ」
そう言って彼は、いたずらっぽく笑った。
彼が率いる"ディ・ヴィジョン"が結成されたきっかけは、'83年に西ベルリンで行われたデヴィッド・ボウイの野外コンサートだった。壁を越えてボウイのヴォーカルと観衆の大歓声が聞こえてくる。東ベルリンの若者たちは壁のぎりぎりまで近づき、付近の建物の屋根や塀にのぼろうとした。
「僕も屋根にのぼった。観客の頭だけ見えたよ。そこで警察に引きずりおろされた」
警察に追い散らされ、こづきまわされた悔しさと、聞こえてくる音楽までは取り締まれないのだという確信が、本格的にバンドを組むことを彼に決断させた。
僕が"ディ・ヴィジョン"に興味を覚えた理由はふたつある。ひとつは、東ベルリンのバンドとしては、"壁"が崩れてから以降、おそらく最も早く、西ベルリンでレコードをリリースすること。
ふたつめは、彼らが英語の歌詞しか歌わず、そのために今までずっとアンダーグラウンド・シーンにとどまり続けていたことだ。
「ホーネッカー政権下の東ドイツでも、レコードを出そうと思えば出せたんだ」
負け惜しみで言うのではないと前置きして、ニールスは言う。
「東ドイツでは、この10年くらいの間にロックに対する規制が少しずつ緩和されてきて、政府のライセンスさえもらえれば、ホールやクラブでライヴもやれるし、レコードをも国営のレコード会社から出せるようになってきていたんだ。でも、そのためにはいろいろ規制をパスしなくちゃならない。その規制のひとつに『歌詞はすべてドイツ語であること』という項目もあった。馬鹿らしいが、それをのまなきゃライセンスはもらえない。でも僕らはドイツ語で歌うことを断固として拒否したんだ。当時、政府からライセンスをもらっておきながら、今頃になって『僕はプロテストソングを歌ってたんだ』なんて言ってる奴がたくさんいるけど、そんなのはニセモノだよ」
なぜ、そこまで英語にこだわったの、と僕が尋ねると、即座に「プロテストさ」とこたえた。
「東ドイツというクローズした国に対する抵抗さ。ロックはたしかにイギリスやアメリカで生まれたけれど、今では世界共通の文化でしょう。僕らにとって英語でロックを歌うということは、世界に向かって開かれたコミュニケーションを求めることなんだ」
公的活動を禁じられた彼らは、地下に潜った。活動の主な拠点は教会だった、という。11月の東ベルリンでの100万人デモを組織した民主化運動団体のノイエス・フォーラムも、その拠点を東ベルリンのメッセゲナ教会に置いていた。教会は、東ドイツ内における民主化運動の拠点であると同時に、ロックを含むさまざまな抑圧された表現活動の保護者でもあったのだ。
「僕は、本当は英語教師になるつもりだったんだ」
そのはずがロック・ミュージシャンとなったのは、大学の必須科目のマルクス・レーニン主義の授業をボイコットしたためだという。
ゴルバチョフのこと、どう思う? 唐突に尋ねてみた。西ベルリンの空港の売店で、バットマンの格好をしたゴルバチョフのTシャツを見つけて、ここまでゴルビーはアイドル化されているのかと驚かされたことが、僕の頭の片隅にあった。
「支持してるよ、もちろん! 当たり前だよ」
何を今さらといわんばかりに、彼は語調を強めた。
「ポーランド人でも、チェコの人間でも、誰でもいい、東欧の人間に訊いてごらん。みんな、どれだけソ連を憎んでいることか。それがゴルビーの登場によって、すべてが一変したんだ。彼がいなきゃ、ベルリンの壁もきっとまだそのままだったろう。彼こそは、僕らの希望だよ」
冷蔵庫の練習場をたずねてから数日後、西ベルリンのノーレンドルフプラッツ駅の前にある、ロフトというライヴハウスへ、彼らのギグを見に行った。その夜、ブッキングされていたのは3バンド。"ディ・ヴィジョン"の出番は2番目だった。開演時間に少し遅れて到着したときには装飾の一切ない、がらんと殺風景で無愛想なその店はすでに、100人ほどの客で埋まっていた。革ジャンを着た黒っぽい服装の客がほとんどだったが、モヒカンあり、ロングヘアあり、スキンヘッドありとヘアスタイルは多様で、客層は一様ではなかった。
「僕らは"ディ・ヴィジョン"。オースト・ベルリンからやってきた。よろしく」
MCは短めに、歯切れよく曲に入ってゆくと、すぐに客も呼応して跳ねはじめる。
国境なんて知らない
すべてを知りたい
あの空はどこにでもあるのか
どこへでも僕はゆく
「マイホーム・イズ・エヴリウェア」という曲では、"壁"崩壊以後の、外へ向かって解き放たれてゆく精神の針路を、疾走感あるビートに乗せて歌う。どこか、泥くさい響きは残ってはいる。だが、いいか悪いか、好きか嫌いかは別として、絶望の淵に沈殿して、ともすれば自虐に傾きがちだったこの街の気分を、彼らは少し軽くしては暮れる。
有望なバンドは7,8グループある。僕らもその中に入ってはいると思う。もし成功することができたら、ニューヨークとロンドンと東京でライヴをやりたいな−−そう夢を語るニールスに、僕は冗談半分で、成功したらベンツに乗りたいかい、と訊いた。
「まさか! 考えたこともないよ。ベンツは高すぎる。僕にはトラバントで充分だよ。成功してもしなくても、僕らのアイデンティティは東ベルリンにある。この街の状況から遠く離れることだけはありえないよ」
彼らが"成功"するかどうかなんて、正直なところ僕にはまったくわからない。英語で歌うことが、彼らの商品化をはやめ、プロテストという出発点を見失わせる逆説的な結末もありえるだろう。
ただこれだけはいえるかもしれない。彼ら東欧のアーティストたちは−−まだ見ぬ無名の若者を含め−−間違いなく「時代の子」である、と。政治と音楽の状況がシンクロすると信じるほどナイーヴではないが、時代の刻印を背負った者は、ときとしてとてつもない影響を世界に与えることがあると僕らは知っている。