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「正論」 2003.Feb. 産経新聞社

日本人が消滅する日

”戦火なき有事”を前に、われわれはどうすべきか



[第5回]

総人口・若年人口が減少する一方で高齢者人口は激増していく。"老老介護"の時代は社会をどう変える。



 デフレの暗雲が、全世界を覆い始めた。
 IT株価バブルが弾けるとともに、「好況が永続する」という、90年代の「ニューエコノミー」の幻想があっけなく費え去った米国では、消費が急速に冷え込み、物価の下落が始まった。いったん、物価が下がりだすと、「デフレ期待」のメカニズムが作動し始める。消費者は耐久消費財の購入を先送りし、売り上げが減少した企業は、商品の値下げと、リストラで応じる。そのため雇用不安に脅える家計は、ますます消費を控えるという悪循環に陥ってしまう。事実、米国の失業率は今年の11月に入って6%にまで上昇した。
 「このままでは、日本の二の舞になる」と、危機感を募らせた米連邦準備会(FRB)は、大幅な利下げの可能性に再三言及し、「デフレ退治」の決意を表明しているが、楽観は許されない。何しろ、今回のバブル崩壊で失われた富の損失額は、現時点で判明しているだけで約10兆ドル(約1千2百兆円)にのぼるとされる。1929年のウォール街の大暴落を上回る、史上最大の株価暴落の傷はあまりに深く、大きい。
  日米とともに、世界経済の三極をなす欧州も、デフレ不況にのみこまれつつある。とりわけ欧州経済の中核をなすドイツで、その影が色濃い。ドイツ政府は、10月に今年の国内総生産(GDP)の成長率の見通しを、0・75%から0・5%に下方修正した。物価上昇率の今年の展望値は〇・四%。景気後退と物価下落(デフレ)が、同時に押し寄せてきていること、その直前に株式市場と不動産市場のバブルが弾けた点で、ドイツも、日本の情況に酷似している。ドイツの場合、89年11月のベルリンの壁崩壊と、翌90年10月の東西ドイツ統合以降、未曾有の建築ブームが巻き起こったが、投下された資本の多くは、今や不良債権化しつつあるという。統合の代償は、小さなものではすみそうにない。
  「ドイツと米国は、10年前の日本に似てきた」と、英のエコノミスト誌は書き、両国が日本と同様「デット・デフレーション(債務デフレ)」に陥る危険性について言及している。「デット・デフレーション」とは、債務を抱えたまま、経済がデフレに突入すると、債務返済の実質的な負担が自動的に肥大してゆく現象を指す。最悪の場合、財政破綻に陥ってしまう。命名者は米国の経済学者のアーヴィング・フィッシャーで、彼は1930年代の大恐慌を分析して、この概念を析出した。
  「デット・デフレーション」という言葉は、今日の経済論壇では流行語のように用いられているが、実は、つい最近まで、死語に近い扱いを受けていた。実際、十年くらい前に出版された経済学辞典などには「デット・デフレーション」も、訳語の「債務デフレ」という言葉も載っていないことが多い。長らく「デット・デフレーション」は、新古典派の金融財政政策によって克服された、資本主義の「過去の病理」であると見なされてきたためである。克服したはずの「病理」が、大恐慌時代の亡霊のように、約70年の時を経て、現代に蘇ってきたのだ。
  本連載の第三回目で指摘したように、バブル崩壊以降の日本の情況は、70年前の時代に、まるでトレースしたかのように、気味の悪いほど重なりあう。しかし実は、70年前の「亡霊」に取り憑かれていたのは、日本だけではなかったのである。デフレの脅威は、グローバルな現象であることは、今や誰の目にも明らかになりつつある。


超高齢化という「巨大な氷山」


 問われているのは、時代認識である。一九三〇年代の大恐慌時代と現代のマクロ経済状況が重なりあうこと、そして世界を震撼させた昨年の「9・11同時多発テロ」以降、血なまぐさいテロルと戦争の脅威が現実になってしまったこと、その二点をもってして、単純に「歴史は繰り返す」とつぶやくことは、時代を見誤ることになる。1930年代と現代とでは、決定的に異なる点がある。人口動態である。
 明治維新以降、近代化とともに右肩上がりの人口増加が続いていた日本の年齢別人口構成は、1930年代には年少人口が多く、老年人口の少ない正三角形の人口ピラミッドを形成していた(図A参照)。だが、第二次大戦後、他の先進諸国に先駆けて避妊と中絶による産児制限を合法化し、同時に医療技術の進歩や公衆衛生の普及等によって寿命が伸びたため、多産多死から少産少子へと劇的に「人口転換」を遂げた。今後は老年人口の方が圧倒的に多い逆三角形の人口ピラミッドを描くようになる。人口増加圧力から、領土や資源を求めて外地へ進出していった70年前の「若い日本」と同じ行動を、人口が減り、経済活力が衰えた「老いたる日本」がとるとはまず考えられない。
 同じことは、他の先進諸国のほとんどに当てはまる。日本は世界最速で、世界一の超高齢社会に到達することになるが、世界中の先進諸国はこぞって、日本の後を追い、超高齢化社会への道を進んでゆく。米国の外交問題評議会議員のピーター・G・ピーターソンは、「グローバルな高齢化の問題が、巨大な氷山のように先進国の未来に横たわっている」という書き出しで始まる著作『老いてゆく未来』の中で、こう述べている。
 「産業革命までは、豊かな国において(65歳以上の)高齢者に出会う確率は約40人に一人だったが、1990年には約10人に一人となった。今後数十年で、この確率は4人に一人となり、高齢化がもっとも進む国では3人に一人、あるいはそれ以上になる」
 人口の高齢化は、第一に出生率の低下、第二に平均余命の伸びによって決まる。女性が生涯に何人の子供を産むかを示す合計特殊出生率が、社会の人口維持に必要な水準(人口置換水準)の約2・1を上回る先進国はほとんどない。唯一の例外は、アメリカで、2000年度の時点で、2・13と、人口置換水準を超えているが、これは「異常」といってもよい高水準であり、その他の国々はすべて人口置換水準を大幅に割り込んでいる。
 イタリアは1・19(99年度)、スペインは1・20(99年度)と、日本の1・33(01年度)を下回り、ドイツの1・36(99年度)がそれに続く。イギリスは1・68(99年度)、スウェーデンは1・50(99年度)、90年代に1・65まで低下したフランスは、少子化対策に力を入れて出生率の回復につとめたが、それでも1・90(2000年度)どまりで、人口置換水準には届いていない。OECD(経済協力開発機構)加盟国のような、先進諸国ばかりではない。ロシアをはじめ、東欧諸国など、旧社会主義諸国でも、出生率は軒並み人口置換水準を下回っている。
 疫病の大流行や戦争など、異常事態が発生して人口が激減したことは何度かあった。しかし平時の状態で人口が減ってゆき、しかも高齢者だらけになるという事態は、人類史上に前例がない。このような「老いたる国々」同士の間で、かつての列強が繰り広げた血みどろの世界大戦の反復がありえるだろうか? 現在の状況を30年代に単純に重ね合わせ、「歴史は二度繰り返す。最初は悲劇として、二度目は喜劇として」というマルクスの箴言を無防備に口にする者は、それこそ喜劇役者の扱いを受けることであろう。


二極化する地球人口


「世界の人口は爆発的に増加しつつある。このまま増え続ければ、資源が枯渇してしまう。少子化対策など必要ない。人口はむしろ減らすべきではないか――」
 こうしたナイーブな問いかけに出くわすことが、しばしばある。
 地球人口が爆発的に増加し、このままでは破局に至るという黙示録的なマス・イメージが形成されたのは、今から約30年前の、70年前後のことである。68年に出版された、スタンフォード大学教授のポール・エーリックの『人口爆弾』や、72年に発表されたローマクラブの『成長の限界』などが世界的なベストセラーとなり、世界中に衝撃を与えた。直後の73年に起きた第一次オイルショックが、そうした不安に拍車をかけたことはいうまでもない。
 累計で1千万部以上も売れた『成長の限界』は、地球環境問題に注意を促す契機となった。その意義は評価されて然るべきである。しかし、彼らの「予言」は、必ずしもすべて的中したわけではなかった。たしかに世界全体の総人口は、今なお増加しつつある。国連人口基金が12月に発表した、最新の「2002年版世界人口白書」によれば、世界の総人口はこの一年間に8千万人増えて、62億1千万人になり、100年前の20世紀初頭の約4倍に膨れ上がったという。だが、こうした人口の増加は、地域・国家・民族を問わず、一律に起きているわけではない。グローバルな人口動態は、二極化の様相を呈している。先進国に少子高齢化の波が打ち寄せてきたことで、世界は人口減少に悩む「老いてゆく国々」と、アフリカ、中近東、アジアの一部などの、人口増加に苦しむ「若い国々」とに引き裂かれてしまったのである。
 この対照的な二つの世界は、「南北問題」の対立軸にほぼそのままあてはまる。そして厄介なことに、この構図は、サミュエル・ハンチントンの唱えた「文明の衝突」の図式にも部分的に重なり合う。イスラム教諸国の多くは、宗教的な規範により、多産の傾向にあり、大半の国々が貧しい。石油マネーに潤うアラブ諸国も、国内における貧富の差がはなはだしく、そうした内部矛盾はイスラム原理主義の恰好の温床となっている。
 急ぎつけ加えておくが、「9・11同時多発テロ」と、その後に続く米国の「対テロ戦争」によって、「文明の衝突」論が実証されたわけではない。宗教の異なる文明同士が、必ずや戦争に至るなどという必然性はどこにも存在しない。「文明の衝突」という装いの下に隠されているのは、地政学的な利害対立と権力を巡る欲望である。その実相について踏み込んで論及するのは、本稿の目的ではないので、ひとまずおく。
 ここで指摘しておきたいのは、人口減少に向かう先進国と、人口増加のやまない国々という、二つの「引き裂かれた世界」の間には、衝突に至る可能性を秘めた高い緊張が横たわってはいるものの、永遠にその状態が続くとは限らない、ということだ。希望は、ある。ブッシュ米大統領に「悪の枢軸」の一角として、名指しされたイランは、合計特殊出生率が対イラク戦争当時の86年には7・0という高さを記録していた。一人の女性が、生涯に平均して七人の子供を産んでいたのである。ところが「文明の対話」をスローガンに掲げるハタミ大統領のもと、イラン政府は家族計画を強力に押しすすめ、出生率を3・0まで急低下させた。2010年までに、人口置換水準の約2・1にまで近づくだろうと国連は予測している。イランのイスラム教の宗教指導者達が、多産を肯定してきたイスラム教世界では初めて、不妊手術や避妊法を認めるファトワ(宗教令)を出していることは、もっと知られていい事実である。イランは「人口増加」の世界から離脱しつつあり、食糧と水資源の慢性的な不足による貧困を克服する可能性が見えてきている。


やがて人口減少に向かう中国


 引き裂かれた二つの世界の間を、大股で横断しつつあるのが、人口大国である中国やインドである。60年代末から90年代末にかけて、インドは合計特殊出生率が5・7から3・1まで下がった。中国の変化は、よりダイナミックである。「一人っ子政策」によって、劇的な「人口転換」をとげつつあり、合計特殊出生率は6・1から1・8にまで急落した。すでに人口置換水準を割り込んでいる中国は、「人口モメンタム」によって総人口はもうしばらく伸び続けるものの、遠からずして少子高齢化と人口減少に直面するようになる。
 周知の通り、中国は低賃金で豊富な労働力を武器に、めざましい経済成長をとげ、世界中から注視されている。頭の痛い問題は、今や「世界の工場」と化して、過剰供給によるグローバルなデフレの震源地となっている中国が、高度経済成長を遂げながら同時に国内でもデフレが進行中という状況にあることだ。こうした事態を放置しておいては、グローバル・デフレに歯止めをかけることはできない。
  手の打ちようがないわけではない。規制緩和の進まない日本を訪れた中国人は、「ここに共産主義国家が残っていた」と嘲笑するというが、逆に中国に対しては「共産党」の創立を認めるよう、求めればよいのである。皮肉半分だが、まったくの冗談ではない。プロレタリア革命をもう一度やり直せ、とけしかけているのではない。複数政党制と代議制民主主義を実現した上で、労働者の利益を代弁する政党と、労働組合の活動を認めるよう、働きかけるべきだと言っているのである。労働組合が賃上げを要求し、実際に労働者の賃金が上昇すれば、過剰供給を吸収する国内需要が生まれる。低賃金労働力の魅力が薄れれば、生産拠点の中国への移転も歯止めがかかる。加えて元の切り上げが行われたら、中国発のグローバル・デフレは、ある程度まで終息してゆくだろう。その過程で、中国国内外で政治的な緊張が高まる怖れがないとはいえないが、軟着陸が不可能であるとは思われない。
 結局のところ、残るのは、日本が直面している難題である。中国やインドやイランのように、「若い国」が次々と「人口転換」をとげ、政治的にも民主化されて、「文明の衝突」の危機が回避されたとしても、また、グローバルな人口増加に歯止めがかかり、地球環境の自然扶養力(キャリング・キャパシティー)の限界を超えるような人口爆発の危機が杞憂に終わったとしても、グローバルな超高齢化という「巨大な氷山」は、手つかずのまま残される。その「氷山」に、世界で最初に突っこんでゆくのは、日本なのである。
 世界保健機関(WHO)が今年の10月30日に発表した2002年版の年次報告によれば、日本の平均寿命は81・4歳と世界一を記録した。少子高齢化・人口減少と経済のデフレという、二つのグローバルな現象において、日本が世界史上のトップランナーのポジションに位置していることを、日本人はもっと自覚する必要がある。日本には見習うべき先行モデルは、見当たらないのだ。
 前出のピーターソンは、『老いてゆく未来』の中で、「日本はいきなり高齢化の波に直面している」と書いている。
「(日本は)1980年には主要産業国のなかでもっとも若い国だったが、2005年にはもっとも高齢な国になる。30歳以下の日本の労働者数は、今後10年間で25%も減少すると予想されている。
  高齢化が進むということは、取りも直さず出費がかさむということである。OECDによれば、日本の公的年金支出は、現在のまま推移すると2010年にはGDPの2・3%、2050年には9・4%に達するという。これほどの負担増加はとても維持できるとは思えない」
  もっともな指摘である。「目前の氷山」から目をそらしているのは、当の日本人であって、端から見れば沈没は必至と映ることだろう。


総人口の3人に1人が75歳以上の高齢者に


 では、「目前に迫る氷山」である超高齢化社会とは、どのような社会なのか。
 まず第一に指摘しなくてはならないことは、今後、日本が直面する超高齢化社会とは、単純に65歳以上の老年人口が増加するだけではなく、75歳以上の高齢者の比率が急激かつ大幅に高まるという点である。一般的に65歳から74歳までは前期高齢者、75歳以上は後期高齢者と区分されるが、この後期高齢者の人口(後期老年人口)が、老年人口全体に占める割合(老年人口の高齢化水準)は、2000年では約40%で、90年代を通じてこの比率はほとんど変わらなかった。しかし今後、この比率は、急上昇するのである。
 日本医師会の委託を受けて、将来人口推計を算出した日本大学人口問題研究所によれば、老年人口の高齢化水準は、2015年には46・63%、2025年には59・61%となる。大手企業の委託で独自の人口推計を行っているコンサルティング企業・アトラクターズ・ラボ(以下、アト・ラボと略す)の推計値でも、2025年時点では60・12%と、ほぼ同じ結果が出ている。つまり2025年には、総人口の3割を老年人口が占め、その内の約6割が75五歳以上のお年寄りとなるのだ。この比率は、国際的にみても突出した高さである。2025年時点で、老年人口の高齢化水準が50%を超えるのは、日本以外ではスウェーデンだけで、51・86%(国連人口部2000年度世界人口推計。以下同じ)。3位がイタリアで49・9%、以下、主要先進国の大半は、40%台にとどまる。比率が低いのはやはりアメリカで、41・95%でしかない。
 ちなみに日大人口研は、2025年までの人口推計しか発表していないが、アト・ラボは長期にわたる人口推計を算出している。それによると、総人口に占める後期老年人口の比率は、2000年時点は約7%だが、2028年には20%台に達し、2076年には30%台に到達するという。国民の3人に1人が、75歳以上の後期高齢者となるわけである。
 奇妙なことに、国立社会保障・人口問題研(社人研)は、今年1月に発表した新人口推計の中で、この後期老年人口ついての詳細なデータを公表していない。グラフの中には後期老年人口の推移の曲線が書き込まれているのに(図(2)参照)、統計数値は、発表していないのである。不可解な話である。グラフとして作図しているのであるから、元になるデータがないはずはない。政府刊行物の中に、後期高齢者の増加について記述がみられるのは『平成14年版高齢社会白書』だが、該当箇所はわずか数行である。
  「高齢者人口のうち、前期高齢者人口は平成27(2015)年をピークにその後は減少に転ずる一方、後期高齢者人口は増加を続け、32(2020)年には前期高齢者を上回ると見込まれており、高齢者数が増加する中で後期高齢者の占める割合は、一層大きなものになる」
  たった、これだけである。事の重大さに見合う質も量もない。また、この『高齢社会白書』は、前期高齢者だけを対象にして「活動的な高齢者」という一節を設け、14頁にもわたって「子供からの自立」「ゆとりある経済状況」「良好な健康状態」「高い就業希望」「高い社会参加意欲」等々と、ポジティブな側面を強調しているが、遠くない将来、前期高齢者を数で上回る後期高齢者については、まったくフォーカスをあてていない。政府は超高齢化の現実という「氷山」からわざと目をそらしている、と言わざるをえない。


女性にふりかかる超高齢化のリスク


 日大人口研の推計によれば、今後は死亡率の改善が見込まれるため、「人生90年時代」に突入するという。2025年の平均寿命は、男性83・85年、女性89・44年になると予測されており、こうした「高齢者の高齢化」現象に伴い、百歳以上の長寿者も、急激に増加する。95年時点では、男女合計で約9千人、2000年時点でも1万2千人だった100歳以上の長寿者は、2025年には16万8千人となり、一世代に相当する25年間で12倍も増加するという。
 一方、アト・ラボは、100歳以上の長寿者の数はもっと増えると推計している。2025年時点で、男性が2万4千762人、女性はなんと38万648人、合計で40万人以上になるという。2050年には、男性7万4千933人、女性は123万1千974人、合計で130万人以上にもなる(図(5)参照)。
 予測には、ある程度の誤差はつきものである。ここで日大人口研とアト・ラボのどちらの予測の方が精度が高いか、比較をしようというのではない。注目すべきことは、男女の平均寿命の差である。どちらの統計でも、男性に比べ、女性の平均寿命の伸びが、きわだっている。この点こそ最も重要なポイントである。日大人口研は、この点に注目し、「スーパーオールド未亡人が増える」と分析している(図(6)参照)。2000年時点では924万人(対全男性人口比14・88%)の男性の老年人口が、2025年には1千634万人(同27・9%)に増えるのに対し、女性の老年人口は1千280万人(同19・75%)から、2093万人(同34・02%)に増加する。男女で死亡率に格差があるため、年齢が上がれば上がるほど、同世代の男女の人口数に差が出てくる。後期高齢者の中でも85歳以上の「スーパーオールド」のグループでは、2000年時点では、男女の人口数の差は約100万人弱だが、2025年では約2・5倍の250万人近くへと、年を追うごとに開いてゆく。男性よりも平均寿命の伸び率の高い女性の方が、「長命リスク」にさらされる可能性が高まるのだ。つまり、超高齢化の問題とは、男性以上に女性が、自らの問題として真剣に考えなくてはならない、深刻な問題なのである。
 2025年といえば、団塊の世代が70歳代後半にさしかかる頃である。フェミニスト達が、こうした女性の老後リスクについて、なぜもっと真剣に取り組もうとしないのか、不思議でならない。今でも、「少子化対策に力を入れるべきだ」と主張すると、「戦前の『殖めよ、増やせよ』の時代に戻すつもりか」という反論がフェミニストから返ってくることがしばしばある。誤解もはなはだしい。結婚や妊娠・出産を強要するつもりもないし、戦前のように避妊や中絶を禁止すべきだと主張しているのではない。結婚をしたくない人、子供を産みたくない人の自己決定権は尊重されるべきである。その上で、子供を産み育てたいと望んでいる男女に対しては、希望する数だけ、子供を得られるように、公的支援を行うべきだ、と主張しているのである。それは結局のところ、自分の子供らによる私的扶養をあてにできず、公的扶養に依存する度合いが高くなる人々、つまり子供を産まなかった人、あるいは不妊症等のため、産みたいが産めなかった人達の利益にもなるのである。


20人に1人が痴呆症老人になる未来


 高齢者の高齢化が進むということは、とりもなおさず、要介護高齢者の増加を意味する。『高齢者白書』によると、65歳から69歳までの要介護高齢者は、同年代の人口のわずか1・5%にすぎない。70歳から74歳でも2・5%である。寝たきりの高齢者の比率は、60代後半で0・3%、70代前半で0・7%。前期高齢者では、介護の必要性のない元気なお年寄りが多いことがわかる。
 しかし、後期高齢者になると、この比率は急上昇してゆく。在宅の要介護者の比率は、70代後半で4・5%、80代前半で9・2%、85歳以上になると20・9%に急上昇する。寝たきり高齢者の比率も、70代後半では1・25%、80代前半では2・5%だが、85歳以上では8・2%とはね上がる。60代と85歳以上とでは、要介護高齢者の比率は14倍、寝たきり高齢者の比率は約27倍にもなる。
 介護が必要になったり、寝たきりになったりする年齢別リスクが、将来も大きくは変わらないと仮定すると、要介護高齢者の人口は、この先、どれほどの数になるだろうか。『高齢者白書』によれば在宅の要介護高齢者の数は現在、100万4千人、寝たきりの高齢者は31万6千人である。社人研の人口推計(中位推計)をもとに試算してみると、2025年時点の65歳以上の要介護高齢者数は約百七十万人で、寝たきり高齢者数は53万人となる。2050年時点では要介護が175万人、寝たきりが55万人になると予測される。
 むろん、こうした予測値は確定的なものではない。医療技術の進歩や、バリアフリーの拡充など、高齢者にとって安全な生活環境が整備されることで、最晩年まで介護の手を借りずに過ごすことのできるお年寄りの数が増えることも考えられる。だが反対に、経済の悪化に伴って、老人医療の質が低下したり、生活環境が劣悪化して、高齢者の健康状態が損なわれるという悲観的なシナリオも考えられなくはない。
  介護について考える時に、無視できないのは、記憶障害などを引き起こし、日常生活に大きな支障をきたす老人性痴呆症の問題である。身体的には健康な場合は、徘徊など、危険な行動に出る可能性が高く、介護の手間も格段にかかる。
  老人性痴呆症の主な原因は、脳血管性痴呆症とアルツハイマー病に大別されるが、一部の外傷性の疾患を除き、現時点では回復させられる手だてはほとんどないのが実情である。アルツハイマー病の進行を抑える薬が開発されてはいるが、その薬効はあくまで病状の進行を遅らせるだけで、元通りに回復させられるわけではない。
  アトラクターズ・ラボ代表の沖有人氏は、こう語る。
 「高齢者が寝たきりになったり、介護状態になるかどうかは、社会的・経済的な要因も大きく関わるので、確実な予測はなかなか難しい。その点、予測を立てやすいのは、痴呆症の高齢者の数です。老人性痴呆症の発生率は、比較的、他の要因の影響を受けにくく、余り変化がみられないからです」
  アト・ラボが算出した痴呆性老人の人口の予測は衝撃的である。2000年時点では160万人で、総人口に占める割合は1・3%にすぎないが、2025年には397万人、総人口比は3・3%、2050年には約450万人、総人口比は約5%に達する。この予測値が正確であれば、半世紀後には、赤ちゃんからお年寄りを含めた日本国民の全人口のうち、20人に1人が痴呆という事態が待ち受けていることになる。自分自身や自分の家族も、その20人のうちの1人に入っているかもしれない、そう思って暗然とさせられるのは、私だけではあるまい。
  痴呆症を含めた老人性退行疾患に対しては、従来の医療のあり方、すなわち患者を「治療」するという考え方で臨むのには無理がある。痴呆もまた、老いてゆくことの一部である。加齢は不可逆であり、老化という時計の針を逆に回すことは、誰にもできない。そうであれば、後期高齢者の医療と介護については、新たな考え方が求められる。
  人間の健康や福祉に関わる重点課題は、人類の歴史とともに大きな構造的変化を何度かとげてきた。そうした構造変化を「健康転換」と呼ぶ。最初の変化の波は、有史以来人類を脅かし続けてきた飢餓や疫病の脅威を何とか克服した後、感染症の脅威が前面に登場してきた時である。これが「健康転換」の第一相である。第二相は、感染症を克服した後に、慢性疾患の問題が前面に登場してきた段階をさす。日本では死因の第一位の座から結核が滑り落ちて、脳卒中と癌と心臓病という、現在でも死因のワースト・スリーにランクされる慢性疾患が浮上してきた1950年代が、その第二相の時期にあたる。この時代に整備されたのが国民皆保険制度にもとづく今日の医療制度である。そして今さしかかりつつある局面は、慢性疾患から老人退行性疾患への「健康転換」の第三相なのである。
 病院を舞台に、患者を「治療」するという枠組みで老人性退行症に対処するには限界がある。これからは、介護保険制度と老人医療制度をセットにして、在宅ケアやホスピスなど、終末期医療と福祉を統合し、その充実をはかってゆく必要がある。そのためには、財政面とマンパワーの両面で、支え手となる次世代の人口が増えないことには、どうにもならない。


重くなる一方の家族介護負担


 仮に財政が破綻し、社会保障による公的扶養があてにできなくなったとしたら、どうするか。結局のところ、家族による私的扶養に頼らざるをえない。問題はそれが可能かどうかである。
 日大人口研は、家族の介護力について、二種類の指数を算出している。第一は、65歳から84歳の老年人口の、40歳から59歳の女性に対する比率である。高齢者一人につき、介護適齢期の女性(娘または息子の嫁)がいるかを表している(図(8)参照)。それによれば、2000年は0・91、すなわち老人一人に対し、中高年女性がほぼ一人いる割合だったが、2025年には0・588、つまり老人2人に中高年女性が一人という割合にまで急低下する。90年の数値は1・298であったから、ほぼ一世代に相当する約25年間で55%も扶養能力は落ちるという。
 第二の指数は、80歳以上の後期高齢者を、60代の前期高齢者が扶養・介護することを想定した、老老介護の指数である。2000年では1・46と、80歳以上の高齢者一人に対して、60代の高齢者が1・5人いる水準だったが、団塊の世代が60代を通過してゆく2017年から2019年以降、この指数は大幅に低下し、2050年には、老老介護指数は三分の一まで下がって、一人の前期高齢者が二人の後期高齢者を支える計算になる。日大人口研は報告書の中で、
「このような指数を作成した理由は、老親を介護しているのは娘や息子の嫁であることが圧倒的に多いという現実に基づいているからであり、決して『介護や老親の世話は女性がやるべき』というような価値判断は、一切入っていないことを断っておきたい」
  と断りを入れ、「男子の介護参加が一層求められる」と付言している。
  たしかに、老親の介護を、女性まかせにしていていいはずはない。男性も介護の負担を担わなくてはならない。とはいえ、外に働きに行く人間がいなければ家計は成り立たない。そこで、男性は外で働き、女性は家で家事や介護に従事するという性別役割分業を前提とせず、男女に関係なく、外で仕事に従事していない非労動力人口を介護の主たる担い手としてみなした家族介護指数の算出を、アト・ラボに依頼した。
  第一は、65歳以上の老年人口のうち、寝たきりになるなど、在宅の要介護高齢者の発生比率を掛けた在宅介護人口を、40歳から64歳までの非労動力人口で割った指数である。介護保険を支払い始める40歳から、年金受給開始直前までの64歳までの男女のうち、外で仕事に従事していないすべての人口を介護・扶養の担い手とみなしたものである。これによると、99年時点では20人で一人の在宅介護老人を支える計算になるが、2050年頃には5人で1人を、2060年頃には4人で1人を面倒みることになる。今世紀の半ば過ぎまでには、介護負担の重さは現在より4倍から5倍程度、重くなることを示す。
 第二の指数は、40歳から60歳までの中高年現役世代の非労働力人口を支え手とみなし、75歳以上の後期高齢者の人口との比率である。2000年時点では2・5人の支え手で一人の後期高齢者を面倒みている計算になるが、今世紀末には1人で2人近くを支えなくてはならないことになる。ざっと5倍近い負担率の上昇である。
  第三の指数は、年金受給年齢に達した65歳以上の老年人口全てを、40歳から60歳の非労働力人口が支えるとした場合である。この場合、現在でもほぼ一対一の割合であるが、今世紀後半には、負担が3倍近くになることを示している。実際には、65歳以上の高齢者すべてが、介護を必要とする状態になるとは考えられない。より現実的な指数は、第一と第二の指数であろう。
  試算の結果、改めて明らかになったことは、潜在的なマンパワーを総動員しても、介護の負担が4〜5五倍程度、重くなることは覚悟しなくてはならないという事実である。性別役割分業を取り払い、男女の区別なく老親の介護を担ったとしても、大幅な負担増は避けられない。やはり少子化を食い止め、次世代育成の支援に全力を尽くすことを抜きにしては、安心して超高齢化社会を迎えることはできない。


自覚なき清算主義の大合唱


 冒頭で、「デット・デフレーション」という言葉の生みの親であるフィッシャーに言及したが、竹森俊平・慶應義塾大学教授は、近著『経済論戦は甦る』の中で、フィッシャーと、「創造的破壊」で名高いヨーゼフ・シュムペーターを対置しつつ、1930年代の世界大恐慌を巡る経済論争を紹介し、そこに現在の「デフレ対策優先主義者」と「構造改革優先主義者」の「論戦」の原型を見出している。前者は金融緩和によるインフレ誘導を軸とする「リフレ政策」論者、後者は、不況を奇貸として非効率な経済主体を一掃しようとする「清算主義」論者と位置づけられている。企業家の果敢な革新の精神やイノベーションの重要性について説いたシュムペーターを、「清算主義者」とひと言で括ってしまうのは気の毒な気もしないではない。むしろ竹森氏も引用している、大恐慌時代のフーヴァー米大統領のもとで財務長官を務めたアンドリュー・メロンの、歴史に残る悪名高いスローガンこそ、「清算主義」を余すところなく表現しているといえるだろう。
 「雇用を清算し、株式を清算し、農民を清算し、不動産を清算せよ。ともかく経済から腐敗を一掃しろ!」
 「リフレ政策」対「清算主義」という構図をデフレ不況下の日本の状況にあてはめてみると、40兆円ともいわれる需給ギャップをどう埋めるかという問題に対し、「拡大均衡」を目指すのか、「縮小均衡」を目指すのか、という対立軸に置きかえられるだろう。デフレの源泉として、しばしば「過剰債務、過剰雇用、過剰貯蓄」の三つの「過剰」が槍り玉に挙げられ、その「過剰」の清算・整理が唱えられる。こうした主張こそは、「清算主義」に立脚し、「縮小均衡」を目指す主張に他ならない。
 気がかりなのは、「目覚なき清算主義」の声が、あちらこちらから聞こえてくることだ。たとえば、思いきったリストラによって、日産を蘇らせたカルロス・ゴーンの手法を、日本経済全体の再生に用いよ、という勇ましい「暴論」が横行している。カルロス・ゴーンの用いた「清算主義」的手法は、ミクロ経済の主体である企業再生の手段としては、たしかに合理的であり、有効だったに違いない。しかしこれは、リストラの衝撃を吸収できる雇用の受け皿が、外部にあると想定されているからこそ可能な荒業なのである。
  もしも、こうした「清算主義」的なリストラを、国家全体のレベルで行おうとしたらどうなるか。生産性の低い国民は、「過剰」なので、切り捨てなくてはならない、ということになる。生産に従事できない子供や老人や障害者といった社会的弱者への公的扶養負担は大幅にカットし、国民に対して過度に「自立自助」を求める政策へとつながってゆく。
 その結果、どうなるか。ゴーン流の「V字型の回復」どころか、間違いなく、不況は悪化する。まず、貯蓄は増えるが、消費は冷え込む。次に仕事を失うことを怖れて、結婚をためらう女性が増え、結婚しても家計の負担を軽くするため、子供を産まないか、産んだとしても希望する数より抑える傾向が強まる。少子高齢化も人口の減少も着実に進行してゆく。目前に迫る「氷山」に、自ら速度をあげてぶつかってゆくようなものである。
 人口の減少は、需要の縮減につながり、経済はさらなるデフレに向かう。また、少子化によって若い世代が減れば、総人口に占める高齢者の割合が相対的に高まる。その結果、年金保険料をはじめ、現役世代の社会保障費の負担は重くなってゆく。家計というミクロな経済主体にとっては合理的な行動が、マクロのレベルではマイナスに働いてしまう。よく知られた「合成の誤謬」である。それでもなお、「清算主義」を徹底するというならば、「姥捨て」を実践するしかない。
 約30年前、人口増加による過剰人口問題がクローズアップされた際、サブカルチャーは敏感に反応した。たとえばマンガ家の永井豪は「赤いチャンチャンコ」という短編を発表している。子供や孫に囲まれて幸せに暮らしている初老の男性が、還暦を迎えた日の朝。枕元にどす黒いチャンチャンコが置かれていることに気づき、逃げ出そうとするが、家族につかまってしまう。無理矢理そのチャンチャンコを着せられ、町内の「お祝い」の場に引きずりだされて、男は焼き殺される。チャンチャンコには、ガソリンが染み込まされていたのだ。エンディングのコマには、こう記されている。
 「人口増加、老人対策のゆきづまり、食糧事情の悪化に追いつめられた政府は、60歳停命を立法化した。黒いチャンチャンコが、赤い炎を発するとき! ひとつの人生がおわりをつげる」
 マンガに描かれたような、わかりやすい「積極的清算主義」政策を政府がとることは現実にはありえない。だが、「不作為」による「消極的清算主義」政策をとることがないとはいえない。少子化対策を怠り、硬直した予算配分のまま、赤字国債を乱発して、採算を度外視した公共事業を続け、財政が破綻するまで構造改革を先送りする。それだけでいい。ひとつだけ、年金の物価スライド制だけは廃止する。これだけやっておけば十分である。いずれ国債は暴落し、長期金利は暴騰し、ハイパーインフレに見舞われ、政府の債務はチャラになる。他方、国民の預貯金は紙クズとなり、年金は雀の涙ほどしか出ない。年金と預貯金だけが頼りの高齢者の生計は成り立たなくなる。そうなれば黙っていても、抵抗もできず、自活する力もない後期高齢者から順に息をひきとっていく。
 空想上の話ではない。90年代にロシアで起こったことは、そういう事態だった。ソ連崩壊後、ハイパーインフレに見舞われたロシアでは、年金や医療制度の崩壊だけでなく、アル中の増加や犯罪の激増など、社会的荒廃も手伝い、男性の平均寿命は「平時」であるにもかかわらず、一気に7年も縮まった。2000年時点で、58・9歳。多くの男達が、年金受給年齢に達する前に、この世を去ってゆく。89年から94年にかけて、取材のためにロシアをたびたび訪れた私は、老人達の悲痛な叫びを、幾度となく耳にした。
 「エリツィン政権の政策は、年金生活者に対するジェノサイド(虐殺)だ!」
 日本政府が、このまま問題の先送りを続けていけば、日本は90年代以降のロシアがたどった道を追うことになる。不作為であれ、ジェノサイドはジェノサイドである。その罪は万死に値する。



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