「宝島30」 1994.3
御本人には失礼な話なのだが、「角川家の一族」(『宝島30』12月号)の取材をしている間に、既に他界されたという噂を耳にした。生年を考えれば、亡くなられていても、確かに不思議はない。角川春樹は産みの母について、どこかで<幻の母>という表現を用いて語っていた。実在の生母は、文字通り<幻の母>となってしまっていたのかと、わずかに感傷めいたものがよぎった。と同時に、映画『人間の証明』の公開時に一度だけ、マスコミで取り上げられ、その後は世間から忘れられていた人のことであれば、むしろそれが自然なことでもあるように思えた。
健在であると分かったときには、だから――重ね重ね失礼だが――かえって不思議な気分にとらわれたものである。知人の方を通じてお会いしたいという希望を伝えたが、予想通り、すげなく断られた。手紙を書き、返事が来るのを静かに待った。御本人から電話をいただいたのは、10月も終わりのことだった。
紆余曲折があり、御本人の希望もあって結局、手記という形をとることになった。私も字句を整える程度のお手伝いはしたが、もとより、以下は御本人の表現された通りの内容である。
岩上安身
何よりもまず、このたびの春樹の事件によってご迷惑をかけた方々にお詫び申し上げます。名ばかりの母親ではあっても、産みの母として春樹の言葉を信じたいと思っておりますが、こんな不名誉な容疑がかかるということだけでも、平素の春樹の振る舞いに欠けるところがあったのだろうと思います。なにはともあれ角川書店の社員の皆様、取引先関係者の皆様、そして角川家御親族の皆様、知人・友人の皆様に、心よりお詫び申し上げます。
今は角川家の人間ではない私は、本来ならばこのような雑誌の誌面をお借りしての発言は慎むべきかもしれません。事実、事件直後から週刊誌などから取材の申し込みが私のもとに直接・間接を問わずありましたが、すべてお断り申し上げました。私は今年74歳になります。晩年を慎ましく、静かに暮らしたいと思っております。ささやかなその生活を興味本位の取材のためにかき乱されたくなかったという思いと、田舎の親戚を含めた私の周囲の人々にご迷惑をかけたくないという思いから、取材をお断りしてきたのでした。
しかし、正直に言えば、私の胸の内には、語りたいことが山ほどあります。自分のお腹を痛めて産んだ子を何の痛みも覚えずに手放すことのできる母親など、この世にはおりません。私もまた、眞弓(注・辺見じゅん)、春樹、歴彦の三人を断腸の思いで手放したのでした。夫の角川(源義のこと・以下同)との離婚、そして子供たちとの生き別れのいきさつについて、いつか本当のことを子供たち三人に語らなくてはと思い続けて、ついに45年の歳月が流れてしまいました。女一人、生きていくことに精一杯で、その機会を今日までとうとう得られずにきてしまったのです。
ですから、これから述べることは子供たちに直接語るべき内容のものです。しかしながら、春樹については、世間様の間に大きな誤解もあるように思います。子供の頃の春樹は、大変な甘えん坊でしたが、素直なとても良い子でした。その春樹が今日報道されている通りの傲慢な人間に成長してしまったとしたら、その責任は産みの母親である私と、父親の角川源義にあります。家庭内の秘められた出来事を洗いざらいさらけ出すには、無論迷いもありましたが、このような事件が起こった以上広く世間の方々にも真実を知っていただくしかないと思い切ることに致しました。
昨年の10月に岩上さんからお手紙を頂きました。大変丁寧な文面で、一読して信頼できそうな方だと思われました。しかも岩上さんはすでにご自身の取材によって角川家に起きた出来事の概略をご存知であるということもわかりました。その内容はすでに『宝島30』(93年12月号)にて発表されておりますので、ご存知の方も多いと思います。この上何かを付け加えることは不必要にも思われましたが、雑誌に発表後、改めて岩上さんからお手紙を再度頂き、取材をお受けすることに決めました。この手記は私の話を岩上さんにまとめていただき、それに再度私が筆を入れたものです。このような形で取材を受けて、マスコミで発表することは最初で最後のつもりです。と同時にこれは、三人の子供達への年老いた母からの遺言のかわりでもあります。
私は一昨年の6月30日の夕方6時ごろ、突然の脳梗塞で倒れました。食事が終わり、お茶を飲んでいるときにふうっと意識がなくなり、そのまま倒れてしまったのです。幸い知人に発見され、救急車で運ばれことなきを得ましたが、もし発見があと一時間遅ければ危なかっただろうとのことでした。丸二日間昏睡状態にあったそうですが、その夢の中で今は亡き私の母が現われ、「頑張るんだよ、頑張るんだよ」と私の手をしきりに引っ張ったことを憶えております。母に助けられたのでしょう、幸い私は意識を回復し、今はどうにか普通の暮らしができるようになりました。もしあのとき、そのまま逝ってしまったならば、春樹の事件を知ることもなく、かえって悲しい思いをせずに済んだかもしれませんが――。
事件を最初に知ったのはテレビニュースでした。手錠をかけられ腰縄をつけられて連行される春樹の姿を見て卒倒しそうなほどの驚きに見まわれました。テレビだけでなく新聞や写真にも息子の哀れな姿が大きく載り、それを目にするたびに震え上がり、涙がこぼれてなりませんでした。「なぜ?どうして?」という思いと、ことの重大さとで胸はつぶれそうになり、眠れぬ夜を幾晩も過ごしました。私は心臓にも持病を持っております。かかりつけのお医者さんの話では心労が一番いけないのだそうです。いつまた発作が起きないとも限りません。この手紙が「遺言」のかわりである、というのはそういう意味からです。
春樹は小さいときからきかん気の強い子でした。その反面、神経質で涙もろくて甘えん坊で、そういうところは私に似たんだろうと思います。眞弓は静かで物分かりが良くて、とても利発な子でした。賢いという点では歴彦も同様で、子供のうちから自分を抑えることのできる子でした。春樹と歴彦は学年は二つ違いますが、年は一歳半しか違わないので、遊んでいるうちにおもちゃの取り合いになることなどがよくあったのです。そういうときに譲るのは決まって歴彦の方でした。私が春樹に「お兄ちゃんなんだから貸してあげなさい」と言うと、そのそばから歴彦が「いいよ、僕平気だから」というような子でした。成人してからの兄弟二人の関係について私は多くを知りませんが、三つ子の魂百までと言いますし、我を通すお兄ちゃんと、自分の方が「大人」になって譲る弟という関係は、社長と副社長という間柄でも基本的には同じだったのではないかと推測しています。それだけに一昨年「歴彦が春樹によって会社を追い出された」と報じられたときには、ひどく心が痛みました。昨年の11月に月刊『文藝春秋』(12月号)で歴彦が「兄を許した日」という手記を書いていましたが、そこで二人でいたずらをして父親に叱られそうになったとき、春樹が自分一人が悪いのだからといって歴彦をかばったというエピソードが紹介されていました。春樹には我が儘で甘えん坊の反面、そういう心優しいところが確かに人一倍ありました。そのことを歴彦が忘れずにいてくれて、春樹の仕打ちを憎んだだろうに、水に流すと言ってくれたのが本当に嬉しかった。手記を読みながら涙がこぼれました。
眞弓も歴彦ももちろん私にとっては可愛い子供です。でも、生き別れになって今日まで折りにつけて思い出し、一番気になってしかたがなかったのは春樹でした。誰よりも春樹が手のかかる子供だったからです。昔から世話の焼ける子供ほど可愛いと言いますが、私に叱られる回数が一番多く、そして四六時中まとわりついて離れようとしなかったのは春樹でした。傍らに寝ているはずの私がいないと、あの子は必ず「お母ちゃまー!」と叫ぶんです。私が台所仕事などで忙しくて、飛んで行ってやれないと、その場で泣き出してお漏らしするんです。それもお小水などというのではなく、大便をするんです。おっぱいも弟の歴彦が飲んでいるとうらやましくなって、自分もねだるんです。6歳か7歳まではおねだりが続きました。
言い換えれば、春樹は感受性の強い子だったのでしょう。それだけに道夫ちゃんの事件(注・昭和22年、当時角川源義と愛人関係にあった照子が、源義との間に生まれた長男を絞殺した事件)があったときには、誰よりも春樹は動揺していたようです。学校から帰って来て、「お前の家のお父さんは人を殺したんだってな」と友達に言われたと、私に話すんです。眞弓や歴彦は何も言いませんでした。学校で何かあったとしても私には話さなかったのでしょう。春樹だけが「本当なの?本当にそうなの?」と繰り返し尋ねるのです。私が「大丈夫。お父ちゃまは絶対にそんなことしてないからね」と言い聞かせると、やっと安心するのでした。
事件後、私達夫婦の離婚がほぼ決まりかけたある日のこと、私は歴彦と春樹を連れて成田山までお参りに行きました。成田山のお守りの中に私の写真と、いつか子供達が成長して私を訪ねてくるときのために私の本籍を書いて入れ、子供達に渡そうと思ったのでした。そのお参りの帰り、レストランに入り、離婚について子供達に初めて話をしました。
「お父ちゃまとお母ちゃまはどうしても別れなければならないの。春樹ちゃんはお兄ちゃんだし、跡取りだからお父ちゃまの所にいなくちゃならないの。眞弓ちゃんも同じ。ただ歴ちゃんだけはお母ちゃまが引き取るということになったのよ。わかってちょうだい」
夏の終わりのことでした。アイスクリームを食べながら、二人は一言も言わず黙ってうつむいていました。
それから数日後のことだったと思います。私が角川からの手紙や一緒に撮った写真を庭で焼いていたときに、こんなことがありました。私が写真を焼き終わり、茶の間に上がったとき、当時は幼稚園に通っていた歴彦が突然、遊びにきていた友達にこう言ったのです。
「春樹ちゃんはとってもかわいそうなんだよ」
友達が「なんで?」と聞き返すと、
「お父ちゃまとお母ちゃまが別れるの。だけど僕はいいんだよ。お母ちゃまと一緒に行くから。だけど眞弓ちゃんや春樹ちゃんがかわいそうなんだよ。お母ちゃまと一緒に行けないんだもの」
庭で遊んでいた春樹はそれを聞いて、靴を片方履いたままで茶の間にかけ上がり、私に飛びついてきました。「お母ちゃま!僕を置いていかないで!新聞配達でも何でもするから、一緒に連れてって」
小学一年生だったとはいえ、母についていけば自分も働かなければ生きていけないと子供ながらに感じていたのでしょう。泣きながらすがりつく春樹を抱きしめながら、私は角川を恨めしいと思いました。この子供達の姿を角川に見せてやりたい……。
あの当時のことを思い出すと、記憶のひとつひとつが、現実の出来事ではなく、映画のシーンのように思い出されてきます。以前、岩上さんが上野駅で角川が歴彦をさらって走り去るくだりを書いておられましたが、それはまったく事実の通りです。9月の残暑の頃のことで、私は白いブラウスに当時流行っていた細かいプリーツの入ったスカートを着ていました。上野駅まで見送りに来た角川は紺と白の模様のかすりの和服姿でした。あの頃の文士の人がよくそうしていたように、少し無頼な感じに前をはだけ、下駄を履いていました。
出発のベルが鳴り、ドアが閉まりかけようとした頃、ホームに立っていた角川が「最後にもう一度だけ歴彦を抱かせてくれ」と頼んだのです。半ズボンを履いていた小さな歴彦を私は窓越しに、角川に渡しました。歴彦は6歳になっていたとはいえ、他の子と比べても小柄だったのです。歴彦を抱き抱えたとたん、角川は一目散にホームを駆け出して行きました。下駄の高くなる音が走り去り、私は声にならない悲鳴を上げたことを覚えています。ドアは丁度閉まったところでした。角川はすべてのタイミングを見計らっていたのです。周囲のことなどもはやそのときは眼中にありませんでしたから、動き出した汽車の窓から顔を出して「歴彦!歴彦!」と私は泣きながら叫び続けました。
次の停車駅の赤羽で下車した私と母は、電車を乗り継いで天沼(杉並区)の家まで戻りました。家には鍵がかかっておらず、子供達もねえやも含め、人の姿は全く見当たりませんでした。半狂乱で私は家の中を探し回りましたが、誰もいない。どこへ行ったのか見当もつきませんでした。疲れはて、途方に暮れた私を母は「親子だもの、いつかはきっと会えるから、今はだまっていったん田舎に帰ろう」と慰めました。東京にそのまま滞在するお金がなかった訳ではありません。角川の名誉のためにも言っておきますが、離婚が成立して彼は当時のお金で40万円を私に手渡してくれていました。一文無しで私を追い出した訳ではないということはやはり言い添えておく必要があると思います。
ですが、そのときは母と私の女二人、東京に残って粘り強く歴彦を取り返そうとする気力も何もありませんでした。私は例の事件の後、半分ノイローゼ状態にあり、辛うじてその日まで正気を保っていた有様でしたので、歴彦をさらわれたショックでひどく打ちのめされてしまっていたのです。何もかも嫌になりました。帰りの汽車の車中、母親は娘のそんな心中を察したのでしょう、私がトイレのために席を立っても必ずついてくるのです。実際、私は汽車から飛び下りて自殺することを、道中ずっと考え続けていたのでした。
歴彦を取り返すために、何もしなかったわけではありません。弁護士を立てて家庭裁判所で争いました。一時的に身を寄せていた叔母の住む秋田から、東京の霞ヶ関まで何回か足を運びました。跡取りの春樹だけはだめだが、歴彦の代わりに眞弓ではどうか、という話になったこともあります。調停の場で、次回は眞弓本人を連れて来るという約束もしましたが、角川は眞弓を連れて来ませんでした。角川曰く「眞弓に聞いてみたが、父親の元に残りたいという。本人が裁判所に来たくないというので連れて来なかった」と言うのです。本当かどうかは分かりません。しかし、眞弓を無理やり裁判所の場に引っ張り出すよう主張するのもかわいそうな気がして、それ以上強く要求できなかったのでした。
調停委員の方に諭された次のような言葉が、子供を引き取りたいという私の気持ちを最終的にくじけさせました。
「角川さんの手元に置いていけば、三人ともお坊ちゃんお嬢ちゃんでいられる。その方が本人たちのためにもなると思いませんか」
女独りで生きていくのが大変だと十分わかってはいましたが、それでも何としても自分の手で子供を育て上げてみせると思っていました。しかし、角川の元にいれば確かに子供達にとって経済的にも社会的にも有利でしょう。子供達の将来のことを考えれば、私一人泣けば済むことかもしれないと思うに至ったのです。子供達を引き離すということにも不安がありました。三人一緒に育っていけば、長じても互いに助け合って生きていってくれるに違いない。離れ離れに育ったとしたら。赤の他人になってしまう。それはとても残酷なことのように思いました。結局、私はひとつひとつ角川の主張に譲っていき、最後はすべてを手放してしまうことになったのです。
照子さんのこと、照子さんの子供の事件について繰り返しここで語ることは避けたいと思います。ただあの事件と私たち夫婦の離婚に関して、子供達の間に誤解があることを悲しく、残念に思っています。この誤解だけははらしておかなくては、私は死ぬに死ねない気持ちです。誤解というのは、眞弓の書いた『花冷え』という小説の中の、私がモデルと思われる女性の記述についてです。
私はこの小説の存在を全く知りませんでした。子供達の成長ぶりは遠く東北の地からいつも気にかけており、眞弓が書いた本は『呪われたシルクロード』を始めすべて手に入れ、読んでいたつもりでした。春樹の仕事についてもそうです。本を出せば買いに行き、映画を作れば映画館まで観に行き、その成功を密かに神社に祈願したりしたものでした。どういう理由からか、この『花冷え』だけは、今まで私の目に止まらなかったのです。小さな出版社から出たそうなので、田舎の町の本屋には入荷しなかったのかもしれません。
岩上さんの文章の中に引用されている、その『花冷え』の、母親が不倫をするくだりを読んで、私は一口ではいえないほどの驚きと衝撃とを受けました。これは事実無根も甚だしい。確かに私たち夫婦の間には、隙間風が吹いてはいました。しかしそれは、一方的なものであって、角川が家に帰らないことが増えていたというだけのことです。しかし今の時代とは違う、昔の人のことですから、外泊してもどこに泊まったとは言いませんし、私も尋ねません。創業して間もない角川書店の経営のために、日夜走り回っているのだろうと思っていました。もちろん、戦争直後のあの時代、三人の子供の育児におわれていた私は、自分が浮気をしようなどと考えつく心の余裕すらありませんでした。
『花冷え』の中には、不倫が発覚した後、激しい夫婦喧嘩が起こり、「私」がヒステリーを起こして、家の中を目茶苦茶にするくだりもありますが、読んでいて、悲しいとか腹立たしいとかを通り越して、なぜ、実の娘がこんな見てきたような嘘を書くのか、私には分かりません。これは小説なのだから作りごとが入るのは当たり前だという弁明も、きっと有り得るのでしょう。ですが、私の不倫のくだりを除けば、あとはこの小説にかかれてあることはほとんど現実にあった事実の通りです。事実の中に突然作り話が紛れ込んで来るわけですから、これを読んだ人はどれが嘘でどれが事実かを見分けられず、すべてを実話だと思って読むことでしょう。
あることないことを書いて、ここまで実の母親を踏みつけにしなければならないものなのか、それが作家というものの業なのかと、情けないやら、悔しいやらで、涙が止まりませんでした。眞弓はいくら利発な子だったとはいえ、あの事件当時まだ小学生で、事実のすべてを知っていたわけではない。そう考えると、後から眞弓にこんな作り話を吹き込んだ人間がいるのではないかと思われてきて、またいっそう苦しくなります。もし仮にそれが角川本人だとしたら、私は断じて許すことができません。彼の不倫のために妻であった私が家を出され、すべてを失ったのに、この上さらに作り話をでっち上げ、お前たちの母親は汚れた女だったのだと子供達に吹き込む必要がどうしてあるのでしょう。
春樹はたびたび父親から「お前はおれの子供ではない」と言われ、ひどく傷ついたと発言しています。今回の麻薬事件の起こる直前にも、あるテレビ番組に登場して、その話を語っていたのを見ました。今もなお忘れられないというのは、よほど傷ついたからでしょう。自分の実の父親が、自分を生んだ母親を侮辱するのを聞いて、子供達の心はどんなに歪められたことか。私はこの点についてはどうしても角川を許せません。
45年間沈黙を守り続けてきた私がすべてを話そうという気になったのは、この『花冷え』の存在を知ったからだ、といっても過言ではありません。それを書いた眞弓に恨みはありません。あの子も犠牲者なのですし、その点では親である私の責任でもあります。ですが、本というものは、後世に残るものです。正すべきは正しておかないと将来に大きな禍根を残すことになると思うのです。
二、三の逸話だけあの事件に関して語っておきたいと思います。
昭和22年のお正月のこと、他の社員たちと同じように照子さんもお年賀に家にやってきました。もうお腹はかなり目立つようになっていたときのことです。角川との噂は、以前から耳にしていました。私は彼女に「いつ結婚したの。結婚したんだったら、教えてくれなきゃお祝いもしてあげられないじゃない」と尋ねました。
「まだ正式な結婚ではないもので……」
彼女はそう言ったきり黙ってしまいました。私はこの機会に心の中にわだかまっていた疑念を思い切って口にしてみました。
「間違っていたらごめんなさい。ひょっとしたらそのお腹の子、角川の子じゃないの?」
「………………」
黙っているこのときの照子さんの表情を見て、九割方、確信を深めました。しかし、私にはどうすることもできませんでした。当事者である角川自身が、断固として否定するのですから。私がその話を持ち出すと、「何をばかなことを言っているんだ!」という一言で終わりです。それ以上話になりません。
事件は、ですから私にとっては唐突な出来事でした。私はその日、一関の田舎へ里帰りする用事があって、子供を連れて上野駅まで来ていたのです。そして駅で新聞を見て、声も出ないほどびっくりしました。照子さんが生後3か月になる自分の子供を絞殺したこと、そして、その子供の父親が角川であることが、実名で、しかも写真入りで報じられていたのですから。慌てて家へとってかえしてみると、家の前の細い道は、やじうまや警察の方や新聞記者などで、黒山の人だかりでした。そのうちの一人が私の姿を見つけて「あ、奥さんだ」と言うと、その人だかりがさーっと左右に分かれて、道が開かれたのです。警察が天沼の私たちの家に来ていたのは、殺人の容疑が角川にもかかっていたからでした。
幸いなことに、事件当夜の前の晩は、角川はたまたま家で泊まっていたのでアリバイが成立し、すぐに釈放されました。角川と照子さんの仲がはっきりわかったのは私にとってはこのときが初めてです。ですが、その出来事のあまりの恐ろしさに震え上がってしまい、夫の不実をなじる余地などありませんでした。
私の感情が爆発したのは、その子供のお通夜のために照子さんが住んでいた荻窪のアパートを訪ねたときでした。部屋には小さな棺桶と、その前に一膳飯がそなえられたささやかな祭壇があり、お線香の煙が立ち上っていました。狭いその部屋には、角川本人と数人の書店関係者だけが座っているだけでした。お線香をあげ、手をあわせ、冥福を祈ったあと、私にようやく部屋の中を見渡す余裕ができました。ふと見ると、衣紋掛けに男物の寝間着用の丹前がかかっている。それは間違いなく角川のものでした。
実はその丹前のことで、ほんの数か月前に私は角川から激しく叱責されていたのです。富山の姑の八重さんが、手縫いで作ってくれたもので、角川はその丹前を愛用していたのですが、ある日からそれが見当たらなくなったのです。ひょっとしたら、私が洗濯して、二階の物干しにでも干して、風にでも飛ばされたのかと思い、必死で探したのですが、見つからなかったのでした。
「お前のせいだ。お前の不注意のせいで、お袋の作ってくれたあの大事な丹前がなくなってしまったじゃないか。どうしてくれるんだ」
そう言って、角川は厳しく私を叱りつけました。私も自分の不始末だとばかり思い込んでいたもので、ひたすらかしこまって詫びたのです。
その丹前が別の女の部屋に吊るされてある。それを見たとき私の中で押さえつけられていた感情が一挙に爆発しました。「ひどい!あなたって人は!許せない」私はその丹前をつかむや、角川に投げつけて部屋を飛び出していきました。
女というものは、男性と違って物事の大きな理屈や何かではなくて、どうでもいいように見える細部や、ちょっとしたことに大きく左右されるものなのでしょう。丹前を見た瞬間、夫の「裏切り」が実感を持って私に迫ってきたのでした。
話を戻しますが、私を苦しめたのは、この丹前の一件だけではありません。事件が起こってすぐに知らせを受けて、富山から角川の両親が飛んできたのですが、このときの姑の八重さんのなにげない一言が、私の心に突き刺さりました。
「なにも殺さなくてもよかったのに。源三夫婦の養子として引き取る話がまとまりかけていたところだったんだから」
夫・源義の兄である源三さんには子供がいませんでした。子宝に恵まれない兄夫婦に養子として照子さんのお腹の子供を引き取るという話が進んでいたというのです。すべては私の頭ごしに決められ、私だけがかやの外におかれていたのでした。応接間で舅の源三郎さん、姑の八重さん、そして源義がそんな話をしていて、私はただお茶を運んでいる。誰も私に「大変だったね」とか「あなたもかわいそうに」という同情の言葉もかけてくれませんでした。その家の中では、私は妻というより、まるでただの女中のようなものでした。
姑の八重さんが、嫁というものは、奉公人みたいなものだと見なしていたことはもちろんよく分かっていました。数年にわたり、私は子供達と一緒に富山の角川の実家で暮らしていたことがあります。まだ国学院大学の学生だった角川から、「子供が夜泣きしてうるさいので、勉強に差し支える。卒業するまで富山の実家へ行ってくれ」と言われ、生まれたばかりの長女の眞弓を連れて、私は富山での生活を余儀なくされたのです。ちなみに春樹は富山時代に生まれた子供です。離れ離れに暮らしていると入っても、休みのときには角川も帰省してまいりますので、そのときにできた子供なのです。
曲がりなりにも人生の一時期お世話になったお姑さんですから、できれば悪くは言いたくないのですが、お嫁さんをいびるということに関しては徹底したものがありました。家が米問屋を営んでいたので、使用人の食事の世話を含め、目が回るほど忙しく働かなければなりませんでしたが、私は一銭も自由になるお金を頂くことはできませんでした。八重さんだけでなく、夫の角川も渡してくれなかったのです。私は母に電報を打ち十円だけ送金してもらいました。それは少しずつくずして使ううち五円にまで減ってしまったのです。その五円だけは使わずにとっておき続けました。当時、富山から東京への片道が約五円だったのです。どんなつらいことがあっても、この五円さえあれば東京へたどり着ける。それだけが私の心の支えでした。
実際、お姑さんの仕打ちがつらくて、春樹をおぶったまま、家出をしようとしたことが何度かあります。実際にはふんぎりがつかなくて、駅のところでうろうろしているのを見つけられて連れ戻されるのがおちでしたが。
春樹がお腹の中にいたときのことです。七か月目に入ったとき、腹痛を覚え、病院に行ったところ、盲腸と診断されました。今でこそ、盲腸など簡単な手術で済みますが、昔のことですから、相応の覚悟が必要でした。メスを入れれば母子共に危険だという。手術をせずに、お腹を冷やして盲腸を散らすこともできるが、それをすれば間違いなく子供は堕りるという。お医者さんからこの説明を聞いたとき、八重さんは、こう言ったそうです。
「嫁の掛け替えはいくらでもいるが、子供の掛け替えはない。子供だけは助かるようにして欲しい」と。
婦長さんがこの話を聞いて呆れ果て、一関から駆けつけてきた私の母に話したところ、母もさすがに激怒しました。
「大事な娘に替えがあるというのはどういうことか。こうなれば子供が産まれた後は、離縁させて母子共々うちで引き取る」
母の剣幕に姑は黙っていましたが、この一件があってからも、何かが変わったわけではありませんでした。八重さんも若い頃はその前の代の姑さんに散々いじめられて、苦労を重ねてきたそうです。だから今度は自分の番だということなのでしょう。考えてみると、八重さん自身も、日本の封建的な因習の犠牲者だったのかもしれません。
「嫁の替えはいくらでもある」という理屈は、例の事件の後でも繰り返されました。春樹を渡さないと断固として主張したのは角川だけでなく、舅も姑もでした。
「嫁の腹は仮腹にすぎない。腹の中の子供は角川の子供」と八重さんは、私に向かってはっきり言い切りました。嫁というものは家を絶やさないための道具にすぎず、都合が悪ければ取り替えてもよいということなのでしょう。ですから角川の両親はあんな事件の直後だというのに、自分の息子を叱ろうとしなかったのでしょう。
もっと後の時代に生まれることができたなら、どんなによかったかと思います。私も古い時代の田舎の生まれ育ちですが、私が7歳のときに父が亡くなったこともあって、伸び伸びと育ちました。母はとても優しい人でした。千年母を亡くしましたが、そうなってみて初めて母の有り難みがひしひしと分かります。学校を卒業後、洋裁学校へ入学するために上京してきましたが、あの頃は東京に出てくるといったなら、今でいえばアメリカへ渡るくらい遠く感じたものです。親戚の下宿から、青山にあった洋裁学校に通う通学路が、たまたま国学院大学に通う角川と同じだったために、毎日顔を合わせるようになり、いつしか話をするようになりました。もちろん昔の娘ですから、男性に道端で声をかけられても、気軽に応対して親しくなるわけではありませんが、何度か無視はしたものの、何しろ毎朝見計らったように私の下宿の前を通り、挨拶してくるものですから、無視し続けることはできません。
実は私はその当時、別の男性から「君が卒業したら一緒になろう」とプロポーズされていました。私よりも10歳くらい年上の社会人の方でした。その方のお母さんも私は知っていて、とても気にいられていたのです。しかし、角川の情熱は大変なものでした。結局、私はその情熱にほだされて、双方の実家が猛反対したにもかかわらず、角川のプロポーズを受け入れたのです。ずっと後に分かったことですが、角川はその男性のところへ行き、「自分の実家は経済力もある。必ず冨美子さんを幸せにするから、あきらめてほしい」と直談判したのだそうです。学生の身であるにもかかわらず、角川が結婚を急いだのは、そういう恋敵がいたからでした。もしかすると、このことが、後年に私が「不倫」をしたという噂話のもとになったのかもしれません。
正式に結婚する前に、私たちは一緒に暮らしはじめ、最初の子供の眞弓が生まれてからやっと入籍が認められました。何しろ戦前のことですから、恋愛結婚自体が珍しい。そこへもってきて、親の反対を押しきっての学生結婚なのですから、ずいぶん思いきったことをしたものでした。でもあの頃だけが、私が女として一番幸せなときだったと思います。角川はあの頃はとても優しくて思いやりがありました。親に結婚を認められなかったため、仕送りを止められ、一緒に暮らし始めた私たちは貧乏の真っ只中にありました。
「一杯のかけそば」のような話が私たちにもあったのです。柳田國男先生の研究のお手伝いをしていた角川は、あと少し辛抱すれば50円入るんだ。と言っていたのですが、そのお金が入る前に蓄えが底をついてしまい、お米も買えなくなってしまいました。さあどうしようかと、途方に暮れていたとき、角川が学生帽の記章の裏に止めておいた穴あきの十銭玉を取り出し、これで中華そばでも食べに行こうと言ってくれたのでした。一杯七銭の屋台の中華そばを、二人で分け合いながらすすりあった日のことを今でも忘れられません。貧しくともお互いがいたわりあえる、そんなときが私たち夫婦の間にもあったのです。
楽しかった思い出は、戦前のこの時期と戦後のわずかな間でした。物資が極端に不足していた時代でしたから、まきが足りず内風呂を焚けなくて、一日おきに銭湯に通ったものです。右と左に春樹と歴彦の手を引き、洗面道具を眞弓が持って、母子四人で童謡の「十五夜お月さん」を大声で歌いながら歩いたものでした。春樹と歴彦の小さな手の指のやわらかい感触を、皺だらけとなった私のこの手が今でもはっきりと覚えています。
考えてみると、私の人生とはなんだったのか、つくづく虚しくなります。子供と生き別れ、苦労に苦労を重ねて、いったい何が残ったのか。角川と照子さんの二人に恨みがないといえば嘘になります。法律上の罪には時効があっても、人の心の恨みには時効はありません。角川はもうこの世にはいませんが、死ぬ前に一回でいいから心の底から私に謝って欲しかった。
子供達と生き別れになってから45年間、秋田で洋裁を教えたり、一関で食堂を開いたりと、働きに働き続けてきました。意地っ張りな性格なのか弱音を吐かず、女独りの細腕で頑張ってきたつもりでしたが、21年間開いてきた「あきたや」という食堂を昭和63年に閉めなければいけなかったときは辛いものがありました。国道沿いの店でしたのでバイパスが通るようになり、人と車の流れが変わると、客が入らなくなってしまったのです。もう私は65をすぎていましたが、店をたたんで関東地方の町に移り住み、年齢を偽って銀行の食堂の賄い婦として働きました。おかげ様で、たまっていた借金も完済することができました。春樹も眞弓も歴彦もこのことは知りません。店を閉めてから以後、いらぬ心配をかけたくなかったので、いっさい連絡をしてこなかったからです。自分でも本当に強情っ張りだと思います。
でもそんな人生にも喜びというのはあるもので、何より嬉しかったのは、角川の後を継いで社長となった春樹と、何十年ぶりかで再会できたことでした。映画『人間の証明』のキャンペーンのために、「生き別れになった母子が再会する」というテレビ局の企画が組まれたのです。はじめはテレビ局の人が一関までやって来て、この企画の話をしたのですが、あまりにも唐突なことだったので、私はいったんはお断りしました。
我が子に会いたくて会いたくてたまらず、幾晩泣いたか分からないのに、30年近くも我慢し続けてきたのです。どうしても我慢がしきれずに、気がついたら東京行きの夜行列車に飛び乗っていたことも再三再四ありました。遠くからでもいい、ひと目子供達の姿を見たい、という思いからでした。小学校の校庭で遊んでいる春樹の後ろ姿を遠くから見て、夕焼け空の下、物陰で一人涙を流したこともあります。半ズボンのお尻の丸い大きな継ぎが忘れられません。眞弓には通っていた学校宛てに手紙を出しました。返ってきた返事にはあの子らしいきれいな字で「今は早大の仏文科を目指して、一生懸命受験勉強をしています。大学に入ったら必ず会いに行きますので、待っていてください」と書いてありました。そんなせつない思いをして、子供達といつか会える日が来るかもしれない、その日のために身を慎んでおかなければと自分に言い聞かせて生きてきたのです。それだけにテレビ局の申し出は唐突すぎました。そのテレビ局の方はいったん東京に帰りましたが、またやってきて今度は春樹の直筆の手紙を届けてくださったのです。
「お母さん、覚えていますか?僕が五つになって、成田不動のお守りをもらいに言ったことを。まだ、あの頃は、軍服姿の人がいましたね。実は今日、深川のお不動様に行ったのです。」
そういう書き出しでその手紙は始まっておりました。
「『人間の証明』という映画をとり終わって、興行が成功するようにと、お参りに行ったわけですが、その内容は、昭和24年頃に生き別れになった母を求めて、殺された軍人の混血児の話です。僕もお母さんと別れて、30年近くになります。富山の田舎へ行く時、もう決心していたのですね。僕に成田山のお守りを手渡したからです。そのお守りの中には、お母さんの写真が入っていると僕に言ったのですが、田舎で淋しくなってお守りを開いたとき、中には何もありませんでした」
春樹は、5歳で生き別れたと書いていますが、これは7歳の記憶違いです。私があげたお守りの中の写真は、どこにいってしまったのでしょう……。
「お母さんがいなくなってから、何度も名前を呼んで泣いたことがあります。お母さんにしても、僕たちのことを思い出しては寝れない夜があったことと思います。そんな時、僕もなんとなく寝れなかったから、きっと、お母さんが会いたがっているのだと思うことにしたのです。
一昨年、親父が死んで、今まで考えていた「死」が、フィクションからノンフィクションにダイレクトにつきささってきます。いつ、突然、死が訪れないとは限りません。それは、お母さんの側ばかりでなく、生命を賭けた僕の冒険行を考えれば、それは明日かも知れないからです。
だから、その前に一目会いたいのです。
冨美子様
角川春樹」手紙とか、書き言葉というものは、不思議なものです。話し言葉と違って人の心を打つ力があるように思います。春樹はこの『人間の証明』キャンペーンのために、「生き別れの母までPRに利用した」と非難されたようですが、私はPRのためだけにこんな手紙をよこしたのではないと思っています。もちろん社運を賭けた映画の成功のために社長である春樹が必死になるのは当然のことで、この文面の中にもそんなひたむきな気持ちがよく表われていますが、それ自体は責められるべき筋合いのものではないと思うのです。及ばずながら私も力になりたいと思い、テレビの出演を承諾し、近くの神社まで春樹からの手紙を持っていって映画の成功を祈願しました。私で役に立つのなら、利用でもなんでもしてほしいというほどの気持ちでした。
ただ不安だったのは春木以外の角川家の人々が私と春樹がテレビで再会することをどう思うのかという点でした。
結局、でしゃばりすぎても迷惑がかかるかもしれないと考えて、私は東京のスタジオには行かず、電話を通じての声だけの出演となりました。春樹と再会できたのはそれからしばらくたってからのことです。このテレビ出演がきっかけで、連絡を取りあえるようになり、東京の自宅のマンションまで私を招いてくれたのです。
「お母ちゃま」と私を呼んでいつも甘えていたあの子が、30代半ばの働き盛りのたくましい男性となって私の前に現れ、「お袋」と呼ぶのです。なんだかくすぐったいような、おかしな気分でした。「どうしてお袋って呼ぶの?」と聞いてみると、
「お母さんと呼べるのは、他にいくらでも代わりがいるだろうが、お袋というのは子宮の中で10ヶ月を過ごして、この世に産み落としてくれた人だけだ」と言ってくれたのでした。
春樹と奥さんの佳子さんは、一度別れてから、もう一度再婚したのだと言っておりました。春樹の女性遍歴をぜんぜん知らなかった私は、その夜、佳子さんからかいつまんだ話を聞かされて少々ショックを覚えました。春樹が母と生き別れにならなければならなかったのは、父親の女癖の悪さのためだとわかっていたはずです。春樹自身も、母親もつらい思いをしたことを嫌というほどわかっていながら、どうして同じようなことを繰り返すのか。胸が痛みました。それが男というものの業なのか、それとも角川家の血筋なのか分かりませんが、悲しい気持ちになりました。
それでも、そのときは春樹と佳子さんの二人が再出発の新生活を始めたということで、私もほっと安堵し、祝福してあげたい気持ちでいっぱいでした。ですから、今回の麻薬事件に関連して春樹の愛人も逮捕されたとか、女性遍歴がいろいろあったとか、そのような話が報じられるのを聞いて、なにか裏切られたような気持ちにもなりました。悲しい話は、もうたくさんです。
この日の思い出でただひとつ気掛かりだったのは、眞弓と歴彦が会いに来てくれなかったことでした。とくに眞弓は、私のことを厳しく批判しているという話を聞きました。
「私だったら、絶対に子供を手放さない。どんなことがあっても自分が連れて行くわ」と言っているというのです。眞弓はそのころには、ふたりの子供を抱えて離婚し、自立しようと必死になっていたそうです。私と違って学歴もあり、能力もあったからこそできたことでしょうが、それにしてもどんなにか大変だったろうと思います。
でも眞弓に分かってもらいたかったのは、母がどんな思いであなたたちに会いに行くのをこらえ、堪え忍んでいたかということです。誕生日ともなれば何かを贈ってあげたいと思うのは、あたり前です。進学や成人式や結婚・出産といった節目にも、なんのこだわりもなくお祝いすることができたら母親としてどんなにか幸せなことか。お祝いの品を贈ることは簡単です。でも、もしそのために今の家庭の中で波風がたって、子供達がいじめられでもしたら大変だと思えばこそ、泣く泣く耐えてきたのです。同じ女であるならば、ましてや作家であるならばなお、母親としての女の情をどうして理解してもらえないのだろうか、と思います。もちろん、あれからずいぶん時間も経っています。今の眞弓は、私にこんなことなど言われなくても母親の気持ちを理解してくれているかもしれません。私が書きすぎていたら、許してください。
ですが、これだけは分かって頂きたいと思うのです。子供が平凡な人生を歩んでいるのなら、私は躊躇することなく会いに行くことも、連絡することもできます。ですが、子供達が三人とも地位もあれば名誉もある、財産もある。そういう人間のところへは、かえって逆に訪ねて行けないものなのです。私には敷居が高すぎる。いま私が子供達を訪ねて行けば、面倒見てもらいたくて来たのかと思われかねないでしょう。血のつながった子供達本人は思わなかったとしても、周囲はそうは見てくれないはずです。貧しくても、精一杯働いて自立して生きているのならば何もみじめなことはありませんが、腹の中を疑われて、白い目で見られるのは本当にみじめなことです。人生の最後においてそんな思いをしたら、なぜ今まで女一人で突っ張り通してきたのか分からなくなるじゃありませんか。
財産とか生活の安定とか、そんなもののために魂を売り渡すくらいだったら、私は45年前のあの事件のとき、何が何でも角川の妻の座にしがみついていたことでしょう。私はそうはしなかった。最終的にはこの人生を自分で選び取ったのですから、最後までまっとうしたいと思います。今は子供たちの知らないところで、慎ましい暮らしをして余生を過ごしています。このささやかな生活の基盤が崩れることがあれば、それは私の最期となると思います。そういう覚悟はできています。誰にも迷惑をかけたくはありません。
ですが、ひとつだけ私にも望みがあります。死ぬ前に一度でいいから眞弓と春樹と歴彦の三人に会いたい。会ってこの手で抱きしめてやりたいのです。50歳をすぎた大人を「抱きしめる」というのもおかしな話だと思われるでしょう。私の中では三人は、やはり45円前に生き別れたときの幼い姿のままなのです。
最後に春樹へ伝えたいことがあります。あなたが逮捕され、すべてを失って監獄に入れられたとき、生きる気力を失い、自殺も考えたというような報道が一部ありました。それを聞いたとき、私はあなたと一緒に死んであげようと思ったのです。あなたは多くのものを失ってしまいましたが、私ももはや失うものがありません。喜んで一緒に死んであげる、そう思いました。ですが、あなたの獄中句の中で、何があっても生きていくという句を見いしたときに私も考えが変わりました。
生きていってください。何があっても生きていって下さい。私も最期の日まであなたと共に生きていきます。離れ離れであっても心の中ではあなたと共に生きています。今までもずっとそうでしたし、これからもそうです。あなたは無実だと言っていますが、裁判の見通しはあなたにとても不利なようです。ですが、1%の可能性であっても、あなたに無罪の可能性がある限り、私はあなたを信じたいと思うのです。もちろん、裁判の結果がどうであれ、私の母親としての気持ちに変わりがあるわけではありません。どうか自分を見つめ直して、これからの人生のことを前向きに考えて下さい。あなたを支えてくれた人々、家族や姉弟、友人や知人のみなさんをこれからは大事になさって下さい。
最後に、森村誠一先生をはじめ、春樹を信じ、支えてくださっている皆様方に心からお礼を申し上げたいと思います。