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「ソ連と呼ばれた国に生きて」 1992 JICC出版局

まえがき



 本書が最初に書店の店頭に並ぶ92年の夏から秋にかけて、日露の外交関係はひとつの節目を迎えるはずである。
 エリツィン大統領の初来日というイベントは、北方領土問題を軸にしてジャーナリズムを大きくにぎわすことだろう。もとよりこの日露首脳会談で、問題解決のための大きな前進がみこめるわけではない。とはいえ、水がぬるみ、かつては半永久的に凍結したままと思われた巨大な氷山が、ゆっくりと動き出したことはどうやら間違いないようだ。
 この氷山がどこへ漂着するのか、今はまだ判然としないし、必ずしも明るい見通しばかりがあるわけではない。ドイツとの間にくすぶっているカリーニングラードの帰属問題など、旧ソ連が無数に抱えている国境線変更問題を立ち上がらせてしまうという懸念もある。対露支援に関しても、お茶を濁すような対応ではしのげなくなるに違いない。「政経不可分」を掲げて、頑なに経済関係の拡大にブレーキをかけてきた日本政府は、それゆえに政治的な桎梏が取り払われた暁には、巨額の対露支援を迫られることになる。その支援が実を結ぶ見込みがあるならまだしも、現在のロシアおよび旧ソ連邦諸国の経済破綻ぶりを直視するなら、それは底の抜けたバケツ人水を注ぐようなものでしかない。にもかかわらず、巨額の援助の代償である北方領土の経済的価値は、ほとんどゼロに等しい。長期的にみれば、日露間のデタントは、安全保障面や資源確保の点において大きなメリットをもたらすと考えられているが、目前の現実の中に明るい見通しを探すことは必ずしも容易ではない。だが、そうであるにしても、日露関係は今後、好むと好まざるとにかかわらず、あらゆるレベルで拡大し、深まりゆくだろう。それは逃れようのない、歴史の流れのようにみえる。
 さて、ところで。
 日露間の外交関係についてあれこれ書いたが、実は本書はそういう問題とは関係がない。
 外交関係の分析にはまったく役に立たないといっていい。そのような分析に役立つ書物は他にいくらでもあるから、そちらをご覧いただきたい。
 本書は、そもそも「ソ連」なり「ロシア」なるもの、あるいは「ソ連人」なり「ロシア人」なるものが、はたして存在するのかと怪しむところから出発している。それは便宜的に仮構された観念上の主体ではなかったか。「ソ連」が健在であった頃、あの広大な大陸には一枚岩の団結を誇り、均質な生活を営む「ソ連人」ばかりが住んでいると我々は思い込みがちだった。民族性は彼らにとって乗りこえられるべきものであり、また、すでに乗りこえられたものとされていた。実際にはそれが、脆弱な基礎の上に乗った薄皮のようなプロパガンダにすぎなかったことは、この数年の民族主義の爆発によって明らかである。周知の通り、91年8月のクーデター事件によってソ連共産党は海藤に追い込まれ、91年末には電撃的なCIS(独立国家共同体)の成立により、ソ連邦そのものが地上から姿を消してしまった。あとに残ったのは、民族の名を冠した諸共和国である。我々はもともと「ソ連人」ではなかった。我々はロシア人である。ウクライナ人である。アゼルバイジャン人であるのだと、彼らは今、それぞれに自分たちの民族的アイデンティティを新たに主張するのに忙しい。
 しかし、「ソ連人」という名の人間が存在しなかったのと同様に、「ロシア人」や「ウクライナ人」や「アゼルバイジャン人」などという名前の人間も実は存在しない。私たちがモスクワやキエフやバクーで出会えるのは、セルゲイやナターシャやアリーエフという名前の、具体的な個人だけである。
 そもそも、まったく純粋のロシア人という人間を見つけること自体、至難のわざである。
 今も昔も百を越える他民族が混在するかの地では、混血は当たり前のことである、祖父母の代まではロシア人であると確認できる人はいても、さらに逆上れば、ユダヤ人やタタール人やポーランド人の血が混じっていないとは誰も断言できない。だいたい、ロシア人とウクライナ人とを、どうやって血統的に分けることが可能なのだろうか。
 つまるところ、ナショナリティーもまた、「ソ連」と同様、頼りない玉ネギの皮のようなものにすぎない。ひと皮もふた皮もむけば、あの広大な大陸には、2億9,000万の、多種多様な声と貌と人生とを抱えた人間たちが生きているのだと気づく。
 日露関係は拡大し、深まりゆくだろうと書いたが、それはロシアおよび他の諸共和国と関わりともつ日本人それぞれが、人の数だけある多様な人生に出会うことを意味している。気の遠くなるほどのその多様性に、いちどはシャワーを浴びるように身をさらす体験を経なければ、私たちは隣人を決して理解できないだろう。その体験はまた、国家と国家の間のパワーゲームとは別の、ささやかだけれども奥行きの深いドラマを織りなすにちがいない。
 本書は、4人の書き手が、「ソ連人」とかつてひとくくりに呼ばれた人々に会い、そのライフストーリーを聞きだした記録である。取材と執筆の季刊が90年から92年まで、足掛け3年に及んでいるため、「ソ連」が地上に存在したときに語った人の言葉も収録されている。時期はずれではないかといぶかしむ方もいるだろうが、ソ連が消失した現在も、彼らが自分自身を振り返って語った言葉の真摯さは、価値を失っていないと私たちは考えている。それは一読していただければおわかりになると思う。
 「ソ連人」なんていなかった−−。
 この本を要約してしまえば、そんなことになるだろう。しかしそれは「ソ連人」一般について語るのと同じくらい、無意味である。私たちがのぞんだのは、読者のあなたが、公園のベンチや、レストランや、彼らの家の居間で、問わず語りに語る彼らの人生の物語を、ウォッカを飲みかわしながら聞いているようにすることだった。嘘や隠しごと、見栄や記憶違いも彼らの言葉には混じっているだろう。それらを含めて、彼らの肉声が届けられたなら、私たちはささやかな満足にひたることができる。

岩上安身


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