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「平成元年の右翼……右翼の未来はあるか?」 1989 JICC出版局

救国のキリストか銀座のドンキホーテか

愛国党総裁 赤尾敏 24時間密着取材!




2月23日正午・銀座数寄屋橋交差点

「お前らは共産党のスパイだ!」


 のっけから面くらった。
 「お前らマスコミはみんな、共産党のスパイだ!!」
 満90歳の老右翼は、かっと目をむきステッキを振り上げた。手渡そうとした私の名刺は、あわれにも昼休みどきの数寄屋橋の路上に放り捨てられた。
 途方にくれながら、私は名刺を拾い上げた。いったい何がまずかったのだろう。
 一週間ほど前、私は取材を申し込むために愛国党本部に電話を入れた。電話口に出たしわがれ声は、愛国党総裁・赤尾敏その人だった。
 「大喪の礼? その日はね、私らは数寄屋橋で労働者・庶民の手による独自の大喪の礼の集会を開くんです。取材? とにかく前日に数寄屋橋に来たらいい」
 そして、2月23日。言われた通りに銀座の数寄屋橋に出向いた私は、日課の街頭演説のために現われた赤尾敏に挨拶をしたところ、いきなり「共産党のスパイ」にされてしまったのである。
 街宣車の上で、赤尾敏の演説が始まった。私は、とにかくもう一度取材交渉する腹を固め、演説の終わるのを待った。
 ブルーのトラックの街宣車の上と、数寄屋橋後援のそこかしこには、何本もののぼりが立てられている。
 「国賊社会党・共産党撲滅」
 「神武天皇建國の精神に還れ」
 「金儲け第一主義の資本主義体制を是正して国家統制を強化せよ!」
 右翼としては定番のスローガンが並ぶ中、比較的新しいメニューもみえる。
 「リクルート疑獄を徹底糾明せよ」
 「竹下首相は辞職せよ」
 街宣車の上には、これも戦前から「親英米反共」を一貫して主張してきた赤尾敏の、「信念」のあらわれなのだろう、日の丸と並んで星条旗とユニオンジャックが翻っていた。
 「自民党はくさっとる! 中曽根は与太者だっ! 竹下なんかクソ馬鹿野郎だっ!」
 「日本人は、生意気な中共のチャンコロや、チョーセンジンになめられとるっ!」
 「イランのホメイニを見ろ! 『悪魔の詩』という本を書いた野郎を殺しちまえと言っとるじゃないか。見上げたものだ。日本もそうでなくちゃいかんのだっ! 共産党の御用マスコミは全部暗殺してしまえ!」
 差別用語にあふれかえった怒号の連続に、私はくらくらと目眩をおぼえたが、しかしこの論理的な脈絡を一切気にとめない奔放な演説に耳を傾ける者はごくわずかだった。十数人の愛国党員たちと、ひとりふたりのルンペンと、公安を除けば、一般市民の聴衆は限りなくゼロ日かかった。通行人の往来は絶えることがなかったが、彼らの多くは、演壇に立つ老右翼に対して一顧だにしない。いかにも仕事が充実しているという様子のビジネスマンも、ボディコンの若いOLも、靴音をアスファルトに高く響かせて足早に通りすぎてゆく。たまに足をとめて、ぼんやりと街宣車を見上げる者があるとしたら、きまって人生に疲れ果てたといった風情の中年男性か、もしくは物見遊山の外国人観光客だったが、彼らも、5分とはたたずむことはなかった。私は少し、赤尾敏のいらだちやヒステリックな怒りの理由がわかったような気がした。徹底的な無視、これほど人間の神経をささくれだたせるものはない。
 三時半。「君が代」と「教育勅語」の斉唱、「天皇陛下万歳」の三唱をもって、たっぷり三時間余りにおよんだ演説は、ようやく幕となった。「いや、先ほどは失敬したね」
 演説台から降りてきた赤尾敏は、先ほどとはうってかわって別人のような笑顔をみせた。
 「この頃、スパイが多くてね、油断がならないんだ。取材の申し込みは君のところだけじゃなくて、何社もあってね、中にはスパイも混じっとるから警戒してるんだよ」
 再び捨てられることのないように祈りつつ、私はもう一度名刺をさし出した。
 じゃあ、このあと愛国党の本部に来たらいい、取材はかまわんよ」
 ひとまず胸をなでおろしたが、しかしそのあとも易々とは事は運ばなかった。長身痩躯、生真面目で一徹そうな幹部らしき党員が、猛然と反発したのである。
 「密着取材? そんなものは受けられない。組織の内情を外にわざわざバラすバカがどこにいる!! 中核派に我々の内情を知られたらどうするんだ!?」
 赤尾敏にも詰めより、
 「総裁、本当に取材をお許しになったんですか!?」
 彼が筆保泰禎書記長だった。昭和50年、佐藤栄作元首相の国葬の時に、当時首相だった三木武夫に殴りかかった人物である。48歳、党の最古参である。
 彼の強硬な主張により、結局、「一般党員には一切質問しない。取材を受けるのは赤尾敏総裁だけ」ということに落着した。
 「党員の中には、思想的には小学生程度の段階の未熟な者もおり、そんな人間の言葉が世に出たら、愛国党の思想水準が疑われる」
 というのが、筆保書記長の取材制約の弁だった。


2月23日午後5時・愛国党本部

「天皇社会主義の革命をやるんだ」


 大喪の礼という、このとにもかくにも歴史的な一日を、右翼の側からながめ見たらどう見えるかという関心が、私にはあった。右翼はどのようなまなざしで轜車(じしゃ)見送るのか。彼らは新しい皇室をどう受けとめているのか。そして元号が変わったこの転形期にあって、彼ら右翼自身の姿をどう見つめ直そうとしているのか。それを知りたいと思ったのだ。
 取材先として愛国党を選択したのは、ひとつには執拗な街宣活動と、東京中の街頭に貼られた情宣ビラの数の多さによって、右翼団体の中では一般の知名度が群を抜いて高いからであるが、しかしそればかりではない。日本中が「自粛」の厚い雲におおわれ、右翼もまた街頭での示威行為を慎んでいる中、ひとり愛国党だけが、変わらずに街宣活動を続けていたからである。唱える思想はともかく、「御不例だからといって、政治活動を控える必要はない」という姿勢は、まったくもって正しいと思われた。
 愛国党本部は、地下鉄丸ノ内線の新大塚駅から歩いて数分の、低層住宅密集地にある。古びた木造の二階だての建物が二棟並び、国旗とともに「大日本愛国党本部」の看板が掲げられている。ここに赤尾家一家と、現在は四人の専従党員が寝食を共にして生活している。赤尾敏はここから数寄屋橋まで毎日地下鉄で「通勤」しているのだ。玄関をくぐり、党員に案内されて右手奥の聖堂に入った。二十畳ほどの広さのその部屋には、正面に神棚と祭壇が飾られ、白い石膏のデスマスクが安置されている。右手の壁には明治天皇、釈迦、キリスト、孔子の、キッチュで巨大な肖像画が、左手には昭和35年に社会党委員長の浅沼稲次郎を刺殺した元党員・山口二矢の遺影が掲げられていた。当時赤尾に「坊や」と呼ばれていた17歳の少年は、色白の頬にあどけなさを残したまま時を凍結させ、こちらを黙視していた。祭壇のデスマスクは彼のものだった。
 焼きイモ屋の親父がひょっこり入ってきた。
 「先生、これ、差し入れだよ」
 そういって赤尾敏に焼きイモの袋を押しつけると、代金を受けとらずに去った。
 「あの親父、いつも来るんだ。どうだ、君らもイモを食うかい」
 かくて焼きイモ片手に、右翼の最長老との会見は始められた。
 「僕はまだ、君らのこと信用してないんだ。まだスパイじゃないかと半分疑っている。だけどまあいい。僕はあけっぴろげだからね」
 いましがた3時間におよぶ演説をしてきたばかりだというのに、赤尾敏はおそろしく饒舌だった。
 「社会党なんか解散命令だしたらいいんだ! 共産党も皆解散だ! 朝日なんか発行停止だ! いばっている記者や重役、みんな刑務所にぶちこんだらいい! 自民党もダラ幹だ。竹下なんかあんなもん、風呂屋の番台に座って客に挨拶してりゃあいいんだ! それから全国の銀行、大企業の社長、こんなものひっくくって刑務所へ入れちまえってんだ! みんな腐ってるんだ、坊主も神主もみんな。間違ってない奴は一匹だって、いやしないよ。ん! 俺かい? それは……俺は、俺の国の王様だよ。俺は、ハハハ……」
 90歳とは思えない。お元気ですね。
 「健康だよ、悪いとこないよ。毎日、演説して毒気を出しているから。ハハハ。言いたいこと言ってるからね。君たちなんて、言いたいこと言えんだろう? 言ったら生活に困るから、我慢してるんだろう? 俺は我慢してないもん。ハッハッハッ。だから僕には自分以外の人間が、みんな馬鹿みたいに見えるよ」
 演説が途切れたところで、ようやく質問する機会を得た。まずは右翼の現在の状況について−−。
 「日本の右翼は、大きく分けてまぁ三つだな。まず反動的で単なる暴力主義的な右翼ね、自民党の金権政治、資本家、こういったものを守って、結果は資本主義の現状維持をしとるような右翼、そんなものは問題にならん、与太者だよ。で、新しい革新的な右翼ね、これにはだいたい二つある。僕のところと、もうひとつは野村秋介君たちの新右翼。あいつら後からきて、新しい右翼だと言ってるんだ。そりゃあいつら若くて、僕は90だが、僕は昔から新しいんだ。共産主義も悪いけど、ブルジョア階級、それに自民党や財界、これも悪いと。だから旧勢力も叩いて、同時に左翼も叩いて、天皇をシンボルとして日の丸で革命をやれという革新右翼、それが僕のところなんだ。それを最近、新右翼が出てきて、『古い右翼は反動的で話にならん』と気取ってね、反米を言うんだ、反米を。こういうのが僕は危ないというんだ。反米を言うということは、ソビエトの御用になっちゃう、結果として」
 赤尾の口調が激しさを増す。
 「今の右翼は口ばっかでね、いい加減なことばっかやってんだよ。民族主義なんて言葉だってそうだ。民族主義なんてものはいかんよ、君! そんなことで世界が平和になるか。キリストでも釈迦でも孔子でも、民族の道は説いていないよ。人類普遍の道を説いているんだ。共産主義も世界的だよ。民族を超えてるんだ。民族主義なんて、バカの言うことだ。日本民族だけがよければいいというのは、民族利己主義じゃないか。宇宙を支配する神の道があるんだ。天の理法は世界共通だから、それで平和をはからにゃいかん」
 −−しかし一般的に右翼は、民族派を自称してますが。
 「そんなもの問題にならんよ! 何もないじゃねえか。右翼という看板だけで。君たちは何も知らないんだよ、中身は何もありゃせんよ。三島由紀夫君が腹を切って死んだろ? あんなことが一番偉いと思ってんだ。何も偉くないっ! 腹切って死んで国が救えるか。そうでしょう。俺が腹切って死んだら、共産党が喜ぶだけだよ。生きて戦わなきゃいかんじゃないか。レーニンが腹切ったら、ロシアの革命は成功してないわ。あいつらはどんな苦労をしてでも、戦って、敵をつぶして、政権をとったんだ。その信念と執念がなくちゃ、成功しないよ。三島なんかバカだよ!」
 レーニンの名がつい口をついて出るのは、若い頃、社会主義者だった名残りなのだろうか。明治32年生まれの赤尾敏は、大正デモクラシーの洗礼を受けた世代に属する。大正5年、愛知3中を病気で中退後、社会主義運動に身を投じる。当時親交を結んでいた一人に浅沼稲次郎がいたというのも運命の皮肉ではある。大正10年、名古屋でアナーキストとして検挙され実刑を受け、獄中で転向する。
 「刑務所の中でいろいろ考えてね。天皇を敵にしてちゃ、ダメだなぁと。天皇をこっちの味方にして、中身は社会主義のままでもいい、天皇と労働者を直接結びつけて、天皇陛下と労働者の間にいる資本家とか地主をなくして、君臣一体にする。そういう社会をつくる。社会主義の理屈を天皇中心の立場でいう。そうしたら日本はうまくいく。ムッソリーニのファシズムがそういうやり方だった。そう考えて、よし今度出たら天皇陛下を看板にしてそれをやろうと考えた」
 出獄後の大正15年、メーデーに対抗して愛国主義的な「建国祭」を提唱、建国会を結成する。昭和17年、東京6区により衆議院に立候補、全国5位の高得票で当選するが、国会で対英米開戦に反対したため、翼賛会から中野正剛、鳩山一郎らとともに除名され、憲兵に拘束された。当時の右翼の中では特異な「親米」の姿勢は、今に至るまで一貫している。
 「戦後の復興は昭和天皇のおかげだって右翼の一部はいうけど、そうじゃないよ。本当は、アメリカがバックについてたからこうなったんだ。天皇陛下のおかげじゃねえよ。アメリカがいなかったら、たちまちソ連に占領されちゃうよ。
 それなのに財界は金儲け専門で何もわからんから、バカどもが。中共やソ連と仲良くやって貿易で商売商売と。貿易すりゃ儲かると、欲が深いから。レーニンなんかも言っているよ。資本家はね、自分の首を締めるロープでも、高く買ってもらえるならば売る、とね」
 「自主防衛なんて間に合わんよ。それよりアメリカとひとつになっちまえばいいんだ。そのとき、日本が自主性を失っちゃダメだ。アメリカが日本に従うように合併をするんだ。それでマイケル・ジャクソンなんかぶっつぶしちゃう。なんだあんなもの。俺、この間、会場へ行って暴れてやろうかと思ったんだ。ロックが嫌いかって? ロックって何のことかわからんが」
 この極端な「親米」姿勢は、むろん頑固な「反共」とセットになっている。しかし現在はソ連も中国も国内経済が事実上破綻していて、市場原理をとり入れるなど一連の経済改革により資本主義化しつつあるのが現状だ。世界的な思想の潮流を見てもマルクス主義の退潮は明らかである。「反共」を唱えるあまり、いささか共産勢力を過大評価しているのでは? と疑問を投げかけると、
 「君! それはないよ! 経済が苦しいなんて、安和もの中共とソ連の謀略宣伝だよ! 油断させてるんだ! 本当に一番しっかりしてるのは共産党だよ。敵ながらたいしたもんだよ、共産党は。僕は土地は国有化せよ、といってるんだ。そんなこと自民党じゃできねえだろう。やれるとしたら共産党だけだよ。だけど共産党は天皇陛下までなくしちまう。それは行き過ぎだってんだ」
 共産党に対する評価の高さにはいささか驚いた。もし共産党が天皇制を認めるとしたら、一緒に戦線を組むこともありえるのだろうか?
 「うん、そりゃ面白い。共産党とおれんとこが組んだら、自民党なんか真っ青だよ、ハハハ。だけど、それでもちょっと違うんだ。共産党は唯物主義で階級闘争だろ。品が悪いや。俺のところは、労働者だけでなく地主も資本家もひっくるめて宗教的原理で一つにまとめるんだ。ずっと上品だよ」
 汎神論と国家社会主義がごった煮となったようなイメージ、それがどうやら赤尾の唱える「日の丸革命」の目指す理想らしい。
 彼は繰り返し繰り返しこう語った。
 「君、これから面白くなるよ。動乱の時代がもうすぐ来る。そうしたら革命だ。自民党なんてあんなもの、すぐふっ飛ぶから問題じゃない。共産党の赤色革命と我々の日の丸革命とのぶつかりあいだよ。面白いよ、面白いことになる……」
 「反共」は、「尊皇」と呼ぶ右翼精神の二大支柱ではあるが、しかしそれは共産勢力の消長に影響されざるを得ない不安定な足場でもある。そこには左翼の後退が、同時に「反共」という右翼自らのアイデンティティーを危うくするという皮肉な逆説が避けがたく存在している。「革命前夜」を声高に主張する赤尾のアジテーションは、右翼の危機感と焦燥のあらわれにも聞こえた。
 話題を変えて、先日の、新天皇の「護憲発言」についてたずねた。
 「これは大問題だよ。今の天皇様は社会党と同じだ。でも、天皇陛下だって人間だから間違いはある。今の天皇陛下ね、世間のこと何も御存知ないよ。温室育ちのお坊ちゃんだよ。そんな人が権力もったら、国が滅びちゃう。だから天皇は象徴でいいというんだ、俺は。右翼団体の一部には、昔のような天皇主権で天皇親政にしろっていうのもいるが、そんなことできっこねえよ。今の天皇陛下が、戦争を指揮して勝てると思うか?勝てっこないに決まってるわ。ケンカやったこともないぞ、天皇は」
 「俺はウソは言えないんだ。だから前の天皇陛下には戦争責任あるっていうんだ。宣戦の詔勅は天皇の名で書いてあんの。それで責任はないとはいえないだろう。だいたい天皇自身も、マッカーサーに会って、責任は自分にあるんだから国民には寛大な処置を願いたいって、そう言ったんだから。それは偉いところだよ、天皇の。国民もまたね、天皇をかばうんだよ、天皇には責任がねえっていって。天皇が国民をかばい、国民が天皇をかばう。そこが偉いところだな、日本の」
 ちなみに、小島襄の「天皇と戦争責任」(文藝春秋)によれば、マッカーサーに対し天皇が自らの戦争責任を認め国民への寛大な処置を求めたという記録は、公式には見あたらないという。この逸話はマッカーサーの「回顧録」にだけ記載されているもので、それが事実かどうかには疑問が残されている。にもかかわらず、この逸話が「天皇の聖徳」の証しとして広く人口に膾炙したという事実は、そうした「神話」に国民が飢えていたからに違いない。
 とすれば「尊皇」という感情は、そのような「物語」に対する飢餓感から湧き上がるものなのだろうか。
 実は正直にいえば、私には「尊皇」という感情の実質がよくつかめない。自分の内側に、どうにも見出すことができないのだ。しかし他方に、私には希薄なその感情を、濃厚に抱えもっている人びとがいる。その興味深い謎こそが、私の右翼に対する関心の中心だった。私は、赤尾に率直にたずねた。
 昭和天皇に対して、どんなお気持ちを抱いているのですか?
 「わからんよ」
 は?
 「よくわからんよ。そんな難しいこと。まあ、天皇陛下はあまり魅力ないと思ってるね。先祖から受けついだ国をアメリカに占領されちゃったんだもん。こんなことにしてしまった天皇陛下がどうして偉いか。だけどそんなこと言ったらミもフタもないから、こっちはかばってんだ。守っているんだよ」
 それでは、崩御のときの気持ちは?
 「さびしいとは思わんね。見たこともないし、会ったこともないし。泣く人もいるが、泣かん人もいるだろう。泣かないのが本当かもしれんよ。泣く人がちょっとおかしいかもしれん。ものごとは深く考えればみんな難しいよ。だからみんないいかげんなことやってるんだよ……。明日は日本人として、敬意を表するのが、礼儀だから。日本の伝統ある天皇家なんだから、昔の人がわけもわからず尊敬したように僕も敬愛の対象としてね……」
 わけもわからず尊敬したというのは、凄い表現ですね。
 「そりゃ、わけわからんじゃないか。わからんが、天皇は偉いって、小さい頃からそういう教育を受けたからそう思っているだけだ。素直なもんだよ、子供みたいなもんだよ、ハハハ。だから日の丸と同じだよ。どういうわけか、日の丸をいい旗だと思っちゃってるんだ、僕は。赤旗を見るとぞっとする、理屈も何もないじゃないか。好きは好きなんだから」
 意外な言葉が連続する。右翼は天皇を絶対視する盲目的な信仰の持ち主だとばかり思っていた私は少なからず驚いたが、また同時に、赤尾の率直さを快くも感じた。
 「だけど2649年も続いてきたには、それだけの理由があるってんだ。その理由は、わからんよ。だけどずっと続いてきたんだから、それを何も反対せんでもええ。あったって邪魔にならんじゃないか。あってどうしても邪魔になるなら反対せにゃならんかもしれん。だが、今はあったほうがいいんだよ。なくなりゃ混乱するんだから。あった方が落ち着きがいいんだよ。それが一番大事なことじゃねえか。あとはどうなるか、先のことはわからんさ」
 最後にもう一つだけ質問を。今後、右翼はどうなっていくと思いますか?
 「将来のことなんかわからんよ。後継者? そんなものいないよ。みんなダメだもの。だーれもいないよ。人材払底だね、日本は。跡継ぎなんか誰でもいい。君でもいいよ。嫌だと? やっぱり共産党のスパイだな。それなら殺しちゃうよ。ハハハ……」
 9時半をまわった。
 赤尾敏の言葉にうながされて、私たちは外へ出た。14、5歳くらいの女の子たちが通りかかって「今晩は」と挨拶していく。この界隈の人びとにとっては、この老右翼は、ただの近所のおじいちゃんにすぎないらしい。
 寿司屋に入った。赤尾敏は常連らしく、
 「この店、明日もやるの? そうか商売熱心だね。御大喪でみんな休んでるときに店を開けば、儲かるね」
 と、右翼らしからぬ軽口を店の主人とかわす。
 「君は幾つだ? 29か、若いなあ。孔子は『三十にして立つ』と言ったんだ。君も自分のやりたいように大いにやりたまえ。回りに気兼ねすることなんかないんだ。どうせ、世の中クズばっかりなんだから。僕の30歳の頃? 迷っとったよ。女でね。若いときは誰でもみんなそうだよ」
 孔子もさすがに、90歳の時に人生はどうあるべきか、言葉を残してませんね。
 「90歳にしてまだ迷ってるよ。わからないことばかりだ。年をとるほど、わからなくなっちゃう。天皇のことだってわからん。でも、わかるやつなんておらんだろう? そんなもんだ。だけどわからないと言っちゃおしまいだから、わかったようなふりをしてるだけだよ、みんな。それでいいよ、まあ。長いこと生きてないんだから。先はどうなるかわからんよ。今は俺、天皇陛下万歳でやってんだ。それでいいんだよ……」


2月24日午前零時半・皇居二重橋前

「喪服の右翼の群れのなかで」


 午前零時半。底冷えのする皇居前の広場の片隅には、徹夜組がすでに50人ばかり並んで座りこんでいた。その列の中に、戦闘服姿の愛国党員たちの姿もあった。右翼団体としては、どうやら最も早い到着のようだ。ぽつぽつと、みぞれまじりの雨が降り出して、私たちの額をうった。
 愛国党の一団の中には、童顔の少年も混じっていた。19歳だという少年は、紺色の戦闘服を身にまとっていたものの党員ではなく、党員である父親に連れてこられたのだ、と言った。山口二矢が生きていれば、46歳。たぶんこの少年の父親も同じくらいの年齢だろう。30年という歳月は重い。死者はとどまり、生者は流される。山口二矢が革命前夜と信じてテロルに走った場所から、時代はあまりにも遠いところへきてしまった。
 午前5時をすぎて、始発の地下鉄が動きだすと、皇居前には人波が急に寄せてきた。
 午前7時35分。坂下門を隔てて、ここからわずかな距離にある皇居内宮殿松の間で、「斂葬(れんそう)当日殯宮(ひんきゅう)祭の儀」が始まった。この時にはもう、氷雨のふる二重橋前の広場は、天皇の棺を一目見送ろうとする人びとで埋めつくされていた。
 見たところ、皇居前に集まってきた人びとは、身なりのつましい、質素なたたずまいの庶民ばかりで、生活の豊かさを、そうとはっきり感じさせるような装いの人物は、ほとんど見あたらなかった。そんな人波の中、黒服の屈強な男たちの集団が目をひいた。この皇居前に足を運んだ右翼団体構成員の数は、6千人にのぼったと、後刻、警察は発表した。
 8時。私とカメラマンと編集者は、連れだって休憩所へ小用を足しに行った。夜が明けても氷雨はふり続け、手足はすっかりかじかんでいた。私たちは休憩所のストーブに手をかざして、しばし暖をとった。
 休憩所は人影も少なくがらんとしていたが、席が埋まれば3、400人は入ろうかという広さである。8時15分すぎ。突然、右翼団体の一行が、次々と入ってきた。腕章を巻いて、団体名を明らかにしている者もいる。数百人の右翼が一堂に会した光景は圧巻であった。坊主、角刈り、パンチパーマ。黒の背広ばかりでなく、黒い蛇腹の詰め襟姿もいる。
 私たちは、彼らの威圧感にしばし気圧されていたが、ふと、あることに気づいた。
 彼らのうちの幾人かが身につけている、ギラギラの装身具である。ごつくて異様に太い金の指環、黄金のブレスレット、金バンドのカルチェやロレックス……。
 私はいぶかしんだ。一般の葬儀であっても、いわゆる光モノは控えるというのが常識ではないか。にもかかわらず、仮にも右翼を名乗る人間たちが、なぜ尊崇する天皇の葬儀の日に、平然としてそのようなものを身につけているのか。
 警察当局はこの日、極左による式典の妨害に対して厳重な警戒態勢を敷くとともに、極右に対しても、皇居前で追い腹を切って殉死するものが出るのではないかと、神経をとがらせていたといわれる。
 しかし、それは杞憂ではないか。一部の右翼がこの場に持ちこんだ「光りモノ」は、自刃のための日本刀などではなく、財力を誇示するための虚飾のアクセサリーだった。それが昭和天皇の葬列を見送る右翼の、現実だった。
 9時すぎ。雨の中を傘をさして、赤尾敏が現われた。
 「やあ、早いね。もう来てたのかい」
 彼は、にこやかにそう言って笑った。
 9時35分。21発の弔砲と、自衛隊の奏でる「悲の極」の調べの中を、天皇の棺を乗せた車が、我々の前を通りすぎていった。車列がすべて通過するまでほんの2、3分。このためだけに、極寒の中徹夜までした者にとってそれはひどく素っ気ないものだった。
 人びとの波が、駅に向かって移動しはじめた。雨は相変わらず、細く冷たく、皇居前を白くけぶらせている。赤尾敏一行も、数寄屋橋に向けて歩きだす。テレビカメラが向けられると、即座にパフォーマンスが始まった。
 「君! このままじゃ日本は滅びちゃうよ! そのうち皇居に赤旗が立っちゃうんだ!」
 一般の参喪者たちも、気づき始める。
 「あ、赤尾敏だぞ」「どれどれ、本当だ」
 たちまち人垣ができる。その輪の外から先ほど休憩所で見かけた喪服の右翼の一団が声をかけた。
 「赤尾先生、頑張ってくださーい」
 男たちは、ニヤニヤと笑いながら、すれ違っていった。
 皇居から、数寄屋橋まではかなりの距離がある。雨にうたれながら、たっぷり30分ほどかけて、ようやくたどりついた銀座の街並みは、どこの店もシャッターをおろし、さながら戒厳令下のように静まりかえっている。通行人の姿もなければ、通りすぎる車もまばらだ。
 「おい君、コーヒーでも飲みにいこう」
 わずかに一軒だけ、看板の灯を落としてひっそりと営業していた喫茶店を見つけ、私たちはそこへ落ち着いた。
 「天皇陛下をお見送りしての感想? あんまり感想ってないなあ。君と同じだよ、フフフ。たくさんの人が来てたって、大部分は深い考えのない人だからね。イデオロギーがないから危ないよ。浅草の観音様にお参りに来る人だって、信心ありゃしねえだろ。明治神宮の初詣出、あれもそうだ。烏合の衆だよ。仮に共産党が政権とったら、みんなわーっと共産党のほうへ行っちゃうよ」
 「それにしても、今日はよく、警察が集会を許可したなあ。僕はてっきり、許可されないものと思ってたんだが……」


2月24日正午・再び数寄屋橋交差点

「庶民、労働者による大喪の礼」


 11時13分。新天皇明仁陛下が、拝礼のあとに「御誄(おんるい)」を、述べはじめる。それをクライマックスに「葬場殿の儀」が幕を閉じる頃、数寄屋橋における「庶民、労働者のための大喪の礼」の集会も、始められた。赤尾敏が演台に上がり、マイクを握る。
 「……宮内庁の役人や政府は、庶民をバカにしてる。財界の与太者や、芸能人や親方や、腹に一物ある外国のケッタイな奴らが大喪の礼の式典に呼ばれて、なぜ我々が呼ばれないのか。こんなバカなやり方があるか! 国民を二つに分けてるんだ、偉い人と一般庶民を。これはどういうことだっ! あべこべじゃないか。戦争が起こったときにあいつらが国のために死ぬか。国のために死ぬのは庶民だ。国民全体のためのお葬式なら、誰でも参加できるようにしたらいいんだ……」
 皮肉なことにしかし、庶民も労働者の姿もここにはなかった。党員たちと数人のジャーナリストの他には、犬一匹通らない。
 ひどく寒い。コートのポケットに手を突っ込み、使い捨てカイロを握りしめてもまだ震えがくる。足元からしびれるような疲労感がのぼってきた。
 演説台の赤尾敏は、コートもはおっていない。いつもの通りの黒い背広姿だ。党員が傘をさしかけるものの、横なぐりの氷雨では、それもさして役に立たない。それでも彼は熱弁をふるう。時に咆哮する。その気迫とエネルギーには、ただただ驚くばかりだが、「労働者や庶民の側に、天皇陛下をとりかえすんだ」という怒気をはらんだアジテーションが響けば響くほど、背景のそびえたつビル群の沈黙がきわだつように感じられた。資本の圧倒的な集積。完成され統制された巨大な経済メカニズム。それらは天皇制とぴったり呼吸をあわせ、今日一日、息を殺してこの国に空虚な時間を現出させていた。
 大喪の日のニッポンのエピソードを採集するために、外国人ジャーナリストが入れ替わり立ち替わり現われ、「彼はドンキホーテだね」などと言っては、またどこかへ立ち去っていった。その中に、顔見知りの者もいて、仕入れてきたばかりの情報を私に耳打ちした。
 「ブッシュとかミッテランとか、大国の元首のそばには、本国へ直接つながる特別電話を携帯している付き人が、ずっとそばにくっついているんだって。何のためかわかる? 有事の時には、核攻撃をいつでも命じられるためなんだよ……」
 疲労と寒さでぼんやりした頭に、核という言葉だけがするりと入ってきて、目の前の光景がSF映画の一シーンのように見えてきた。
 中性子爆弾の落ちたTOKYO。建物はほとんど無傷のまま人影だけが絶えた数寄屋橋で、「決起」を訴える老ファシスト……。
 「誰も聞いてないッ! 誰も俺の話を聞いてないじゃないかッ! 俺はもうやめるっ! 話すのはおわりだっ!」
 突然赤尾が激高して立ち上がり、私は妄想から現実へ引き戻された。雨中で怒りに震えながら、彼の目は誰もいない中空をにらみすえている。数秒の緊迫した沈黙のあと、しかし彼は演台を降りず、風船がしぼむようにまた椅子に体を預け、絶望的な徒労感を色濃くにじませながら静かに語り始めた。
 「……社会党や共産党の人たちも、会えばいい人たちなんですよ。だから、彼らをこちらへ引きこまなきゃいけない……」
 正午、赤尾敏を先頭に、党員たちが整列し、頭を深々と垂れて黙祷した。一人、二人、……二十四人。それがその日全国から結集したという愛国党員のすべてだった。


後日談・麹町四丁目

黄昏の帝都にビラを貼る男一人


 つけ加えられるべき、後日談がある。
 大喪の礼から半月ほどたったある夜、麹町の路上で、バケツをぶら下げた作業服姿の男を見かけた。土曜日の夜とあって、都心のビルはあらかたシャッターをおろし、人影もまばらだった。ペンキ屋かな、と一瞬思ったが、その独特の頭の形には見おぼえがあった。
 もしや……。
 「筆保さん……」
 驚いたようにふり返ると、
 「やあ、先日はどうも……」
 実直そうな表情で、筆保泰禎はそう言った。作業服には、糊のはね返りがいくつも白くかわいてこびりついていて、そのポケットには、ビラが束ねて突っこまれていた。
 「健康にいいんですよ、ビラ貼りは。自転車であちこち回っているうちに、足腰も強くなるし、もちろん政治活動にもなるし」
 数寄屋橋の街頭演説が終わって本部に戻ってからが、ビラ貼りの時間なのだという。5時頃から8時頃まで手分けして、黄昏の帝都を警官に見つからないように、自転車で駆けめぐって貼ってゆく。その人手が、わずか2、3人というのには驚かされた。
 「『島を返せ』というポスターのアジア義塾は、一人でやってるしね。本気で真面目にやっている人間の数は、そんなものですよ」
 しばらく、立ち話をした。私が、大喪の礼の日に見かけた金ピカ右翼の話をすると、「ああ、いいところに気づきましたね」と、腹にすえかねているものを吐き出すかのように、喋りはじめた。
 「今の右翼はもう、任侠右翼ばっかりですよ。ヤクザが右翼のふりをしている。だから、世間の右翼に対するイメージがどんどん悪くなっていく。真面目に政治活動やっているものが迷惑してるんです。だいたい、任侠の連中のやっていることは、要するに恐喝、ゆすりたかりだからね。街宣車買うと、頭金だけ払って残りは払わないし、マンションに事務所を構えると家賃を払わず、結局、大家がカネを積んで出ていってくれと頼むまでいすわる。そしてそのカネを握ると、その後もよそへ行ってまた同じことをやる」
 戦前の右翼と戦後の右翼を大きく分かつのは、一つは資金源の問題である。戦前は軍部と財閥が大きな資金源だった。戦後はそのルートが絶たれ活動は低迷するが、岸政権の時代の前後から、自民党と財界が左翼つぶしのために新たに資金を提供するようになる。その地下水のようなカネの流れのメカニズムは、ロッキード事件で児玉誉士夫が摘発され、一端が明るみに出たが、その後も日を追って街宣車の数が増えてゆくのを見ると、ガソリン代を提供するパイプはますます太くなりつつあるらしい。
 「街宣車が急に増えたのは、ロッキードの頃でしょう。あの頃、『田中打倒!』ってやってたら、公安じゃなくてマル暴の捜査四課が出てきて、『お前らが田中内閣打倒とか、自民党攻撃とは何事だ!』と言って取り締まりしてましたよ。警察はもう、自民党べったりだから。『お前ら右翼は、日教組と共産党だけ攻撃してればいいんだ』と、はっきり言う警察署長もいますしね」
 「この頃では、右翼というのが本来、純然たる政治活動だということがわからなくて、ただのシノギの一種だと思ってるヤクザも多いんですよ。愛国党でも、地方の支部なんかは地元のヤクザに嫌がらせをされて、迷惑してるんです。ここは俺たちの縄張りだからカネを出せって。政治活動に縄張りなんかあるわけないでしょう。それで断ると『覚えとれよ』と。広島や福山では、ウチの党員が地元ヤクザにバットでめった打ちにされたり、包丁で背中を刺されるという事件も起きてるんです。その後? いやこれは刑事事件ですから、警察に処置を頼みましたけど……任侠右翼とまともに正面からぶつかったら……やはり損でしょう……」
 「世の中、いったいどうしちゃったんだろうねえ……。70年安保の頃までは政治に熱気があった。左も右も人をひきつけたものだけど。昔は、街宣やってても人が集まったんですよ。何百人という人が赤尾総裁の演説を聴いてくれた。演説が終わると拍手がわきおこってね。新聞売るのでも、人が殺到してさばききれなかったくらい。それも安保がすぎたら、ぴたーっと人が集まらなくなった。この5年くらいは特にひどい。一人も聴衆がいないときもる。本当にどうしちゃったんだろう……ねえ……」
 私たちをぼんやり照らしだす、街頭の白い酷薄な光を、筆保は嘆息とともに見上げた。
 でも、と私は言った。天皇の御不例から崩御、大喪の礼に至るまでの国民の反応を見て、右翼は活気づいたんでしょう? あの記帳者の列を見て、体勢は我らにありと自信を深めたんじゃないですか?
 「いや、そうでもない。みんな困ってる。こうれからどうしたらいいのか……。もう国民に訴えかけるテーマがなくなってしまったでしょう。右翼はみんな困ってますよ。仕方ないからこれからは「切り取り」、企業を攻撃してカネをむしりとることですけど、それに専念しようって言ってるのもいますよ。任侠右翼の連中は特に、カネがかかるんですよ、接待で。大喪の礼の時も全国から集まってきたから、接待が大変だったらしいですよ。銀座とか赤坂とかで。ビラ貼りしてると、よく会いますよ。あいつらはビラ貼りなんて、こんな面倒で地道なことしないからね。飲んでるときに私の顔を見ると、照れくさそうな顔をする。『ごくろうさん』なんて言ってね」
 「まあ、私は独り者だし、本部で寝起きしてるから食住にカネはかからんし……これからも我々の理想を訴えていきますよ……」
 ふと気づくと、彼の手にはバケツがそのままぶら下がっていた。一時間近く立ち話をしている間、彼はバケツを下に置きもせず、そのままの姿勢で話を続けていたのだ。
 私は礼を言い、彼が自転車にまたがって去ってゆくのを見送った。
 その後ろ姿を見ながら、右翼という人生に思いをめぐらした。彼らはいったい、本当にその愚直さが報われる日がくることを信じているのだろうか。
 天皇は、あるいは天皇制は、まず存続することそのものに、最大の意義がある。万古不易という言葉とは裏腹に、時代の変容にあわせて自らの姿を変え、適応し生きのびてきた。伝統復古を唱え、時代の流れに抵抗する右翼は、ともすれば天皇の変容におきざりにされてしまいがちだ。
 だが、新天皇の「護憲発言」に動揺する右翼がいる一方で、金の指環をはめて皇居へやってくる右翼もいる。もしかするとあの指環やブレスレットの黄金の光は、新しい適応の象徴なのかもしれない、とも思われた。少なくとも、経済(カネ)こそはすべて、という時代の価値観をうつしだしてはいた。そしてその価値観こそは、昭和天皇自らがまず適応した戦後の資本主義体制が、成熟の果てにもたらしたものに違いなかった。
 右翼という異形の男たちもまた、間違いなく私たちと同じ日々を生きている。


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