「pumpkin」 1989年11月号 潮出版社
モスクワでタクシーに乗ろうとして、もしアメリカのタバコを切らしていたとしたら悲劇である。車をとめ、行き先を告げても、肝心なモノを見せないかぎり、運転手は「ニェット!」(NO)と一言残して去っていく。何回繰り返しても同じことだ。気のきかない異邦人は、永遠に街頭に取り残される。
ポケットを探ってみて、もし封を切っていないマールボロがあったとしたら、惜しまず次につかまえた運転手に見せることだ。彼は黙ってうなずくことだろう。ホッとして車内に乗り込んだところで、ひょっとするとドルとルーブルを交換しないか、ともちかけられるかもしれない。あるいは、手にしていたウォークマンを売ってくれとせがまれることもあり得る。モスクワっ子が今一番欲しいものは、世代を問わず日本製のAV製品なのだ。
マールボロもウォークマンも、一般のソ連国民は簡単に手に入れることができない。外国製品はベリョースカと呼ばれる外国人専門店舗にしかなく、そこは外国人以外は立ち入り禁止であり、また、外貨の所有自体、ソ連国民は禁じられていて、破れば罰せられる。だからこそ逆に希少価値も高まる。マールボロはルーブルに代わって通貨として流通し、外貨は闇では、公式レートの5倍ものレートで取り引きされるのだ。そしてドルや円や外国製品を手に入れるためなら、ベッドインもいとわない女たちが、この街には少なからず存在してもいる。
公式的には、社会主義国であるソ連には存在しないはずの娼婦たち。長くタブーとなっていたそんな彼女たちの存在を、テーマの中心にすえた異色のソ連演劇が、日本で公開された。8月19日から9月21日まで、東京の銀座セゾン劇場で初来日公演を果たしたレニングラード・マールイ・ドラマ劇場の「夜明けの星たち」である。時はモスクワ五輪の開催された'80年の夏。まだゴルバチョフ政権が誕生する以前のことだ。モスクワの市街から、娼婦たちが一掃され、郊外のバラックに隔離される。社会主義国・ソ連にとっての"恥部"である彼女たちは、五輪という祝祭から排除されてしまうのだ。「夜明けの星たち」は、そのバラック小屋を舞台に、娼婦たちが背負ったそれぞれの傷、人生模様を描きながら、ソ連社会の現実の姿を鋭くえぐりだしてゆく。
ラストシーンは感動的だ。彼方に見える聖火リレーに向かって、屋根に上がった彼女たちは声をからして歓声を上げ、手を振り続ける。けっして届かない、光から疎外されたものの声。それをすくいとること、形を与えることにこそ、この芝居の主題がある。
かつての教条的マルクス主義にこりかたまったソ連、スターリンの恐怖政治の後遺症からぬけ出られなかったソ連を知る人にとっては、こんな芝居が公演可能になるまでにソ連社会のペレストロイカ(改革)が進んだことに、驚きを覚えるようだ。たしかにゴルバチョフ政権が誕生以来、ソ連は大きく、急速に変化した。それはソ連国内の内政レベルにとどまらず、戦後の世界を規定してきた東西冷戦体制というパラダイムすら変えつつある。
だが、日の浅いソ連ウォッチャーとしては、「夜明けの星たち」に、いささかの不満も残る。そこに描かれているのはソ連の近過去であって、現在ではないからだ。ペレストロイカによって鉄のような障壁が崩れはじめ、西側のモノや情報や資本が流入してくるにつれて、新しい欲望も形成されてきた。その欲望に対して、供給が追いつかない現在、その矛盾もまた一段と深刻になりつつある。現在のモスクワの娼婦たちは、その矛盾の中で生きている。ペレストロイカ時代の女たちは、日本製のAV製品のためにメーク・ラブをする。その現実が描かれるとき、僕たちもまた、異国の革命と無関係な日々を生きているのではないことを知るだろう。