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序章


「失われた十年」。未来の歴史学者は、日本の90年代を、そう記すことになるだろう。

 無為無策を重ね、時間を空費したあげく、近々、日本の実質GDPは92年水準にまで後退してしまうだろうといわれている(98年12月25日付朝日新聞・経済気象台)。バブルの宴が終わり、花見酒の酔いからさめて、ほろ苦さを味わわされた、あの90年代初頭の振り出しに戻ってしまうわけだ。

 いや、振り出しに戻っただけというならまだましである。すべての経済指標は、当時よりはるかに悪化している。97年、98年と、経済成長は戦後はじめて二年連続のマイナスを記録。今年は0・5%のプラス成長とする政府見通しとは裏腹に、民間のシンクタンクもIMFも日本経済は今年もマイナス成長が続くと予測する。根拠のない楽観ばかりまき散らしてきた経済企画庁でさえも、日本経済は「デフレスパイラルと呼べる状況」と、ついにデフレスパイラル突入を認めた。

 なぜ日本経済は、デフレスパイラルに突入してしまったのか。大方のエコノミストの分析は、要約すれば、バブル崩壊に端を発する金融不安が信用収縮を招き、ついには実体経済も縮小過程に入りはじめた、というものだ。

 この分析に私も異論はない。ただ、そこにささやかな疑問をつけ加えたい。なぜ多くのエコノミスト達は、マクロ経済の分析を語る際に、〈人口の変動〉という重要な要素を欠落させてしまうのか、という疑問である。

 経済が猛烈な速度で縮小しつつあるのと軌を一にして、人口の急激な縮小過程がはじまっている。正確には総人口こそまだ微増中だが、生産年齢人口は今から急角度のカーブを描いて減少していく。戦後の高度経済成長を支えてきた世代が老いて現役を退く一方、新たに補充される若い働き手の数はきわめて乏しい。少子化のためである。

 少子化などたいした問題ではない、年金制度などを部分的に改革すれば大丈夫だという人もいるだろう。あるいは、一部の文化人が口にする「日本の総人口が減れば、空間にゆとりが生まれ、みんなが広い家に住めるようになる」という無責任な放言をうのみにしている人もいるかもしれない。

 断言しておくが、こうした楽観的認識はすべて間違っている。なぜならば、今まで少子化について論じた言説の大半は、その立論の出発点から幾つものミスを犯しているからである。




 まずは、この少子化をめぐる言説のいかがわしさについて述べよう。

 日本の総人口が将来、半減してしまうと予測されており、しばしばそれが問題の核心のようにいわれていること、これが少子化について論議する際の誤りの第一歩である。たしかに、厚生省の国立社会保障・人口問題研究所(以下、人口問題研と略す)が97年に発表した推計では、今から約百年後の2,100年には、日本の総人口は6,736万6,000人と、現在に比べて半減してしまうとされている(中位推計)。現在と同じ低出生傾向が続けば、その後も人口は減り続け、千年後の西暦3,000年頃には日本人は一人もいなくなってしまうともいう。

 こうしたセンセーショナルな予測は、少子化という問題に人々の注意を向けさせる一定の効果をあげはしたが、他方、日本民族が、日本列島から忽然と消失するかのようなイメージだけがひとり歩きし、人々の関心を目前の危機からそらせてしまう皮肉な結果をも生み出してしまった。

 真の問題は、総人口の減少などではない。人口動態バランスが短期間のうちに、極端に悪化することにある。すなわち、生産活動に従事する生産年齢人口に対する従属人口(老人や子供など)の比率(これを従属人口比率という)が、今から急激に、しかも著しく高まることが問題なのである。

「2,050年になると、1・7人で、一人の老人や子供を支えるようになる」などという話を、誰でも耳にしたことがあるだろう。政府は、この従属人口比率を前提とした上で、介護保険の導入だの年金の納付金額の値上げが必要だのと国民に説き聞かせてきた。まるで、既存の諸制度をマメに手直ししさえすれば、「いきいきとした豊かな老後」を誰もが享受できる「超高齢化社会」の実現が可能であるかのように。

 だが、非常に述べづらいことだが、今のままでは、私たちの前途にはそんな明るい未来は待ち受けてはいない。 




 まずグラフ(XXX参照)を見ていただきたい。これは前出の人口問題研が発表している資料である。

 誰でも、このグラフを見れば、日本社会の人口構成が一大転換点を迎えていることがひと目で了解できるだろう。しかし、本当に肝心なことは、このグラフでも用いられている生産年齢人口と従属人口の定義なのである。

 人口問題研は、従属人口のうち「高齢者」を「65歳以上の全男女」と定義しているが、たしかに65歳をこえれば、誰でも病気がちとなり、職に就く機会も激減する。ひと握りの例外をのぞき、年金と預貯金を頼りにするか、または成人した子供の援助を受けて生活しているものである。この層をまるごと従属人口と定義することに誰も異論はあるまい。

 問題は、生産年齢人口の定義である。これがなんと、「15歳以上、64歳以下の全男女」と定義されているのだ。考えるまでもなく、中学卒の若年労働者が「金の卵」ともてはやされたのは、はるか昔の話である。高校進学率は現在では九割を超え、大学や短大等に進学する者の数も過半数を超えている。若者がはじめて職につく就業年齢の平均は、現在は19・7歳。未成年の若者の大半は、親に扶養されているのが現実なのである。従ってまず、この若年層の分は、生産年齢人口から差し引かなくてはならない。

 第二に、いくら女性の社会進出が進んだといっても、全世代の成人女性が100パーセント、フルタイムで生産活動に十時することはありえないし、またそれをあてにしたり、望むべきでもない。妊娠、出産と育児には、多大な時間と労力を必要とする。仮にパートナーの男性が今以上に育児や家事労働を負担したとしても、妊娠と出産だけは女性にしかできない。女性のライフサイクルの中で、生産活動に従事できない休業期間があるのは当然のことである。

 第三に、「60歳以上、65歳未満」の全男女が生産活動に携わっていると仮定することへの疑問がある。60歳で定年を迎えたサラリーマンが全員、65歳を迎えるまで次の職場を見つけて働きだすとは限らない。働きたくても定職が見つからないことも、しばしばである。まして、六十代前半の初老の女性が、すべて生産活動に従事しているとの仮定するのは、あまりに無理がある。

 さらにつけ加えれば、全世代で男女ともに失業率や無業者の存在を考慮に入れなければならない。失業率は現在、4・4%を突破して、米国を上回る高水準にある。今後も企業の雇用調整や倒産が続くと考えられるから、この数字はさらに悪化するだろう。

 要するに、人口問題研が「十五歳以上、六十四歳以下の全男女」と定義している生産年齢人口のうち、実際に生産活動を行い、「支える側」に回ることのできる人間の数は、大幅に割引いて考えねばならないのだ。

 加えて、扶養の負担を考えれば、「支える者」と「支えられる者」の分数の分子には、20歳までの未成年人口を加える必要がある。そうなれば、分母より分子のほうがはるかに大きいという、異様な構図が浮かび上がる。

「1・7人で一人の老人を支える」どころか、「一人の働き手が二人も三人も支える」社会になるはずである。そんな社会が「社会」として成り立つだろうか? 私には到底不可能だ、としか思えない。

 仮にこのような社会が現実に到来したとして、現在と同程度の社会保障水準を維持しようとしたら、途方もない重税を課さなくてはならない。そうなれば活力ある個人なり法人は、国外に出てゆくだろうし、国内にとどまったとしても、少なくとも資産だけはタックス・ヘイブンに移してしまうはずである。すでに今でもビックバン以降、税逃れのために海外に資産を移す傾向は顕著になっている。

 これほど短期間に、これほどのスピードで人口動態バランスが、極端に崩れるという経験は、人類史上、どんな国家も、どんな民族も経験したことがない。しかもそれは仮定の話ではないのだ。これは強調しておかなくてはならないことだが、今から20年後の2018年までの人口構成比は、ほぼ確定しているとみなさなくてはならないのである。

 グラフでは、発表時に統計値が確定していた95年以前の数値を「実績値」として実線で、96年以降は「推計値」として破線で記している。これを見る限り、近未来はまだまだ不確定なように思えてくる。

 しかし、平均余命は、よほどの非常事態が起きない限り、大きく変わることはない。あの阪神大震災ですら、日本人の平均寿命の統計価を、4年も5年も短縮させたわけではない。何百万人もの人命が奪われるような大災害や大戦争が起きない限り、すでにこの世に生まれている人間の人口推移は、ある程度、予測がつく。

 97年に出生した新生児の数は119万1,681人。合計特殊出生率(一人の女性が生涯に生む子供の数)は、1・39と、史上最低水準を更新した。今から約二十年後に成人し、「支える側」に回る日本生まれの日本人の数は、この119万1,681人を上回ることは絶対にありえない。二十年先までの人口構成は、確定値とみなしてよい、とはそういう意味である。

 もしも今年以降、出生率を上昇させるための手だてを何も打たないのに、突然、爆発的なベビーブームが巻き起こったとしたら、2019年以降の従属人口比率は、推計値と大きく異なるものになるだろう。本当に現実になれば、それは嬉しい誤算に違いないが、そうした誤算を期待するのは、奇跡をあてにするのに等しい。むしろ、このままでは、子供を産まない傾向はますます加速してゆくことだろう。なぜならば、ベビーバスト(出生率の低下)と、経済のデフレーションは、今やしっかりと手を握りあい、互いに因となり、果となって、破滅への輪舞を踊りはじめているからだ。




 ベビーバストとデフレの「破滅への輪舞」について語る前に、もう一度、話を前に戻すことを許していただきたい。少子化について語る際に、多くの有識者や官僚達が、人口推計のデータを読み誤るか、あるいは楽観的に解釈していると述べた。私にはそれがどうしても不可解でならない。待ったなしで、超少子高齢化社会が迫りつつあるというのに、なぜそれが、まるでまともな社会として成り立つかのように、語れるのだろうか。

「超少子高齢化社会など来ない。なぜなら近い将来、日本社会は社会などと呼べるものではなくなり、ロシアのように経済は破滅、治安は悪化し、ニヒリズムに支配された荒地と化しているからだ」などと主張する過激な言説にはめったにお目にかかることがない。

 こうした奇妙な光景を見るにつけ、私は森鴎外の『かのように』という短編を思い出す。

 明治初期、歴史学を学んだ洋行帰りの若いインテリの一青年が、神話と峻別した上で日本の歴史を記そうと志す。しかし実際に着手すれば、神話を素朴に信じ、祖先の霊を敬って生きてきた日本人の伝統的な生き方を批判することになる。ことによれば危険思想家扱いされかねない。

 そこで彼は、実際には存在しない神や霊を、あたかも存在する「かのように」敬い、「無知無学」な人々と同様にふるまうしか道はないと諦念し、友人を相手にそうした自分の考えを語る。

 彼は、しかし、実は父親(既成の権威の象徴)との衝突を恐れて、真実を口にすることをためらっているのであり、それを友人に見破られて狼狽する。だが、それでもやはりあと一歩を踏み出せず、何ものかに呪縛されたまま働けない……。

 超少子高齢化社会がまともな社会として成立する「かのように」語る者たちは、いったい何に呪縛されているのだろうか。

 残された時間は少ない

 答えはどうやら実にシンプルなもののようだ。彼らは、積極的な人口奨励策を口にすることで、人々に戦時中の「産めよ、殖やせよ」という強制的な人口増強策を想起させ、「反動的だ」と批判されることを恐れているらしいのである。

 厚生省のあるキャリアは、私にこう語った。

「『平成十年版 厚生白書』で『少子化』を特集として取り上げはしましたが、しかし、これをきっかけに人口奨励策を採ろうとしているのではない。子供を産むという決断は、あくまで個人の問題であり、自由選択にまかされているわけですから」

 あらかじめ批判を予期して身構えているような物言いだった。もどかしさを覚える私に、彼はこう続けた。

「白書に対する批判が少なかったのは、意外でした。『産めよ、殖やせよの時代に引き戻す気か』と、もっとお叱りを頂戴するのではないか、と思っていましたから」

 亡霊に呪縛されている、と思わざるをえなかった。今の時代に、どうやったら戦時中の強制的な人口増強策を復活させることができるというのだろう。スウェーデンやフランスなど、少子化先進国が採ったような平時の人口奨励策と、戦時の強制的な人口増強策はまったく別のものだ。

 あと7、8年もすると団塊の世代が定年を迎える。この巨大な人口の塊りが、「支える側」から「支えられる側」へとシフトしてゆくのである。日本社会に残された時間の猶予は、あまりにも少ない。もし、十年前に出生率を上昇させる施策を大胆に打ち出し、実効をあげていたとしたら、その時に産まれた子供達は、今から十年後には「支える側」の仲間入りをすることになったはずである。冒頭、日本は90年代を「失われた十年」にしてしまった、と記したのは、そういうことだ。次の十年も同じように空費してしまったら、もう未来はない。経済は破綻し、クラッシュする他はない。世界第二位の経済大国にして、世界最大の債権国の崩壊は、全世界を巻き込まずにはおかない。日本発世界大恐慌の勃発は不可避である。




 私たちは、この社会を存続させ、その一員として生き残ろうとする限り、何としてでも、最悪の事態を回避し、ゆるやかに軟着陸していく方途を探るしかない。その手だての案出が、指導者層によって真剣に模索されない限り、国民の失望感、不信感は募ってゆくだろう。

 すでにそうした不信のウィルスは、社会全体に広がりつつある。いくら政府や有識者が「かのように」ふるまっても、庶民は自分の肌で、この不況の深刻さを感じているからである。

 一例をあげると、現役世代が保険料を負担して、順送りに引退した世代の面倒をみる現在の賦課型の年金制度の破綻は、もはや誰の目にも明らかである。98年に政府が発表した年金制度の「改革」プランでは、60歳からの繰り上げ支給を段階的に廃止し、65歳からの支給に統一するという。ということは、これから60歳で定年を迎えるサラリーマンは、年金を受給されるまでの5年間、何とか自力で食いつながなければならない。

 定年までに住宅ローンを完済していたと仮定しても、夫婦二人の生活費として最低でも年に400万円は欲しいところである。再就職先が見つかればよいが、有効求人倍率は0・5倍を切っていて、求職者二人に対し一人分の求人しかない状況では難しい。そうなれば預貯金を取り崩すしかないが、400万円×5年間となると、2,000万円もの金が必要、という計算になる。

 だからこそ、誰もが必死になって老後の生活防衛のために貯蓄にはげみ、出費を極力抑えようとする。その結果、消費は冷え込み、現在でも40兆円以上といわれている需給ギャップが深刻化し、企業の業績悪化に拍車をかけてゆく。

 さらに問題は、貯蓄するといっても、超低金利のため、金融機関に預金するメリットが見出せない。しかも、金融システム不安が解消されず、どの金融機関が安全なのか、よくわからない。従って、とりあえず手元に置いて眠らせておくほうがマシだとなる。

 かくて、本来ならば金融機関を通じて、企業の短期資金として融資されるはずのキャッシュフローがタンス預金化し、業績は黒字なのに、運転資金の資金繰りがつかないために企業が倒産する、いわゆる「黒字倒産」が続出することになる。不況は深刻化して、失業率はさらに上昇、国民はますます身を固くして消費を控え、それがまた、不況の悪化を招く。

 何もかもすべてが経済が縮小する方向へと螺旋状に回転しながら墜ちてゆく悪夢――。デフレスパイラルという名のこの悪夢から抜け出すには、何としてでも国内需要を掘り起こすしかない。だが、小渕政権が景気回復のために打った手だてはといえば、各方面に「配慮」した八方美人型の、戦略性に著しく欠ける9兆円減税(しかも真水は4兆円だけ)と、赤字国債の大量発行に、公共事業の大量発注という、相も変わらぬバラまき財政だった。




 有効需要の創出の重要性を説いたケインズは、「穴をただ掘って、埋めるだけでも、需要を生む」という有名な言葉を残した。これはむろん、需要を喚起することの重大さを説くためのケインズ一流のレトリックにすぎない。

 ところが日本政府の中枢に巣くっている悪しきケインジアンどもは、この言葉を真に受けているらしく、本当に「穴をただ掘って、埋める」に等しい無意味な土木事業に税金を投じる愚行を改めようとしない。

 昨年の12月15日付朝日新聞夕刊の「建設省『スーパー堤防』推進中」という記事を目にした読者で、仰天しなかった者はいなかっただろう。「スーパー堤防」計画とは、「往来の河川堤防を、さらに肉厚にして1987年度から全国総延長800キロをめざして取り組んでいる事業」だそうだが、なんと「完成まで千年」もかかるのだという。しかも建設省は、治水上はまったく必要性のないこの工事を、厚かましくも「景気浮揚対策の目玉」になると称して、来年度予算に「今年度当初比6%を上乗せした約470億円」を要求しているというのだ。

 千年後といえば、先に引用した人口問題研の推進値によると、日本列島から最後の日本人が消える頃だ。スーパー堤防だけが、万里の長城よろしく完成して、その堤防によって守られるべき人も財産も消えている――。狂気の沙汰である。

 公共事業や企業の設備投資が、需要を喚起し、乗数効果を生むという教科書通りの公式は、高度成長期ならいざしらず、経済が成熟しきった今日では、そのまま通用する話ではない。現在、日本のGDPの六割を占めているのは個人消費である。高度消費社会において内需拡大のカギを握っているのは、個人のサイフなのである。

 しかも、「個人」に金がないわけではない。昨年、日銀が発表した推計では、日本の個人金融資産は1,200兆円余り。消費に回らず、塩漬けになってしまっているのだ。

 消費意欲の低迷の原因は、老後の不安ばかりではない。いくら金があるとはいっても、その「個人」にもはやモノには飢えてはいない。どこの家庭にも、モノがあふれている。ウサギ小屋ではあるが、住む家もあり、資産デフレを考えれば、無理をしてまで住宅ローンを組みたいとは思っていない。




 買い換え需要しか期待できない相手に、なんとかモノや住宅を買わせようとしても、おのずと限界がある。不健全な買い換え需要ではなく、健全でまっさらな、新規の需要が創出されなければ、経済は決して再生されない。では、新規の需要を担う者は誰か。言うまでもなく、ニューカマーである。

 子供は裸で産まれてくる。普通の親ならば、食べ物も衣服も、惜しみなく与えたいと願い、なけなしの金をはきだす。

 仮に親が筋金入りの吝嗇家の場合であっても、子供のほうが親の金を惜しみなく奪う。相応の年齢になれば、子供は自分専用の携帯電話や新品のMDウォークマンをねだり、塾や予備校通いをして、教職員の雇用を支え、読書はしなくても、少なくとも娯楽産業やサービス産業、ファッション産業は潤す、貧欲なよき消費者となる。

 ニキビ面になる頃には、自分の部屋を強固に要求し、渋々ながらも親は住み慣れたウサギ小屋より、少しだけ広い間取りの住居に移ることを検討するだろう。そして親がそのローンを払い終わらないうちに、子供は子供といえない年齢となり、家を出て、アルバイトをしてでもワンルームのマンションに移る。

 子供の誕生は、大いなる需要の創出そのものなのである。どんな人間であれ、子供を持ったが最後、嫌でもタンス預金をする余裕などもなくなるのだ。「公的資金」などと姑息に呼びかえた私たちの血税を、いまだに貸し渋りやめない不良銀行に「投入」するくらいならば、その何分の一かでも、出生率の向上に役立つ施策に「投入」すべきであろう。その「公的資金」は、確実に継続的かつ貧欲な消費に回り、景気の回復に貢献する。しかも同時に、未来の生産者を再生産する有効な投資となるのである。

 また、一時的には子供は、高齢者と並んで従属人口として生産年齢人口の負担となるが、やがて支える側になることが見込める。分子を支える分母の拡大につながるのである。そもそも、従属人口比率の悪化という分数の問題を解くには、分母の拡大以外にない。

 分子を人為的な手段で小さくすることは不可能なのだ。深沢七郎の『楢山節考』のように、姥捨山に高齢者を置き去りにして見殺しにすることなど、現代では許されないのだから。




 政府のお偉方が、この単純な分数問題を理解できないのは謎というしかない。しかしここで、少子化問題が隅に追いやられているのはなぜか、あえて考えてみるならば、さしあたり三つばかりその理由を挙げられるだろう。

 ひとつは、子供は社会にとって公共財であるという観念が希薄なこと、第二に出生率向上のために有効な具対策が思いつかないこと、そしてもうひとつは日本社会は現在、史上かつてない一大転換点を迎えているのだという、歴史的認識が欠けていること、この三点である。

 第一と第二の論点はひとまずおくとして、第三に挙げた歴史認識について述べてみたい。

 現在が、重大な時代の転換点に位置していることは、多くの論者が指摘している。ある者は、戦後システムを清算すべき時であると論じ、他の者は今こそ戦時体制=1940年体制を解体すべき時であると主張する。しかし、人口の増加と減少という観点に立つ限り、今、私たちが直面している事態は、少なくとも明治維新にまでさかのぼり、130年にわたる近代日本の歩みを射程に入れて眺望しなくては理解することはできない。

 260年余りにわたる江戸時代の全期間を通じて、日本の人口は、約3,000万人という水準でほぼ安定的に推移してきた。ところが、明治維新を境にして、日本の総人口は急速な増加を開始し、以来、一貫して右肩上がりに上昇し続けてきた。第二次大戦末期に、民間人の犠牲者を含む戦死者の増加によって一時的な減少をみるものの、戦後、再び上昇に転じ、戦前を上回る速度で増加の一途をたどってきた。

 急斜面を駆けのぼるような人口の増加は、「坂の上の雲」を見上げながら、ひたむきに経済の拡大再生産を続けてきた日本の近代の軌跡そのものと、ぴったり重なり合う。

 ということは、人口の増加=拡大再生産がピークに達し、人口の減少=縮小再生産に劇的に転じるとともに、経済もまた拡大再生産から縮小再生産に反転して坂を下ってゆかざるを得ない。現在のデフレ不況をもたらしているものは、バブル崩壊後の不良債権処理のもたつきだけではない。より深く、歴史に根差した必然性があるのである。

 要するに、私たちはまさしく今、日本の「近代化の道程の終わり」の時に立ち会っているのだ。その後に続くのは、「反近代」でも「超近代」でも、もちろん「差異の戯れとしてのポストモダン」などでもない。あえていえば「逆近代」の過程のはじまりである。

『坂の上の雲』を書いた司馬遼太郎は、最晩年に「これからの日本に求められるのは美しき停滞である」という言葉を遺した。実に残念ながら、今のままでは、私たちには単なる凡庸な停滞すら許されていない。




 人口減少の問題に話を戻そう。

 一本調子の人口増加に陰りがさしたのは、実は、昨日今日のことではない。戦時の人口増強策から戦後は一転して、日本は官民あげて産児制限に取り組んだ。そのため、アメリカのベビーブームは終戦直後から十年以上も続いたのに対して、日本のベビーブームは3年で終息し、出生数は急速に低下、1957年から74年頃までは夫婦一組あたりに平均して二人の子供という水準で推移した。

 ところが、73年秋に起きた第一次オイルショックにより、一本調子で昇りつめてきた高度経済成長が頓挫する。この時を境に、日本経済は低成長時代に移行するが、時期をほぼ同じくして、合計特殊出生率も2・08を割り込むことになった。

 人口を一定に保つには、一組のカップルから二人の子供が成人するまでに死亡するリスクもあるので、現代の日本では平均して2・08人の子供が必要とされる。これを人口置換水準という。この置換水準値を割り込んだ70年代半ば以降、出生率は漸減を続け、一時期をのぞいて人口置換水準を回復していない。

 しかし、出生率が人口置換水準を下回ったにもかかわらず、総人口は70年代以降も伸び続けた。これは平均余命が伸び続けたためである。世界一の長寿社会の実現は、近代日本の成功を象徴する誇らしい指標として、内外にしきりに喧伝され、同時に来たるべき高齢化社会の像を素描する試みが行われるようになった。

 それに比べて、少子化が社会問題としてクローズアップされるようになったのは、ごく最近のことである。89年の合計特殊出生率が1・57を記録し、「1・57ショック」と騒がれたのは90年のこと。丙午にあたっていた66年に、一時的に出生率が1・58まで落ち込んだことがあったが、これは「丙午生まれの女性は夫を殺す」という迷信のためで、そんな迷信による一時的な出生率低下の記録よりも数値が下回ったことが問題視されたのだ。少子化が社会問題として浮上してきたのは、おそらくこの時が最初だったと思われる。しかし、その当時、この数字にどれほどの人が深い関心を示したことだろうか。




 人口推移の歩どりは、偶然とはとても思えないほど、いつも歴史の刻み目と結びついている。89年という年は、言うまでもなく、歴史に決して消えることのない刻印を残した年だった。東欧革命が起こり、世界を二つに分裂していたベルリンの壁が崩壊して、冷戦体制が終わりを告げた年。そして昭和天皇が崩御し、平成に改元された年である。

 歴史の巨大なうねりが世界を刷新してゆかに思えた高揚感と比べて、「1・57ショック」というニュースは、あまりにちっぽけなトピックでしかなかった。

 かくいう私もまた、1・57という数字に注意を払わなかった人間の一人である。私事になるが、フリーランスになって3年目のプアな駆け出しライターだった私は、二〇代に別れを告げ、三十代の最初のステップを踏んだその年、周囲から金を借りまくって「歴史の現場」へと飛び出していった。ヴァツラフ・ハヴェルが大統領に選出されたその日、夜が更けても家路につこうとせず、歓声をあげ続ける何十万人ものチェコ市民とともにプラハの市街で一夜を過ごした。クリスマスは、ベルリンの壁を削り取りながら、上機嫌で世界中からやってきたありとあらゆる国々の人々と握手をかわし、80年代最後の大みそかと90年代最初の新年をモスクワで迎えた。

 陰鬱な冷戦がついに終わったのだ、というあの当時の多幸感を、この先も決して忘れることはあるまい。「1・57」などという数字は、頭の片隅にもなかった。この浮かれ気分が遠からず消え失せ、やがてやってくる冷戦後のグローバリズムという「新しい現実」が、必ずしもバラ色に彩られたものではないことを予感していながらも、生誕する子供の数が減りつつあるという事実が、自分たちが立っている足場をつき崩すほどの破壊力を秘めているなどとは、微塵も懸念していなかった。




 91年。バブルが破裂する。

 そして92年。人口問題研は、百年後に日本の人口は6,158万6,000人に減少する可能性がある、と発表した。これは高位、中位、低位と三通り発表する推計値のうちの低位推計にもとづく警告だった。少しずつ「少子化」という白蟻の正体が見えはじめてきていた。

 しかしこの推計値はまだまだ甘いと、各方面から批判を浴びることになる。中位および高位推計では、合計特殊出生率が、ごく近いうちに上昇に転じ、日本の総人口は再び増加に転じると楽観的予測を打ち出していたからである。

 そして97年。拓銀、山一と大手金融機関がたて続けに経営破綻に追い込まれ、金融システム不安が一挙に噴出したこの年、人口問題研は、5年前とは比較にならないほど深刻な推計値を発表した。高位、中位、低位とも、少子化の継続的進行によって日本の総人口が将来、激減するという未来を描出したからである。

 しかし、現実の進行はとどまるどころか、加速する一方である。現在は第二次ベビーブーム世代がそろそろ結婚適齢期にさしかかっており、本来ならばこれから第三次ベビーブームが期待できるはずなのである。しかし、見通しは決して明るくない。このデフレが暗い影を投げかけているからだ。

 どんな大企業だろうとも、倒産する可能性があり、若手社員すらもリストラの対象になるからである。こんな先行き不透明な時代であれば、若年層も自己防衛のために、できる限り負担は背負い込まず、身軽であろうとするのは当然である。かくして、未婚率はさらに上昇する。また、結婚しているカップルであっても子供をつくるのをあきらめるか、先に延ばそうとする。延ばしているうちに、ついに出産の機会を逸してしまうことも起こりうる。そうやってデフレに手を引っ張られながら、少子化はいっそう進む。

 二十代や三十代の人間が、自らのサバイバルのため、セックスをしても子供はつくらず、消費を控え、住宅ローンを組まないというライフスタイルを選択することは、個人(ミクロ)のレベルで考えれば、きわめて経済合理性にかなった選択であるといえる。

 しかし、同時に全員が同じ戦略を選択すると、マクロのレベルでは、デフレとベビーバストが究極まで突き進み、社会は完全に崩壊する。ミクロレベルではプラスに作用する合理的な行動が、マクロのレベルではまったく逆に大いなるマイナスをもたらす。これこそは「合成の誤謬」と呼ばれるパラドックスの典型である。自分だけは救われようともがくうち、結局は自分で自分の首をしめてしまう。それが、デフレとベビーバストが手を結んだこの「破滅の輪舞」の怖さなのだ。




 では、この悪循環を断ち切り、内需を拡大させ、破滅を回避する具体的な手だてはないのだろうか。私はある、と思っている。歴史の進行は止められなくても、カタストロフだけは回避し、美しくはないかもしれないが、なんとか停滞に持ち込むことは可能だと考えている。とりあえず、ここではひとつだけ、具体策を提案しておきたい。

 日本の個人金融資産は1,200兆円あると、先述した。しかし全世代が満遍なく豊かな資産を有しているわけではない。資産を有しているのは誰か。実は、六十代以上の高齢者なのである。『平成十年版 国民生活白書』によれば、1,200千二百兆円の金融資産のうち、約五割を六十代以上の高齢者層が所有しているという。金融資産から負債を差し引いた純金融資産となると、なんと六割近くになる。

 そしてその資産の多くが、休眠してしまっている。政府も、民間の金融機関や企業も、何とかこの高齢層のもつ資産を動かそうと躍起になっており、たとえば、住宅のような実物資産を流動化させるために、リバースモーゲージ(逆住宅ローン)を普及させようとしている。

 リバースモーゲージとは、自宅に住み続けながら、その自宅を担保に融資を受けて、契約期間終了時に自宅を処分する方法であるが、前出の『国民生活白書』も認める通り、「あまり普及していない」。利用しない理由のトップとして高齢者があげているのは、「住宅地は子供に引き継がせたい」というものだ。大半の高齢者は、豊かな資産を抱え込みながら静かに余命を過ごし、自分の死後、子供に相続させようと考えているのだろう。今さらリバースモゲージなどを利用して、金を浪費したところで、つまらない、虚しいだけだと思っているに違いない。

 私は年寄りではないが、その心情は分かるような気がする。親はいつまでも子供が可愛い。さらに孫の顔が見られれば、それが一番幸せである。大方の高齢者の幸福感は、今も昔とさほど変わらずにいるのではないか。




 ならば、おじいちゃん、おばあちゃんを喜ばせてあげればいい。孫の顔を見るため、という動機であれば、サイフのヒモもゆるむ。そしてそれを促す税制に変更すれば、この塩漬けの資産は動くはずである。

 具体的には、親から子・孫への贈与税を条件つきで非課税にするのである。贈与税は、相続税を補完する税制で、相続税逃れを戒める目的があるために、税率がきわめて高い。ただし、現在でも特例は認められている。若い夫婦がマイホームを購入する際に父母や祖父母から金銭贈与を受けた場合、三百万円までは全額、非課税となる。

 私が提案したいのは、この住宅取得特例と同様の非課税枠を、子供の出産、養育、教育などを目的とする金銭贈与のために設けることである。つまり、零歳から15歳未満の子供を有する者が、その者の父母または祖父母から、子供の出産、養育、教育の目的のために金銭の贈与を受けた場合には、その子供が15歳に達する年までのいずれかの年において、子供一人につき一回限り、贈与税を非課税とすることを認めるのである。

 特例の対象となる金額の限度枠は、さしあたり第一子については300万円程度とし、第二子以降は、百万円ずつ割増ししてゆくようにする。言うまでもなく、これは、第二子、第三子、第四子と続けて産める者、産みたいと願う者に対して税制上優遇し、出産率の上昇に寄与するように導くためである。

 休眠している高齢者の資産を流動化させ、その金をただちに消費することが確実な子持ちの若年層に回せば、内需の拡大に一定程度、貢献するはずである。ベビーバストに一定の歯止めをかけることにもなるし、贈与した高齢者にとっても、子供に感謝され、孫の顔を見ることができ、精神的な効用は大である。一石三鳥ではないか。

 本稿では割愛するが、贈与税の非課税だけでなく、扶養者特別控除枠の拡大や、児童手当の支給など、政府が打てる手だてはまだまだある。

 もちろん、出産・養育支援の枠組みを作るだけで、少子化の問題が解決するとは私も思っていない。妊娠は、セックスを抜きにはありえない(女性が精子バンクで精子を購入し、自分でスポイト受精するという手もあるが、そうしたセックス抜きの受胎についてはまた改めて論じたい)。セックスという、きわめて個人的で、実存に深くかかわり、時として経済合理性など無視しうる不条理なエネルギーの噴出を、税制を少しいじることぐらいで容易にコントロールできるなどと過剰な期待はすべきではないだろう。




 出生率の低下はなぜ起きたのか、なぜ下げ止まることなく、低下しつつあるのか、その原因は実ははっきりわかっていない。とりあえず非婚化と晩婚化の進行が、出生率低下の原因に挙げられてはいるが、それでは何も説明したことにはならないだろう。

 何よりまず、セックスと不可分に結びついている妊娠と出産について語る場合、セクシャリティ(性的行動様式)の読み解きという作業が必要となる。このやっかいではあるが、重要な手続きをパスして、少子化という現象の核心に迫れるはずはない。

 ベビーバストが起こるのは、「産まない」女性と「産ませない」男性がいるからだけではない。「産めない」女性と「産ませられない」男性の存在も忘れるわけにはいかない。

 昨年は、環境ホルモンが大きくクローズアップされたが、実は不妊の正確な実態は、今でもまったく把握されていない。この国には、不妊の公式統計が存在しないからである。

 やるべきことはあるし、考えるべきことも多々ある。これから約一年にわたって、少子化という主題を中心にすえながら、セクシャリティの変容や、生殖医療技術の現在、性と生の倫理のゆらぎ、そして市場化された世界におけるセックス・ワークのありようなどについて、レポートと考察をお届けしていきたい。

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