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「現代」 2000.5

少子化とSEXと資本主義




[13]国家崩壊へのカウントダウン



 本連載も、今号で最終回となる。
 男女の関係性の変容と少子化、そして少子高齢化による人口動態バランスのゆがみとデフレ不況との相関について、一年余りにわたり、論じてきたが、締めくくりとして今回は、少子化とデフレ不況の悪循環を断ち切るために、マクロ政策の次元では、どんな手だてがありうるか、考えてみたい。
 まずバブル崩壊後の十年不況の原因についてだが、それが短絡的な景気循環に起因するものでないことは、もはや誰の目にも明らかだろう。
 むろん、90年代の不況には、80年代に行われた過剰投資の調整過程という循環的側面があったことは否めない。しかし、設備投資や住宅のストック調整が完了してもなお、消費の冷え込みは好転せず、地価の下落はとまらず、日本経済は底の見えない下り坂を今も下り続けている。
 これは、一時的な景気循環的要因だけでは説明がつかない。より根の深い、構造的な要因にもとづくと考える他はない。
 では、十年にわたる構造不況は、何によってもたらされているのか。
 ひと言で言えば、将来への不安である。未来に対する「確信(コンフィデンス)」(ケインズ)の喪失と言ってもいい。
 現在、国と地方の借金は、約1800兆円にものぼるとみられている。3月20日付『東京新聞』によれば、国の債務は、国債、厚生年金、郵貯、簡保、公務員退職給与引当金、政府短期証券などを合計すると、約1500兆円を超えるという。これに、地方債など、地方自治体の債務を加えると、約1800兆円にのぼる。
 これはGDP(国内総生産=99年度は495兆円)の約3・6倍、国家予算(2000年度の一般会計予算は約85兆円)の約21倍に相当する。
 こうした債務は、やがて国民一人ひとりの負担で返済されなくてはならない。赤ん坊から老人まで含めて、国民一人あたり約1500万円もの借金が、のしかかっているのだ。気が遠くなるような話である。
 その一方で少子高齢化は、予想をはるかに超えるスピードで進んでいる。生産力の低下(労働人口の減少)と、負担増(高齢者の増加)は避けられず、2025年前後には、65歳以上の高齢者が国民の3割弱を占める世界一の超高齢社会を迎えることになる。このまま手をこまぬいていれば、負担の重みに押しつぶされてしまうだろう。不安にまったく駆られない人がいるとしたら、神経がどうかしている。





 構造問題について、検証しよう。
 まず第一に、社会保険費目の中で、最大のシェアを占める公的年金に対する不安である。
 周知の通り、現行の年金制度は、現役世代が自分の年金を積み立ててゆく積立方式ではなく、現役世代の支払う保険料を、先行世代への給付に充当する賦課(ふか)方式である。この方式だと、高度成長期のように、引退した年金受給者に比べて、現役世代の数が多い時には、保険料の支払い負担は軽くてすむのだが、その逆に少子高齢化が進んで受給者の数が増えると、支払い負担が過重になってしまうのである。
 今までは、一人の人間が生涯に支払う保険料の総額は、受給額を下回っていた。ところが、その差は次第に縮まり、やがて逆転する。1962年生まれ(今年38歳)の人間の場合、厚生年金の保険料の支払額と受給額はほぼ一致し、プラス・マイナス・ゼロとなるが、それ以降に生まれた世代では、支払い超過となってしまうのだ。
『年金改革論』の共著者である八田達夫・東京大学教授と小口登良(おぐちのりよし)・専修大学教授の試算によると、1935年生まれ(今年65歳)の人は、受給超過となって、4895万円のプラス。対して、現行制度が続いたと仮定した場合、2010年生まれの人は、大幅な支払い超過となって、2589万円のマイナスとなる。
 つまり、1935年生まれと2010年生まれでは、7484万円もの格差が生じるのだ。世代間の不平等も、これほどまでとなれば、容認可能な限度をはるかに超える。
 損をすると分かっていて、喜んでお金を支払う人間はいない。自営業者やフリーターといった国民年金の被保険者のうち、3分の1が保険料を支払っていないのは、ある意味では当然のなりゆきである。こうした空洞化がまた、年金財政の悪化に拍車をかけていることは、言うまでもない。
 公的年金だけではなく、企業年金の信用もまた、大きく揺らいでいる。
 90年代に入り、解散に追い込まれる厚生年金基金の数が、急増している。1966年以来、これまでに創設された厚生年金基金の数は、1958基金で、この30年余りの間に解散した基金数は69。そのうち90年代に入ってから解散した基金の数は、53を数える(2000年2月末現在)。
「会社の統合によって解散した基金もありますが、94年以降は、財政悪化が理由での解散が、大半を占めています」(厚生省企業年金国民年金基金課)
 解散に追い込まれなくても、各基金とも、年金の積立金不足が問題となっている。不足額は合計で約4000億円。基金によっては、退職金にも影響が出るとみられている。





 保健医療費の収支も、悪化の一途をたどっている。
 大企業の健康保険組合は、今年約4000億円の赤字となる見通しである。また、中小企業の従業員が入る政府管掌健康保険の赤字は約3000億円、国民健康保険も、赤字額が約1500億円に達する見込みで、このままでは各医療保険の財政破綻は避けられない。
 見通しは、あまりに暗い。いったい現在の現役世代は、自分の引退後の生活にどう備えたらいいのだろう。公的な社会保障をあてにせず、自助努力で老後に備えるべきなのか。
 だが、自助努力にも限界がある。
 銀行預金には、期待できない。超低金利のため、銀行に預金しても、金利はゼロに等しいからだ。
 生保にも、不安がつきまとう。バブル崩壊後、生保各社は運用利率が予定利回りを下回る逆ザヤに苦しんでおり、そのため不良債権が毎年数千億円のペースで膨らみ続けている。97年に日産生命が、99年には東邦生命が破綻して、生保の経営危機が表面化したことは、記憶に新しい。
 郵便貯金も、財政投融資の原資として使われ、巨額の不良債権を抱えているのではないかと推測されている。どこへカネを預けたらいいのか、わからない。八方ふさがりなのだ。
 そこへもってきて、雇用不安が加わる。終身雇用制も、右肩上がりの年功賃金制も、大きく揺らいでいる。賃金は伸びず、リストラは日常化し、失業率は5%近い水準を、依然、保ち続けている。こうした先行き不透明な状態では、若い世代は結婚もままならず、たとえ結婚しても子づくりを控えようとするだろう。
 実際、出生率の低下(ベビーバスト)は、政府の予測を上回るペースで進んでいる。その結果、人口動態バランスはますます歪み、将来の見通しはさらに暗いものとなっていく。
 さて、こうした問題点の摘出は、過去に様々なメディアが行ってきた。年金改革ひとつとっても、数えきれないほどの本が書かれ、新聞や雑誌で特集が組まれてきた。
 だが、試みに、そうした記事やほんのどれでもいいから、改めて読み返してもらいたい。するとそれらの多くが、少子高齢化の進展を、変えることのできない所与の前提とした上で、改革論議を組み立てていることに気づくだろう。
 構造改革は、むろん必要である。打てる手はすべて打つ必要がある。それも迅速かつ、大胆に。問題の先送りは許されない。改革への着手が遅くなればそれだけ、状況は悪化してしまう。
 しかし構造改革が必要であるにしても、少子高齢化の趨勢を不動の予見であるかのようにみなすことは間違っている。このトレンドは、変えられないまでも、弱め、速度を遅らせることはできるし、また、そうすべきである。
 少子高齢化は、二つの要因が組み合わさって生じる。ひとつは平均余命の伸び、もうひとつは出生率の低下である。言うまでもないが、前者を人為的に押さえることはできない。平均余命を縮めるとは、「姥(うば)捨て」に他ならず、許されることではない。
 変えられるとすれば、後者だけである。出生率が上昇し、若年人口が増えれば、全人口に占める高齢者の比率(高齢化率)は低下するからだ。





 さて、それでは子供の数が減っていくのは、いかなる理由によるものか。
 再生産(リプロダクション)可能な年齢の男女それぞれに、複雑な事情があるに違いないが、そこをあえて捨象し、大ざっぱな分類を試みると、以下のように大別することができるだろう。

(1) 結婚が遅れてはいるが、いつかは結婚し、子供をつくるつもりでいる人(未婚・晩婚)

(2) 独身のまま、結婚しないつもりで、子供も望まない人(非婚)

(3) 結婚はしたくないが、子供は欲しいと思っている人(シングル・ペアレント志向)

(4) 結婚はしたい(あるいはすでに結婚している)が、子供は欲しくない人

(5) 結婚しており、子供を望んでいないわけではないのだが、経済的な問題で、子づくりをためらっている人

(6) 結婚して、子供もいるが、理想の子供数とは開きがあり、状況さえ許せば、まだ欲しいと思っている人

(7) 結婚していて、子供も欲しいとは思っているものの、パートナーとの関係の不安定さから、子づくりをためらっている人

(8) 不妊症のため、子供ができにくい人

 以上のパターンの中で、本人たちが子供を欲しくないと思っているのは、(2)と(4)だけである。
 彼らに子づくりを要求することはできないし、求めてはならない。以下に少子化が進もうと、子供を望まない人の自由は、確保されるべきである。出産奨励策と、「産めよ、殖やせよ」をスローガンとした、有無を言わせぬ戦前・戦中の人口増強策とは、その点ではっきり峻別されなくてはならない。
 (3)と(7)は、経済問題よりも、カップルとなる相手との関係に自信を持てずにいるため、子づくりを抑制している人たちである。
 現代では、貞操を重んじる性規範の溶解や、離婚を容認する社会意識の変化によって、男女が一対の関係を安定的に継続してゆくことは、必ずしも容易なことではなくなってしまった。そのため、いつでも関係をリセットできるように、子供をつくらないようにしている男女が増えている。
 彼らに対しても、経済的なインセンティブによって、子供をつくるように働きかけることは難しい。ただし、年齢的に、出産できるかどうかの生物学的限界がさし迫ってきた時、彼らがリスクを負ってでも子供をつくろうと決意した場合に、その決断をサポートする仕組みをつくっておくことには、意味がある。仮にパートナーとの関係が壊れ、シングル・ペアレントとなったとしても、何とか子供を育ててゆける環境が整備されていれば、いざというときに路頭に迷うことはないだろうと、思い切って子供を産もうとする人も出てくるに違いない。
 離婚やシングル・ペアレントとなるリスクを冒すことを、むやみに推奨するわけではない。しかし、所詮は赤の他人である男女が、互いに百パーセント信頼しあえるなどということは幻想にすぎないし、完璧を求めたら、誰も結婚や出産に踏みきれなくなる。どこかで見切って、無謀でも冒険に踏み出す必要がある。その際に、万が一、結婚が失敗に終わった時のセーフティーネットを、用意しておく必要がある、ということなのである(言うまでもなく、それは市場におけるリスクを伴った自由な経済活動と、失敗したときの最低限のセーフティーネットの必要性という、冷戦後のグローバル資本主義時代の社会経済システムとパラレルである)。





 (1)の人や、(3)のうちの一部は、性的アクティビティーが低下する年齢になってから、特定のパートナーと安定的な関係を築く可能性がある。(7)のうちの一部も、加齢とともに、パートナーとの関係に安定性が増す場合もあるだろう。
 しかし、そうであれば、再生産の点からは、また別の問題が生じる。年齢が上昇すればするほど、女性は妊娠する生理的な能力が衰えてゆくからである。即ち、時間が経つに従って、(1)と(3)と(7)の人たちは、(8)の不妊症の人と同じ問題を抱える可能性が高くなる。
 繰り返すが、「産まない」と決めている人に対して、無用に説得することはできないし、その必要もない。しかし、「産みたい」のに、様々な条件で「産めない」でいる人に対しては、その制約を取り除く政策的な努力が必要である。
 現在は、不妊症の男女に対して、社会的支援はほとんどなされていない。不妊症の治療に健康保険の適用すら認められていないのが、現状である。まずは、不妊症の治療に対して健康保険の適用を認めるべきであろう。
 統計データはないが、一般に、十組の夫婦のうち一組は、不妊であるといわれている。不妊症の広がりは、それほど大きく、晩婚化が進むにつれて、その傾向は拡大しつつある。ということは、健康保険の適用により、不妊症の治療に取り組む夫婦の経済的負担を軽くすることで、出生数の大幅な上昇に期待がもてる、ということでもある。もちろん、財源の問題は残るが、それは口述する。
 さて(5)と(6)であるが、彼らは、端的に経済問題がネックとなって、子づくりをためらっている人たちである。こうした人たちが、実は最も多いのではないかと思われる。
 厚生省が行った平成9年度第11回出生動向調査に寄れば、「35〜40パーセントの夫婦は理想より少ない子供を予定している」という。その理由として、「子育てにはお金がかかる」とこたえた人が35・6パーセントと最も多く、「子供の教育にお金がかかる」という回答も、32・8パーセントと高い。
 また、大都市居住者に多い「家が狭いから」(12・8パーセント)という回答や、「自分の仕事に差し支えるから」(12・5パーセント)という回答なども、間接的ながら、経済的な理由で子づくりを抑制しているとみなすことができるだろう。
 理想とする子供の数がゼロの夫婦に、たった一人であれ、子供を産ませることは不可能である。しかし、理想と現実の予定との間にギャップがある夫婦に対して、経済的支援を行い、一人の予定のところを二人に、二人の予定を三人にすることは可能である。単に可能というばかりでなく、子供をのぞむ人々に「ワン・モア・チャイルド」の機会を提供することは、当事者たちに大きな喜びをもたらすことになる。その点でも望ましい。





 では、「ワン・モア・チャイルド」のために、どんな支援策が考えられるだろうか。以下、列挙してみよう。

(1) 妊娠・出産のコストを、軽減する。
 具体的には、不妊治療に保険の適用を認めるだけではなく、正常分娩の費用も保険でまかなえるようにする。

(2) 保育施設を、格段に充実させる。
 99年4月時点で、保育園に入れない隊旗児童数は、3万2000人を数える。政府は、少子高齢化によって生じる労働力不足を、女性の労働力によって補うなどとしているが、これでは子供を持つ母親は、安心して働くことはできない。また、こんな状態で女性の労働力化を推進すれば、育児と仕事の両立はできないからと、出産をあきらめる若い女性が増え、少子化はますます進行してしまう。早急に対策を講じる必要がある。
 具体的には、民間企業の保育ビジネスへの参入規制の緩和、公立保育園の民営化、資格をもった保育ママやベビーシッターの大量育成、夜間保育の延長、無認可保育園への公的助成制度、幼稚園と保育園の総合化などを、迅速に実現するべきである。
 また、それに加えて一定規模以上の事業所(企業・工場等)には、事業所内託児所の設置を義務づけ、同時に税制上の優遇措置を行うべきだろう。
 言わずもがなのことだが、子育てをしながら働く男女に対する差別は、法律で禁止しなくてはならない。専業主婦(第三号被保険者)に対して保険料の支払いを免除している現在の公的年金制度は、不平等であり、改正すべきである。

(3) 児童手当を、拡充する。
 現行制度では、児童手当として支給される金額は、三歳未満の自動の養育者に対し、第一子と第二子については、わずか月額5000円、第三子以降は月額1万円でしかない。雀の涙のような金額である。しかも、これには所得制限があり、受給資格があるのは、原則として年間の所得が204万8千円以下の養育者だけである。また、金額の少なさもさることながら、自動が3歳の誕生日を迎えた時点で給付が打ちきられてしまう点も、物足りない。
 もうひとつの給付制度である、児童扶養手当は、母子家庭の母親に対し、児童一人について月額4万2370円、二人の場合は月額4万7370円が支給され、3人以上の場合は、これに3000円ずつ加算される。この手当は、父子家庭には支給がされない点に問題がある。
 改正点としてはまず、児童手当の支給制限を大幅に緩和し、一部の富裕層をのぞいて、原則的に誰でも受給できるようにする。また、支給される年限も、最低限小学校入学時まで、可能ならば高校卒業時まで延長し、給付金額も大幅に引き上げるべきである。子供一人に月月額5000円程度で、しかも給付期間がたったの3年間では、気休めにもならない。
 児童扶養手当は、第二子以降の支給額を引き上げることと、父子家庭への給付を認めるようにする。また、年収204万8000円以下という所得制限を見直し、せめて500万程度とすべきである。そうでなくては、自立してフルタイムで働こうとする若い親への、支援や励ましにはならない。

(4) 教育費の負担を軽減するための、減税措置を講じる。
 具体的には、確定申告による教育費の控除を認めるようにする。この場合、塾や予備校代、大学進学時の下宿代を含めて教育費とみなし、子供が大学を卒業するまで認める。

(5) 同じく教育負担の軽減のため、定理でまとまった額の教育ローンを、金融機関からスムーズに借りられるように、政府が債務保証を行う。
 また、親だけでなく、高校・大学等へ進もうとする子供本人が、教育ローンを借りられるようにするべきである。当人の進学への意思を尊重するとともに、返済の責任の自覚を促すためにも必要な措置ではないだろうか。

(6) 出産・育児休業のための補償を、充実させる。
 育児休暇は、95年から最大1年間認められるようになったが、女性に多いパートや非正規労働者の場合は、育児休暇を取ることはできない。ただし、雇用保険に入っていた場合は、失業手当の一種として、育児休業を開始してから、子供が一歳になるまで、最大で月額賃金の25パーセント程度の育児休業基本給付を受けることができる。
 しかし、年子のように妊娠・出産が連続した場合には、この給付が延長されることはない。また、雇用保険でカバーされていない労働者の場合には、現在のところ、何の保証もない。
 そこで、雇用保険とは別に、育児休業手当が給付される制度の創設を提案したい。その財源は後述するとして、この保険給付は、年子など、時間間隔をおかずに妊娠・出産に至った場合でも、連続して受給できるようにする。
 というのは、晩婚かが避けられない現代では、女性が第二子・第三子を産もうとすれば、出産と次の出産の時間間隔を、あまり長く空けていられないからだ。年子でも、安心して子供を産めるような環境を整えることが、出生数の向上のためには欠かせない。

(7) 出産・育児のために仕事を辞めた女性の再就職支援対策を、充実させる。
 労働者の能力開発支援のための教育訓練給付制度はあるものの、これは雇用保険を、通算5年間以上払い続けてきた人のみを対象とする制度である。従って、在職期間が5年間に満たない女性、たとえば二十代の早い時期に結婚し、出産・育児に専念してきたような女性は、支給の対象外となってしまう。
 そこで、早めに子供を産み、子育てが一段落した時点で働き出そうとする女性に対して、資格取得や技能教育などを支援する制度を、新たに設ける。
 前出の教育訓練給付制度では、労働大臣の指定した口座や専門学校で学んだ場合、そこでかかった入学金および学費の8割、最高額20万円までが払い戻される。この制度に準じた形式で、雇用保険の支払い期間が、通算で5年に満たない経産婦を対象にした教育訓練給付制度を創り、子育て後の社会復帰を支援する。
 社会人として再出発できるという見通しが立つならば、女性が、子育て後に社会復帰できるだろうか、という不安に悩まされずに、安心して出産・育児にのぞむことができるだろう。

(8) 子供のできた若夫婦が、両親から育児支援のために金銭贈与を受けた場合、贈与税を非課税にする。
 これは本連載の[序]賞において提言したプランであるが、ここでもう一度書いておく。
 日銀の発表したデータによれば、日本の個人金融資産は約1200兆円あるという。その五割は、60代以上の高齢者が保有している。負債を差し引いた純金融資産となると、所有者に占める高齢者の割合は6割近くになる。そしてこれらの個人資産が塩漬けとなっていることが、内需不振の原因のひとつといわれている。
 この塩漬け資産を動かして、内需の拡大をはかると同時に、子育ての経済的負担の重さにあえぐ若夫婦に対して、救いの手を差し伸べようというのが、子育て贈与の非課税措置である。
 具体的には、15歳未満の子供を有している者が、そのものの父母または祖父母から、子供の出産・養育・教育の目的のために金銭の贈与を受けた場合には、子供一人につき、一回限り、贈与税を非課税とすることを認める。特例の対象となる金額の限度枠は、第一子については300万円程度とし、第二子以降は100万円ずつ割増してゆくようにする(金額や、減税の回数については、もちろん議論の余地がある)。
 この子育て贈与税減税には、人生80年時代への対応策という側面もある。かつて、人生60年といわれた時代であれば、親が死んで財産を相続した時、子供はまだ30代ということも珍しくなかった。つまり、再生産が可能な年齢で、世代間のストック移転が行われたのである。
 しかし平均余命の著しく延びた現代では、80歳を超えた親が死んだとき、その子供も年をとっているのが普通であり、財産を相続したときには、50代や60代になっている、ということもザラである。
 そんな年齢では、財産を譲り受けて、経済的な余裕ができたとしても、それから子供をつくることは、ほとんど不可能に近い。人生の軌道(ライフコース)が延びたため、相続によって、世代間移転したストックが、人口の再生産のための資源として活用されにくくなってしまったのだ。であるからこそ、子育て贈与税減税を実施して、生殖可能な年齢のうちにストック移転を行い、その財産を生きたカネとして、再生産に役立つように方向づける必要がある。
 この贈与税減税策に弱点があるとすれば、まとまった額の金銭を息子や娘に贈与できるのは、一部の富裕層に限られるのではないか、という懸念である。たしかに、大半の高齢者は、ローンを払い終えた住宅に住んでいるため、そこそこ豊かなストックを保有しているかも知れないが、フローは年金程度で、自由に動かせるお金は必ずしも多くはないだろう。
 しかしそうした懸念は、リバースモーゲージ(逆住宅ローン)を活用することで、ある程度、打開可能となる。リバースモーゲージとは、自宅に住み続けながら、その自宅を担保に自治体や金融機関から融資を受けて、契約終了時や死亡時に住宅を処分して返済する方法である。これを活用すれば、現金収入の少ない高齢者でも、まとまった現金を手にすることができるようになる。
 もっとも、このリバースモーゲージは、現段階ではあまり普及していない。対象となる不動産が100平方メートル以上の広さの一戸建で、評価額が5000万円以上に限られるなど、規制が厳しいためで、この制度が有効に活用されるためには、一層の規制緩和が必要となる。





 さらにもう一点付け加えておくと、この贈与税減税を真に実効性のあるものとするには、パラサイト・シングル(親と同居する未婚者)が得ている「隠れ贈与」に対して、何らかの対策を講じる必要がある。親から子への贈与に対する課税の網に、抜け穴が空いたままでは、せっかく減税策を打ち出しても、その効果が減殺されてしまう。
 この点については、「パラサイト・シングル」の命名者である山田昌弘・東京学芸大学助教授が提唱している「親同居税」が有効と思われる。
『パラサイト・シングルの時代』から、親同居税についてのくだりを引用しよう。

「最も効果的で、弊害が少ないと思われるパラサイト・シングル対策は『親同居税』である。(中略)
 そのロジックは、贈与税である。成人して自分で収入を得ることができるようになった子に援助する社会的必然性はない。親との同居を親からの贈与とみなす、というよりも、実質上の贈与なのである。(中略)同居を月10万円程度の便益供与とみなせば、年120万円の贈与ということになる。税額はいくらでもいいから、とにかく、贈与税をとるというところが、ポイントだと思う」

 子供の方が、収入の低い親の生活を支えている場合や、病気の親を介護している場合などは、控除措置を設けるとして、その上で、山田市の提言する親同居税を課すことは、若者の自立を促し、未婚化に一定の歯止めをかけることになるだろう。さらに子育て贈与税減税と組み合わせることで、少子化対策に効力を発揮するはずである。





 以上、「ワン・モア・チャイルド」のための経済支援策を列挙してきたが、問題となるのは財源である。財源の裏づけのない対策であれば、単なる画餅にすぎない。
 では、どのようにして財源を確保するべきか。
 まず最初に思いつくのは増税だが、これは余りに芸がない。97年に橋本内閣が、消費税を3パーセントから5パーセントにアップしただけで、消費が急激に冷え込み、金融不安へとつながっていったことを思い起こせば、安易に増税に頼るわけにはいかないことは明白である。
 次に考えられるのは、「箱モノ」中心の公共事業など、無駄な歳出の削減である。これは、増税とは違って、少子化対策を行うかどうかに関わりなく、今すぐにでも実行に移す必要がある。土建業者を潤すためだけの公共事業の弊害については、言い尽くされている感もあるが、ダメ押しにここで書いておく。
 人口減社会において、何百年に一度あるかないかの洪水に備える堤防や、利用されない空港や道路、コンサートの開かれない音楽ホールなどを作り続けることは、資源の浪費であるばかりか、将来世代に多大な維持コストを負わせることになる。無駄な公共事業は、二重の意味でマイナスなのである。
 歳出の削減を行うべき理由は、他にもある。今日の財政出動が、明日の増税につながると消費者が予測する場合、闇雲な景気対策を行うことが、帰って将来に対する「確信(コンフィデンス)」を失わせ、逆に景気を後退させるからだ。
 この逆説は「非ケインズ効果」と呼ばれる。小渕内閣が誕生して以来、わずか2年足らずの間に、100兆円を超える空前の景気対策を行ってなお、GDPの前期比がマイナスを記録しているという異常事態は、日本が「非ケインズ効果」の罠に陥ってしまったことを示すものである。
 今日のために明日を犠牲にするような財政出動はやめ、現実をまっすぐに見すえて、財政再建に正面から取り組み、生じた余力は、少子化対策に集中的に傾注すべきである。





 以上述べたように、歳出の見直しは絶対に必要であるとしても、それだけで充分な財源が捻出できるかどうか、心もとない。そこで次の案として考えられるのが、目的を少子化対策に限定した国債の発行である。
 このアイデアを提案したのは、大阪大学名誉教授の加地伸行氏である。97年12月29日付『産経新聞』に、加地氏は、「『寿国債』の発行を提言する」と題する一文を寄せ、その中でこう述べている。
「18歳以下の子供のある家庭に対して、毎月の月額が、第一子は3万円、第二子は4万円、第三子は5万円、第四子は1万円の手当(寿手当と仮称)を国家が給付する。たとえば、第一子が生まれると、満18歳になるまで毎月3万円が贈られる。そのためにのみ使う国債(寿国債と仮称)を発行せよというわけである。(中略)
 もちろん、この寿国債の発行額は巨大なものになってゆくが、大丈夫である。人口の増加による経済活性化の継続的効果や税収がそれを補ってあまりある」
 中国古典研究者である加地教授は、自身の提案を、「日本人の生き方であった<命の連続の重視>という儒教の心に基づくもの」である、としている。「儒教の心」という言葉に、アレルギー反応を示す人もいるかもしれないが、少し立ちどまって考えてみよう。<生命の連続>を別の言葉に置き換えれば、社会の「持続可能性(サスティナビリティ)」となる。サスティナビリティとは、環境問題を語るときにしばしば用いられるキーコンセプトで、環境の維持もしくは、生態系を破壊せずに、長期にわたって人間の活動を継続できるようにすることを指す。私がここで注意を促したいのは、環境問題に限らず、経済活動そのものも、実は、終わりなき「持続可能性」を前提として営まれているということなのである。
 もし未来のどこかの時点で破綻が確実であるとわかったら、「最後の審判の日」を待たずして、破滅するとわかったその時点でただちに、貨幣の信認は失われ、賃借契約も反古(ほご)となってしまう。たとえ仮構(フィクション)であろうとも、<終わりなき世界>を前提としなければ、経済は成立しない。「将来への不安」を払拭し、「確信(コンフィデンス)」を取り戻せるか否かは、この社会の持続可能性に対する信頼回復にかかっているのだ。





 加地氏の提言に、話を戻そう。
 寿国債の発行も、寿手当の給付も、優れたアイデアであると思う。国債は本来、将来を見すえた社会資本の整備のために発行されるものである。経済の三要素である「ヒト・モノ・カネ」のうち、「ヒト」こそは何よりも重要な社会資本であると考えれば、その育成の財源として、国債をあてるのは理に適っている、ともいえる。
 しかし、国債と地方債を合わせた交際の累計額は、すでに585兆円を超えている。公債の発行残高がGDPを超えたのは、第二次大戦中をのぞいて、過去に前例がない。この上にさらに新規の国債発行が可能かといえば、現実的には難しいのではないか。
 そこで、思いきって発想を転換してみる。いささか大胆な提言かもしれないが、少子化対策に必要な財源を、保険でまかなってみてはどうだろうか。
 ちょうどこの4月1日から、医療、年金、雇用、労災に次ぐ5番目の社会保険である介護保険が、スタートした。周知の通り、介護保険は、超高齢社会に備えて、個人では支えきれない老人介護のリスクとコストを、社会全体で引き受けようとする保険である。そうであれば、子供を公共財と考え、子供を産み育てるリスクとコストを、社会全体で受けとめるための児童育成保険(仮称)があってもいいのではないか。
 具体的には、18歳から60歳までの全男女に加入を義務づけ、月額3000円程度の保険料を一律に徴収する。そしてその保険料を財源として、妊娠・出産時の分娩費用や、児童手当などを支給するのである。
 子供を持つというリスクの中には、障害をもった子供が生まれるリスクや、離婚や死別などによって、シングル・ペアレントとなるリスクが含まれる。そうした場合にも、文字通り保険としての機能を発揮して、手厚い給付を行なう。むろん、偽装離婚による不正受給が行われないように、調査・監督は必要であり、この連載の[10]章で書いたように、離婚男性の扶養義務を強制的に履行させるシステムの整備も、同時に忘れてはならない。
 また、医療保険との兼ね合い次第では、不妊治療に要する費用を、この児童育成保険でカバーしてもいい。保険料の支払いが免除されるのは、学生を含む一部の低所得者と、完全に生殖能力がないと診断された、一部の不妊症患者のみとする。
 ここで、当然、反論が予想される。子供を望まない人間までが、なぜ保険料を支払わなければならないのか。他人の子供の養育のために、自分がカネを払わなくてはならないなんて、不公平だ、納得できない等々、といったオブジェクションである。
 言いたいことは、よくわかる。しかし、こうした異議申し立ては、[産む]か[産まない]かについての自由の尊重と、持続可能(サステイナブル)な社会の構築・維持についての責任を混同していることに起因する。[人間は多用な存在である」という前提に立って、分配の平等の問題を追求し、ノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・センの言葉を借りれば、問題は、[何の平等か」という点にあるのだ。





 子供が生まれてこなければ、確実にその社会は崩壊する。子供をつくりたくないと思っている人でも、その多くは、自分が生きている間に、社会が崩壊することは望まないはずである。
 つまるところ、自分は子供をつくらないが、社会の崩壊も望まない、という人は、意識せずして、誰か他の人間が、リスクとコストを背負って、子供を産み育て、社会を維持してくれるだろうと、当てにしているのである。
 他人など当てにしていない、と強弁する人もいるかもしれない。しかし、年金ひとつとっても、先述した通り、原稿の賦課型の年金では、後続の世代が先行世代の面倒をみるのである。年金を受給するということは、結局のところ、他人の息子や娘の世話になることを意味するのだ。いつかは後続世代に支えられることになる、という点において、社会の構成員はすべて「平等」なのである。
 後続世代を育てるリスクやコストを一切背負わず、成果のみ得ようというのは、厳しい言い方をすれば、社会コストの「ただ乗り(フリーライダー)」に他ならない。
 繰り返すが、子供をつくらない、という生き方は、認められるべきだ。しかし、その場合でも、社会を持続させてゆくコストを応分に担う義務はある。「ただ乗り」は許されないのである。
 もしコスト負担の平等原則がどうしても受け入れられないという場合は、年金や医療保険を含めて、社会保障全体を存続するかどうかまで、問わなくてはならない。一切の社会保障を不要とするアナーキーなリバタリアン(自由至上主義者)が、自分は子育てコストを分担する意思がないと主張するならば、それはそれで筋が通っている。
 そうであれば私たちは、自己責任原則を究極まで徹底させ、社会保障を完全に廃絶した、極端なリバタリアニズムにもとづく社会(社会とは呼べないかもしれないが)に生きることを選びとるか、さもなくば、高負担・高福祉か中負担・中福祉かの選択はあるにせよ、社会の持続可能性を前提に、その維持コストを分けあう道を選ぶか、それこそ国民投票でも行って、決着をつけなければならない。





 いずれにせよ、私たちに残された時間はほとんどない。出生率が反転して上昇したとして、その子供たちが成人となり、「支えられる」から「支える」側に回るまで、どうしても20年間はかかるのである。これから先、高齢化率は急上昇し、2025年には27・4パーセントに達する見込みである。それまでに何とか間に合わせるためには、あと5年しかない。
 奇しくも、5年を過ぎると、団塊の世代が定年を迎えはじめることになる。生産人口が格段に減ることは、確実なのである。
 また、現在、25歳から29歳にまたがり、出産適齢期を迎えている団塊ジュニアも、5年後には30歳から34歳となる。第一子の出産が、これ以降の時期になるとしたら、団塊ジュニアの女性たちが、第二子、第三子と産み続けることは、望み薄となるだろう。そうなれば、人口動態バランスの歪みをただすことは、ほぼ、不可能となる。残された手段は、移民の大量受け入れしかなくなるだろう。
 3月21日、国連人口部は、衝撃的なシミュレーション結果を発表した。日本が、65歳以上の高齢者の人口と、生産年齢人口(15−65歳)の比率を、95年の1対4・8という水準で50年後も維持しようとしたら、定年を77歳まで延長するか、さもなくば、毎年約1000万人の移民を受け入れる必要がある、というのである。むろん、どちらも現実には不可能である。
 年金の支給開始年齢を65歳とする年金法の改正が、近日中に成立する見込である。やっと踏み出した改革の一歩に、ケチをつけるわけではないが、こうした小手先の改革だけでは、やがてはジリ貧に陥るだけである。なんとしても、出生率回復の方途を探らなければならない。
 私たちに残された時間は、あと5年、である。



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