「ソ連と呼ばれた国に生きて」 1992 JICC出版局
鎖国の時代は終わった これからはノーマルな人間の ノーマルな行動をとればいい
ヴィタリー・コロチッチ(週刊誌「アガニョーク」編集長)
90年7月、モスクワ市内の『プラウダ』本社ビル。改革は路線をひた走ってきた人気週刊誌『アガニョーク』の編集部は、90年はじめに党中央委員会から独立したものの、まだこのビルの中に入居していた。かわりのオフィスを見つけることは、至難のわざである。党を威勢よく批判し、独立したとはいえ、物理的なレベルではかつてのオーナーのもとに厄介にならざるをえない、そんな姿は、意地悪くみれば改革派の苦しい現状を象徴しているようでもあった。『アガニョーク』誌の当時の編集長、ヴィタリー・コロチッチとは、その『プラウダ』本社ビルの中で会った。このグラスノスチのヒーローは、八の字に下がった眉毛と、いつも微笑んでいる口もとが印象的な、温厚な紳士然とした人物である。保守派に対して過激な戦いを挑んできた闘志はどこにひそんでいるのか、風貌からだけでは判然としない。どこか泣き笑いをしているようにもみえる。この本のコンセプトを話すと、にこにこと話しはじめた。
いいアイデアだね、それは。きっとアメリカのスタッズ・ターケルの本のようになるね。ターケルは僕の親友なんです。彼の仕事は素晴らしい。きっとそのやり方なら、ソ連という国を理解するのにすごく役立つ本ができると思うよ。なにしろこの国は、格別奇妙で複雑な国だからね。あまりにも他の、普通の国々と違う。理解するのはすごく難しい。
さて、僕の話をはじめましょうか。
1936年、ウクライナ共和国の首都キエフの生まれ。『アガニョーク』の編集長になってモスクワにくるまでの、人生の大半をキエフで過ごしてきた。父はマイクロバイオロジーを研究している医学者で、母も医者でした。でも、僕は小さい頃から文章を書くのが好きで、まわりからも将来は作家かジャーナリストになるんじゃないかって言われてた。結果はまあ、ごらんのとおり、そのとおりになったわけだけど。
うちの父親には、ソ連は特殊な国だから、堅いきちんとした職場についたほうがいいと説得された。もし文筆業についたとしても、お上からああ書け、こう書けとうるさく干渉されるだろう。その点、医者のような専門職は、政治から距離をおいた、独立した価値がある。刑務所に行こうが、党中央委員会に入ろうが、医者は医者だ、とね。父親の言うとおりだった。僕はいまでも、あれこれうるさく干渉されている、ハハハ。
で、結局、僕は父親の忠告を聞き入れて、半分だけそれに従うことにしたんです。つまり、医大に進学するが、そのかたわら詩を書き続けることにしたんです。詩のほかに小説も書いていたし、大学で発行されていた新聞に社会評論も書いた。
最初の詩集『黄金の手』が出版されたのは、医大を卒業して心臓病の医者として病院に勤めはじめた61年、25歳のときだった。これは成功をおさめたとはいえなかったが、翌62年に出した『空の匂い』が、当時モスクワに滞在していたナディム・ヒクメットというトルコの詩人の目にとまって、『文学新聞』に書評を書いてもらえた。人気が上がっていったのは、それがきっかけでした。
何語で考え、書くのか、という問題についていえば、僕はロシア語とウクライナ語の両方。僕にとっては、両方とも母国語です。僕のアイデンティティはキエフにあるが、母親は、ロシアの貴族出身で、父親はウクライナ人。だから僕はふたつの民族の特徴と、ふたつの言葉を受けついでいる。両方の言葉で考え、話し、書く。
最近はモスクワにいるもので、ロシア語で考えている時間の方が長いかな。要するにロシア人の中に交じっているときは、頭の中もロシア語になっちゃうし、ウクライナ人たちといるとウクライナ語で考えるんだね。ポーランド語も同様です。僕はポーランド語で考えることもある。また、アメリカへ行ってしばらくすると、すべて英語で考えている。最近は英語で本を書いたり、講演をしたりしてますけど、やっぱり、今日の世界ってこんなものですね。ソ連が外の世界に対して開かれていけば、国際的な人間がもっともっと増えていくと思う。
話はそれるけど、僕の息子がこのあいだ16歳になった。ソ連人は16歳になると国内パスポートをつくらなきゃいけない。そこには民族を書きこむ欄があるんです。息子はウクライナ人にしたけれども、こういうことはいつまでも続けていちゃいけない。国内を移動するためのパスポートに、なんで民族の申告が必要なのか。ソ連では、進学や就職などのたびに、いろいろなアンケートに答えなくてはならなくて、必ずその中に党員かどうか、民族はどこか、という項目が入っている。僕が『アガニョーク』の編集長になってから、この二つを調べることは廃止しました。そういうことは、個人的な問題で、仕事とは何の関係もないと考えてますから。
話を戻しましょう。
僕の詩集は、63年までには数カ国語に翻訳されて、外国で出版されるようになりました。当時すでに時代は、フルシチョフの雪解けの時代に入ってました。スターリンよ、さようなら、です。僕は僕でたいへん忙しかった。詩や小説や評論を書き、医者として仕事をし、そのうえキエフの若者向け雑誌『ラノフ』の編集長もしていたんですから。僕が編集長を引き受けてから、この雑誌はウクライナで、いちばん人気のある雑誌になりました。
とはいえ、書斎に閉じこもってばかりいたわけじゃない。学生時代はこれでも、アマチュアレスリングの選手として、ウクライナの代表チームのメンバーに選ばれたこともある。僕はスポーツマスターの称号をもってるんですよ。60年には、ウクライナ・サッカー同盟の、史上最年少の書記に選ばれているし、同時に、全ソサッカー同盟の理事会の会員にも選ばれています。
ところが、64年にフルシチョフが解任され、雪解けの時代が終わると、国内情勢は急に緊迫化していきました。67年から68年にかけては、ソルジェニーツィンをはじめとする政治的異論派(ディシデント)を弾劾する文書や手紙に、同意のサインをするように何度も求められた。しかし、僕はそのたぐいの文書にはいっさいサインをしませんでした。そのために69年には、すべてのポストがとりあげられた。しかたない。僕はフリーランサーになりました。
断っておかなければいけないのは、僕は反体制のプロの活動家になるつもりは毛頭なかったということです。僕はただ、自分自身のままでいたかった。文学というものは、また、そういうものです。残念なことに、この国では、文学が本当の意味での文学であったことは一度もない。わが国では、公式的なプロパガンダと異なった意見をもつ人間は、刑務所に入れられたり、殺されたりしましたからね、思いきった政治的発言をすることはできなかったのです。そのかわり、長年にわたって、この国で反体制勢力の表現手段になってきたのが文学なんです。そういう文学は、体制の違う国、たとえば日本の読者が読んだところで、ピンとこないでしょうし、つまらないだろうと思います。
僕はそういう政治的抵抗をしたかったわけではない。だから、政治的な目標はいっさいたてなかったけれど、しかし、自分自身のあるがままにふるまっていたら、いつのまにか革新的な立場に立ってしまっていた。
『ラノフ』誌の編集長時代、かなりリベラルな考えをもったウクライナの知識人たちが、そこに寄稿していたんですが、僕とすれば、いわゆる『リベラル路線』を考えていたわけではなく、ごく自然に、いい雑誌をつくろうとしていただけのことなんです。しかしそのために、作家同盟の書記になってすぐ、クビになったがね。
結局、フリーランサーの仕事を、78年まで続けました。その間にも、何冊もの本を書きました。外国でも翻訳され、アメリカをはじめ何カ国かの大学から、講義に招かれもしました。
そうこうするうち、78年、キエフの『外国文学』という雑誌から編集長にならないか、という要請があって、引き受けることにしたんです。そのころには、私も詩人として、あるいは作家として、かなり認められるようになってたんです。ソ連における文学賞やジャーナリストの賞をいろいろもらいましたし。
そして、ペレストロイカが始まってから、この『アガニョーク』誌の編集長になってくれと、ゴルバチョフ政権指導部から頼まれたわけです。正直言って、困惑しましたね。なぜかというと、当時の『アガニョーク』は体制に迎合しているだけの雑誌として、ものすごく評判が悪かったからです。そんな雑誌の編集長になるのはごめんですと、半年間かけて何回も断った。しかし、最終的に引き受けることを決意したのは、「自由に何をやってもかまわない。党は干渉しない」という条件と、「ただし、保守的にはなるな」という条件があったからです。
結局、あれから6年続けたわけですが、その間にやってきたことは、皆さん御承知のとおりです。僕は、『ラノフ』や『外国文学』の編集長時代と同様に、自由にやりました。たとえばニコライ・グミリョーフという有名な詩人がいる。すばらしい詩人ですが、ロシア革命直後の1921年に、クロンシュタットの蜂起とよばれる、反革命の陰謀に参加したとされて銃殺されてしまったんです。以来、反ソ的な人物と評価されてきたのですが、この事件は非常に問題がある。ソルジェニーツィンは『収容所群島』のなかで、陰謀そのものがでっちあげだと告発しています。どちらにしても、彼の詩がすばらしいことには変わりないから、『アガニョーク』に詩を掲載しようとしたら、「彼の詩をのせてはいけない」と待ったがかかった。僕は「なぜだ」とずいぶんやりあいました。結局、現在ではグミリョーフは完全に名誉回復され、その詩も再評価されています。
僕とよくやりあった相手のひとりは、ソビエト作家同盟の元議長のゲオルギー・マルコフという人物で、彼は社会主義労働英雄に2度選ばれています。元政治局員のリガチョフは、そのマルコフの半身像をつくり、さらには彼の博物館まで作って功績を称えようとした。僕は『アガニョーク』誌上で、それはおかしい、人間が生きている間にモニュメントや博物館を建てるのは間違っていると批判したんです。
こういうことを続けているうちに、コロチッチは、自分の個人的人気を求めて、わざわざ体制批判のネタを探してきて記事をのせていると非難されました。たとえば87年に、『プラウダ』にすごい記事が出ました。「『アガニョーク』は嘘ばかり書いている、正しくない」と。僕はそれに対して反論しました。これは大騒ぎになった事件でした。当時は『プラウダ』も『アガニョーク』も共に、共産党中央委員会に属する新聞であり、雑誌だったわけです。党中央委員会に属する雑誌の編集者が、『プラウダ』に文句を言うというのは、ソ連史上初めてのことだったのです。世間はびっくりしました。
まあ、世間が驚くのは無理もない。党批判がタブーだったところにもってきて、『アガニョーク』という「反共的」な雑誌は、党中央委員会出版局の印刷所で印刷されている雑誌なのですから。これは大いなる矛盾です。政治的多元主義をソ連で実現しようとすると、こんなことになる。
こうした矛盾は、ソ連ではいっぱいみられるんですよ。たとえば、さっき言ったように、僕は全ソサッカー同盟の書記なのですが、サッカー同盟のなかのある部分は従来の硬直した組織にうんざりしちゃって、新しい組織をつくることにした。そして「四月(エイプリル)」という組織が生まれたんですが、そこの組織の結成大会で、僕は5人の共同議長に選ばれた。90年5月の話です。だから、僕はいま、対立する両組織の板ばさみになっているんです。ハハハ。
話を元に戻しますが、そんなわけで、われわれの雑誌は、世間の注目を集めました。皆、あなたは勇気がありますね、と言ったが、僕にすればそれはノーマルな、自然なことだった。すべて、そうです。『アガニョーク』では、スターリン時代に粛清されて、まだ名誉回復のされていない作家の作品を数々のせましたけど、これもそれがノーマルなことだからです。党官僚の汚職もあばいた。いうまでもなく、それもノーマルな行為です。
なに、難しいことはひとつもない。原則はとてもシンプルです。この国は、ノーマルな人間のノーマルな行動から逸脱した、アブノーマルなことばかりやってきましたから、これからはそうではなく、ノーマルな行動をとればいい。そうすれば総てがうまくいくはずである、それだけのことです。
90年に入ってからも、党中央委員会のイデオロギー担当書記に呼びつけられて、文句を言われた。彼はこう言う。「ソ連の人は、あなたの雑誌を読んで、社会主義に対する信頼をなくしてるじゃないか」と。
で、僕はこう言った。
「わざわざ僕の雑誌を読むまでもない。あなたの国の国営商店へ行きさえすれば、誰でも社会主義への信頼を失う」ってね。彼は、怒っちゃった。ハハハ。
こう思うんですよ。ペレストロイカというのは、何か新しいものを作るんじゃなくて、ごくシンプルに、革命以前の生活に戻ることだと。今まで、ペレストロイカ以前にあったソ連の共産主義者のロジックというものは、歪曲されたアブノーマルなものばかりなので、それを変えるのに何も英雄的な行為は必要ない。ノーマルな考え、ノーマルなやり方だけで充分なんです。
にもかかわらず、それが多くの人にとって実行に移すには難しいのは、昔の恐怖の記憶がしみこんでいるからです。僕の母は80歳で、3年前に父親が亡くなってから、モスクワで一緒に暮らしてますが、僕の行動−−まわりからみれば英雄的な、僕にすればノーマルな行動−−をとても心配してますよ。特に、党中央委員会とケンカしたりするとね。彼女に言わせると、僕のやっていることは、精神病院のなかでノーマルな行為をしようとしているようなものだそうです。精神異常者たちに、どうやってノーマルな思考や行動を理解させるのかって。つまり、この国そのものが一種の巨大な精神病院なのだから、無駄な行為はやめて、周囲の異常者たちに合わせなさい、というわけです。彼女は息子のことが心配でしょうがないんです。
そのたびに僕は、人間的なやり方をすればこの国は変わるはずだと母に説明する。われわれがやっていることはただ、ノーマルな人類に戻るということです。鎖国の時代はもう終わり。これは歴史の要求だと思う。
大事なことは、外の世界に対して、開かれた態度をとることです。僕が最初に外国に行ったのは、1961年で、フィンランドでした。そのときは、家族じゅうが大騒ぎでした。両親は、外国に行くと僕が悪い影響を受けるんじゃないかと、本気で心配していたものです。僕はソ連の青年団の一員として出かけたわけですが、出発前に厳しい注意がたくさん与えられた。すべて完全にコントロールされた集団行動です。青年団の総長は、絶対に独立行動しちゃいけないと僕らを戒めた。一行の中には、監視のためにKGBも2、3名混じっていました。
だけど、僕にはフィンランド人が敵国民であるとは、どうしても感じられなかった。これが最初のショックでした。そしてその後、外国へ行くたびに、われわれとの違いではなく、共通点がどこにあるのかを探すようになりました。
もっとも、ソ連人がノーマルな人類へ戻ることをはじめて、まだわずか数年です。それに比べ、恐怖の支配は70年あまりも続いた。その恐怖のなかで暮らしてきた人間たちは、怖がることに慣れてしまって、萎縮した生活を今でも続けている。でも、僕は楽観しているんです。時間はかかるだろうが、この国はきっと生まれ変わるだろう、と。
たとえば、共産党は70年以上にもわたって、宗教は阿片であると教えつづけてきた。だけどこの2年間(89〜90年)で、ウクライナだけで新しく教会が2,000あまりも建てられた。そして収容所や刑務所から、すべての政治犯が戻ってきた。現在は、誰が誰を逮捕した、誰が刑務所に入れられ、誰によって尋問されている、ということまではっきりわかるようになった。そうした変化にともなって、まともな人間という概念が、共産主義的人間という概念に代わる正統的な地位を占め、社会のルールを変えつつあります。ある意味で、われわれの国は、人類にとって限りない楽観主義の源泉であるとも言えるんです。どんなに人間を苦しめ、痛めつけ、人間ではなくそうとしても、依然として人間は人間であるということを、われわれは自分たちの国の歴史で立証したわけですから。僕は90年に、アメリカのジョージタウン大学のヴェーテル賞を受賞しました。同時に受賞したのはもうひとり、CNNのテッド・ターナー氏でした。『アガニョーク』の記事や、私がニューヨーク・タイムスやロサンゼルス・タイムスに書いた評論、そのほか講演活動など、要するに僕の活動すべてをひっくるめてまとめて評価されたわけです。
しかしながら、こう言うのはなんですが、アメリカは精神的な力のない国だと、僕は思う。ものすごくプラグマティックです。われわれをふくめ、他国の精神的文化を根底から変えるほどの影響は与えられないと思う。けれども、経済面ではたいへんな影響力があるでしょうね。ソ連のような、封建的な経済システムを、自由主義的な経済システムに転換するにあたっては、すごい影響を与えられるでしょう。日本や西ドイツは、その影響下で第二次大戦後の経済復興をなしとげたのでしょうが、しかし、だからといって日本やドイツの民族文化、精神的価値観まですべて変えられたわけではない。アメリカがいくら頑張っても、固有の民族精神や文化を、根本から変えたり、新しくつくりあげたりすることはできるものではない。彼らができることは、コカ・コーラやマクドナルドをつくることであり、そのための経営方法や経済システムの運営方法を教えることだけです。それは日本との関係についても同様です。日本の企業がソ連に投資して、工場を建ててくれれば、われわれの生活は大きく変わるでしょう。非常に期待しているわけですが、しかしそれによってソ連人が日本人になってしまうわけじゃない。だから、そういう意味では、われわれは外国の影響を恐れる必要は少しもない。
共産党は今まで、西側諸国を敵視してきました。そして、国内の異端者を外国のスパイだといって殺してきた。敵は、戦前はドイツや日本であり、戦後はアメリカに変わった。国内に困難な問題や矛盾が起こると、すべて外国のせいにし、その外国のスパイが国内にいるせいだとして責任転嫁をはかってきたんです。しかし、そんなでたらめはもう通用しません。
これからは、異なる文化と文化の出会いを肯定的に評価する時代です。と同時に、固有の民族文化も大切にされなくてはならないでしょう。
僕のルーツであるウクライナの文化は、大民族の文化です。そして、どちらにしてもそれは、他の多くの民族が混ざり合って成立した民族であり、僕はロシア人と話すと、東か西か、北か南か、すぐに出身がわかります。同じように、ウクライナも地方でそれぞれ文化が違います。僕の家族のルーツは、現在はユーゴスラビアの一部のセルビアにあるんです。
ロシア民族とウクライナ民族は、歴史的に非常に関係が深く、共通点がたくさんある。宗教や民族性のうえでもよく似ているし、人間も互いに入りまじっている。例えばチャイコフスキー、レーピン、ゴーゴリは、それぞれロシア文化における偉大な作曲家であり、画家であり、作家ですが、かれらはみんなウクライナの出身です。最近、ウクライナでは、民族復権の運動が盛んになっていますが、筋金入りのウクライナ民族主義運動のリーダーのひとりであるフグレボイは、本名をフィチロフといって、本当はロシア人です。これひとつとっても、ロシアとウクライナがいかに深く結びついていて、同時に複雑な関係にあるかおわかりでしょう。
また、ゴルバチョフのロシア語には、ウクライナなまりがある。彼はロシアの南部、スタブロポリ地方の出身ですが、そこには昔、国を出て移住していったウクライナ人がいっぱい住んでいる。かれのなまりはそのためなんです。
ですから、ウクライナ・イコール・ロシアというのは間違いだが、ウクライナはロシアとは全く違うというのも正しくない。今後は、ロシアにしてもウクライナにしても、それぞれノーマルな成長のために、民族的な独立が必要でしょう。しかし、二つの民族がはなればなれになることは考えられない。結局、独立した民族でありながら、両民族は手に手をとって歩むと思う。
アメリカの元国務長官のキッシンジャーは、日本と中国が仲良くなれば、これからの世界の歴史を決定する力になると、かつて言ったが、それにならえば、僕はロシアとウクライナの間だけでなく、全世界のすべての民族、すべての国々の間に必要なことだと思うんです。
91年8月のクーデター事件と、共産党の解体を含めたその後の一連の政治的事件を指して、「8月革命」と呼ぶことに、私は抵抗を感じ続けている。
近代の大革命といえば、誰でも「フランス革命」と「ロシア革命」の二つを思い浮かべるだろう。この二つの革命に共通することは、単に個々の権力者が入れ替わっただけでなく、権力を担う階級が交替したことである。
しかし、「8月革命」においては階級間の劇的な権力移動はあっただろうか。ほとんどなかった。というのが私の観察の結論である。旧ノーメンクラトゥーラは、党員証こそ破り捨てたものの、その大半はなお、あらゆる分野で権力のポストを占めている。
「8月革命」と「ペレストロイカ」という時代は、これからこそあらゆる角度からの評価と検討が、なされなくてはならないだろう。もっとも、「8月政変」がペレストロイカの時代を終わらせたという見方に異論があるわけではない。その幕引きとともに、ゴルバチョフをはじめ時代を彩った名優たちも退場した。ほかでもない、コロチッチもそうした役者のひとりである。
あの夏の終わり、『アガニョーク』編集部にも小さな「クーデター」が起きた。アメリカに出張中だったコロチッチは、事件の知らせを受けたとき、帰国を急ぐのではなく、逆に帰国することをためらったという。そのことがモスクワに残っていた部下たちの不満を爆発させた。指導者であれば危機のときこそ現場で陣頭指揮をとるべきだ、というのが編集部一同の統一見解だった。91年の9月初めに幾人かの編集者に会ったが、かれらはコロチッチの功績を認めつつも、事件に先立つ1、2年ほどは実質的に編集長としての任務を果たしていなかったと、一様に口をそろえた。『アガニョーク』が共産党政権の旧悪を暴くたび、賛否両論の声が沸き上がり、コロチッチは求めに応じてたびたび演説をしたり、他のメディアで意見を発表するなど、派手な活躍をしてきた。その一方で、地道な編集実務には関わらなくなっていたのだという。
話し合いの結果、解任ではなく、コロチッチ自身の”意志”による辞任という穏健な結末をみた。彼はアメリカの大学に教職を得て、家族ともどもロシアを離れていった。その後ろ姿に、時の流れの抗い難い無常を読むのは私だけではないだろう。