「ソ連と呼ばれた国に生きて」 1992 JICC出版局
優れた発明や着想も、実用化の段階で西に遅れをとってしまう。私が発明したレーザーメスも自腹を切って製作した
レオニード・ブッテルスキー(外科医)
89年9月から、ゲルツェン記念アンコロジー研究所で働いてます。アンコロジーてわかりますか? (通訳が辞書を引き、腫瘍学と判明)。現在そこで、乳癌の研究をしています。私の話には、ところどころ医学用語が出てきますから、遠慮なく、そのつど辞書を引いてください。お気になさらず。
医者になろうと思ったきっかけですか。うーん、たぶん姉の影響がいちばん大きな理由でしょうね。今年(1991年)40歳になる姉は、長らく看護婦をつとめてました。私は彼女より5歳年下で、十代の頃、姉が病院でいそいそとたち働いている姿をみて、なんというのでしょうか、心を動かされたのですね。それで、子供ごころに、医者になろう、姉さんみたいに、医療関係の仕事につこう、と思ったんです。
あ、これ、食べてみてください。キノコの一種です。ぬめりがありますから、お口に合うかどうか……。おいしい? それはよかった。日本にもこんなぬめりのあるキノコがあるんですか? ナメコっていうの? ほお……。
どうぞ、お食事しながら、聞いてください。
実は、私の祖父の兄は革命前は医者でした。1930年代に亡くなっています。この人の存在も、私たち姉弟が医学に関係することになった遠因になっているのでしょうね。
祖父は農民でした。個人経営の農家です。そう、スターリン時代には富農として弾圧されました。90年1月に、ようやく名誉回復されましたが……。祖父の名はワシーリー・ブッテルスキー。祖父には、もう一人兄弟がいまして、この人も医者をしていましたが、彼は革命後、カナダへ亡命しました。彼がカナダで何をして暮らしていたか、その後、どのような人生を歩んだのか、まったくわかりませんでした。便りもないし、連絡もなかった。
しかし、89年の初め、この人の孫がカナダにいることが判明したんです。私たちにとっては、はとこですね。二人姉妹です。彼女たちは結婚していますから、もちろんブッテルスキーという名字を名乗ってはいません。彼女の母は、ブッテルスカヤという姓でしたけれども、二人は別の姓です。
どうして彼女たちの消息を知ることができたのか、この話は少々こみいってますが、とても興味深い。
実は、祖父と祖父の兄弟は、出身が白ロシア(現・ベラルーシ)のミンスクで、親戚はいまもそこに住んでいるんです。で、この親戚は、実のところは、以前からカナダのブッテルスキー一家のアドレスを知っていた。ところが、何しろ彼らは亡命者ですから、ペレストロイカ以前にそんなことが表沙汰になれば、厄介なことになる。それで今まで、ほかの親戚にも伏せてきたんです。ところがペレストロイカになって、自由に文通もできるようになって、これなら大丈夫、安心だということで、この親戚の一人が、私の父と母にカナダへ亡命したブッテルスキー一家のアドレスを教えたのです。つまり、すべてはペレストロイカのおかげなんです。
ペレストロイカになって、カナダから、手紙を二通、たて続けにもらいました。彼女たち、カナダにいる私のはとこたちは、自分たちがロシア系移民であることをずっと忘れず自覚していて、常々ロシアへ行ってみたいものだと思っていたそうです。それだけに、親戚のアドレスがわかって、とても嬉しい、なるべき早く会いたいものだ、と書いてありました。私たちも、散り散りになった一族がこうして再開する機会に恵まれる幸運を、ほんとうに喜んでいるんです。
祖父の話に戻りましょうか。
富農として弾圧された祖父は、しかし決してぜいたくな暮らしをしていた大地主ではありませんでした。ささやかな農地を所有していた中規模の農民だったんです。弾圧、つまり逮捕の原因は、その経営規模が大きすぎたためではない。彼はいわゆる勤勉な農家でした。せっせと畑を耕し、牛を育て増やし、少しずつその規模を大きくしたいと願っていたのです。しかし、時はスターリンの時代で、私有財産に大きな制限が課せられました。こうした制限に対して、ぽろっと不満をもらしたところ、密告されて、「人民の敵」にしたてあげられてしまったのです。1940年、戦争の始まる直前のことでした。
1930年代は、農業集団化の時代として知られていますが、すべてがすべて、コルホーズに吸収されたわけではないんですよ。集団化以後も、個人農はまだ残されていたんです。それが一掃されたのが、この頃だったんでしょうね。祖父は3年間、刑務所送りとなり、戦争が終わるころ、出所を許されました。どこの刑務所にいたかは、私も知りません。つらい目にあわされたのは、祖父だけでなく、その子供である父も同様でした。父は「人民の敵」の息子ですから、そういう連中は有無をいわさず、シベリア送りにされる運命にあったのです。しかし、不幸中の幸いというのか、戦争が始まったので、父はシベリア送りをまぬがれ、パルチザンとして戦線に向かうことになりました。
父が出向いたのは、一族の故郷である、白ロシアのミンスクでした。そこで父は、ウォルイネスという指導者の指揮下に入り、パルチザンとして戦ったんです。ウォルイネスは、ゲリラですから、もちろん正規の軍人ではない。しかし彼は、ソ連邦英雄として、今も称賛されている人物です。
父はよく、あの頃の話を私に話して聞かせました。戦功をたて、勲章をもらったというのが彼の自慢でしたが、それよりも深く記憶に残るのは、祖国に対する狂おしいまでの彼の思い入れです。
彼はこう言いました。
独ソ戦争が始まったとたん、自分の父が無実の罪で投獄されたことへの恨みも、すべてどこかへ消し飛んでしまった。今は、それどころじゃない。忘れよう、忘れなくてはいけない、そう思って戦線へ向かった。今や、祖国が滅亡の危機に瀕しているのだから、個人的なグチをこぼしているときじゃない。すべてはまず、祖国を守りきってからの話だ、と−−。
結局、祖父は、終戦間際に釈放されましたから、父の心に当局に対する深い恨みを刻みこまずにすんだようです。自分の父親が逮捕されたということにショックを覚えたし、悲しくもあったが、しかし、当時まだ若かった父は、当局のすることはすべて間違いがないと固く信じていたので、自分の父親の逮捕も何らかの理由があってのことであり、当局を恨むにはおよばない、と思っていたそうです。
わかっていただきたい。
1953年にスターリンが死んだとき、ソ連の全国民は、みんな泣いたんです。みんな涙を流しました。ほとんどすべての人が、スターリンを「我らが父」と愛し、敬い、服従していた時代のことです。父に、真実のなんたるか、わかるはずもない。
スターリンの実像の一端が明らかにされるには、それから3年後の1956年3月、第20回共産党大会での、フルシチョフの秘密報告まで待たなくてはならなかったのです。
スターリンの真実が暴露されてから以後の、旧世代の反応については、そう、あなたがおっしゃるように、大ざっぱには二つのタイプがありました。ひとつは、「そうだったのか」と、完全に批判する側にまわる人、もうひとつは「しかし、それでも良いところはあったのだ」と、分裂した気持ちを抱えたまま擁護にまわる人びとと。
父は明らかに後者でした。父は、こう言ったものです。
たしかに、スターリンの命令によって、多くの無実の人びとが殺された。それはたしかによくない。しかしスターリン時代には国民の規律が正しく守られた。犯罪も少なかった。なるほどスターリンは極悪人かもしれないが、その一方では大祖国戦争(第二次大戦)において、祖国を戦勝に導き、社会の秩序、規律、モラルを守ったではないかってね。そして何よりも、2,000万人もの犠牲者を出しながら、ドイツ・ファシストを倒し、世界をファシズムから救ったのは我々である、という自負がある。それがあの世代の典型的な考え方でしょう。
あの世代は、社会主義が発展して共産主義へ向かうというイデオロギーを今も信じている。しかし現在の若い世代は、社会主義貸本主義かという問題に拘泥しない。生活が豊かになって、精神的にも物質的にも恵まれるようになれば、何主義であろうとかまわないと考えている。それが、私たちのような若い世代の典型的な考え方だと思います。
マルクスやレーニンが説いた共産主義のユートピアが、実現しっこない、と考えてるわけではありませんよ。能力に応じて働き、必要に応じて受け取る、そういう豊かな社会がいつかは訪れるだろうと確信しています。しかし、それが古典的な意味での共産主義社会なのか、あるいは現在の、日本をはじめ高度に発達した資本主義社会のことなのか、それはわかりません。わかりませんが、いつかロシアにもそういう社会に到達する日がくると、私は確信しています。
父とこういう問題について話すこともあるんですよ。ときには論争もしますが、最近では、頑固な父も、私の考えに耳を傾けるようになりました……。でも、妻の両親のほうはだめですね。あの二人は、絶対に自分の信念を曲げない。スターリン時代の理想をかたく信じている。現在のソ連の政治勢力は、保守派、改革派、中間派などと分かれていますが、保守派を支持する人は、こうした年配の人たちが多いんです。スターリンのもとで、粛清や戦争、戦後の復興という体験を経てきた人びとです。その時代に、彼らの子供時代、青春時代があったわけですからね。自分たちの青春がすべて無駄だったわけではないと信じたい。主張したい、そういう気持ちがあるんじゃないですか。
私には、彼らのそういう気持ちがよくわかります。どれほどひどいことが行われていたにしても、スターリン時代に生きた日々は彼らの人生そのものなんですからね。ですから、私は彼ら、年配の世代と政治の話をするときは、彼らに対して敬意の念を失わないように、彼らの気を悪くしないように、なるべくソフトに話すようにしています。それは最低限の礼儀というものでしょう。
偉そうに言っていますが、私だって以前から共産主義の限界や、現在の破綻を見通していたわけではない。正直な話、ペレストロイカやグラスノスチが始まるまで、実際のところ、自分たちがどんな世界に住んでいるのか、ちっともわかっていなかったんです。私がナイーヴだった、というよりも、あまりにも情報が不足していたんです。
医者としての私のキャリアの話から、話がどんどんずれていきますね。でも、もう少しこの話を続けましょうか。
打ち明けて言いますと、実は私は15年間にわたり、本職である医者の仕事とは別に、ラドガという民族舞踊団で踊りを踊ってきたのです。ロシアの民族舞踊が主な演目ですけど、そればかりでなく、さまざまな民族舞踊をやりました。スペイン、ポーランド、ウクライナ、白ロシア、バルト三国……、ジプシーの踊りだって踊れますよ。驚きました? 外科医がダンサーでもあるっていうのは、意外でしょうね。
私たちの舞踊団ラドガは、本拠地が白ロシアのミンスクにあり、私はここに73年から89年まで在籍していました。共和国コンクールはむろん、全ソ連コンクールでも優勝しています。89年には白ロシアのコムソモール(共産主義青年同盟)賞をもらいました。そのとき、私は現在の妻と一緒に踊りました。ええ、そうです。彼女もそこの団員で、ダンサーだったんです。話の冒頭で言ったように、89年からモスクワの研究所で働くことになりまして、ラドガを退団したのですが、そうでなければ私は今でも現役で踊っていたでしょうね。
で、私はこのラドガの一員として、ペレストロイカ以前にポーランド、東ドイツ、ニカラグア、北アイルランドに公演旅行に出かけているのです。これは当時としては、たいへん珍しい経験です。ペレストロイカ以前は出国が厳しく制限されていましたからね。
ニカラグアに行ったのは83年、革命からまだ4年しか経過していないときです。たいへんな苦境のなかにありましたので、これは例外です。
ポーランド、被害ドイツに関していえば、同じ社会主義圏ですから、ソ連と根本的な差はありませんが、やはりモノがソ連より豊富で生活が豊かだな、という印象は受けましたね。
しかし、北アイルランドの場合は資本主義圏の一部ですから、ソ連との差は圧倒的でした。と同時に、物価も高いと感じた。なんというんでしょうか、生活程度の差を見せつけられても、その事実を受け入れて、冷静に彼我の差を検討することができなかったのですね。当時はペレストロイカ以前だった、ということを、どうぞ考慮に入れてください。まだ、ソ連政府の従来からのプロパガンダが生きていた時代なんです。
当時のソ連政府のプロパガンダとは、こういうものでした。
「たしかに西側の生活水準は我々より高いかもしれない。しかし、向こうには失業があるが、ソ連にはない。向こうでは市民の権利が保障されていないが、ソ連では保障されている。社会保障も同様である」
今でこそ、こんなプロパガンダを信じるものは、年寄りのスターリニストだけです。社会保障は、西側のほうが進んでいるし、市民はソ連よりはるかに自由である。そんなことはしかし、当時はまったくわからなかった。自分の目で西側の生活を見る機会に恵まれても、プロパガンダを頭に叩きこまれていると、ありのままに見ることができないものなんです。私たちは、ただ首をひねるばかりでした……。
私にとっての転回点は、ですから、85年にモスクワで開かれた第12回世界青年友好祭でしょうね。ペレストロイカがゴルバチョフによって宣言される前夜の時代、締めつけがゆるめられはじめた頃でした。そのとき、私はソ連の代表団の一員としてこの友好祭に参加し、はじめて外国の代表団と自由につきあうことができたんです。自由に討論をし、西側の生活について、直接西側に住んでいる人から話を聞くことができました。こんなことははじめての経験でした。それまでの海外公演のときには、外国人と自由に交わることは許されていなかったのです。
それから以後のこの国の変化は、あなた方もご存知でしょう。昨日までは、帝国主義の西側諸国は敵だと言われていたのに、今はその実像が紹介され、たくさんの情報がマスコミにあふれるようになって、すっかりイメージが変わってしまった。
それにつれて、私たちの国に対する、私たち自身の考え方もイメージも変わってしまいました。そういうことです。
話を医者としての私の話に戻しましょうか。
79年に医大を卒業してから、私の医学研究者としてのキャリアがスタートします。医大で成績がよかったので、私はミンスクの医学研究所に入り、乳癌の研究に従事することができました。以来、一貫してその分野での研究を続けています。
ここで、ソ連の医学界の現状についてひと言。
ソ連には優秀な外科医が、実はかなりの数存在します。ところが、さまざまな弊害があって、もてる技術を発揮できない、あるいはその技術を伸ばすことができないような仕組みになっているんです。
私は幸いなことに、パンチェシェンコ博士という優れた人物に師事することができました。この人が外科医としては全ソ的に有名な人物で、アメリカへ行った経験もある。この人の教えを受けることができたのは、私にとって非常に大きな幸運でした。もっとも、アメリカに行ったとはいっても、わずか二週間ほどのことで、内容はあくまでも視察です。長期にわたる留学や研究生活、というわけではありません。ですから、パンチェシェンコ先生の医療技術はすべて、ソ連で身につけたものです。その点を強調しておきます。
この先生に師事した5年間に、私は乳癌の新しい手術方法を開発し、それに対して博士号を贈られました。86年のことです。その後、私は自分の仕事の実績が認められて、モスクワのゲルツェン研究所に招かれたわけですが、ミンスクの研究所は私を手放すことを拒みました。私自身もモスクワ行きを希望しましたが、なかなか聞き入れてもらえなかった。というのも、ひとつには白ロシア共和国の保健省がこの人事に介入してきたからです。
白ロシア保健省は、私のモスクワ行きに難色を示しました。彼らは恐れていたんです。彼らは私の論文のことも業績もよく知っていましたので、もし私がモスクワへ行って腕をみがいて帰ると、自分たちの保健省のポストがひとつ奪われることになるかもしれない、と。
ソ連ではだいたい、若手がその能力の程度に従って昇進するのが非常に難しい。コネがなくては、昇進は絶望的なのが現実です。そうした官僚主義、縁故主義が大手をふってまかり通っているところにゴルバチョフが現れ、彼の指導によって医学に限らず、あらゆる分野で優秀な若手を抜擢するという動きがはじまったのですが、それでも私のモスクワ行きが認められるまで3年間かかった。これはペレストロイカが官僚の抵抗によってすすまないといわれることの、ひとつの例だと思います。
少しずつ変わってはきていますが、それでもまだ不可解な、バカげた慣行が続けられている。たとえば外国行きの許可の問題。いまなお、コネを持っていない人間が、アメリカをはじめ西側へ技術の習得にでかけることはとても難しい。たいへん残念なことです。
ソ連の医学界について説明しますと、ペレストロイカ以前は、完全な閉鎖状態にあって、西側との接触はほとんどなかったと申し上げていい。とりわけ研究者レベルでは、学術交流のルートがほとんどなかった。あったのは、保健省の大臣とか次官とかのお偉方が外遊なさる、というだけのしろもので、学術交流とはほど遠いものでした。
その一方で、例のごとく、ソ連の医療技術は世界でもっともすすんでいるというプロパガンダも行われていた。もちろん、医学研究所で仕事をしていたときに、西側の文献にふれることのできた私は、それが真っ赤な嘘で、西側先進国の医療技術がきわめて高いということを知っていました。
本当にペレストロイカ以前は、嘘ばかりまかり通っていましたね。ソ連の医療に関する最大の嘘は、ソ連の無料医療は世界でいちばんすすんだシステムである、という嘘です。しかし、よく考えてみれば、これは無料でもなんでもない。このシステムを支えてきたのは、我々の税金です。もともと無料ではない。そこへもってきて、我々の税金、あるいは我々の労働の成果の大半は、国防産業のほうへまわされてきました。医療にまわされた予算などそれに比べれば微々たるものでした。
そのうえさらに、国民をあざむいてきたのは、保険手当の予算のうち、非常に大きな金額が、第四総局のために割(さ)かれてきたことです。第四総局、わかりますか? クレムリンのお偉方とその家族のために、最高の医療サービスを施すための部局です。党中央委のメンバーや、各地方の当指導者たちには彼らだけの専門病院がつくられ、そこでは無料で最高の医療が受けられます。私自身、婦人専門の外科医として、政府高官の奥方や家族の手術にたずさわった経験があります。特別な個室、特別な看護、特別な食事サービス……。一方、一般の国民は、たしかに無料だが、最低の水準の診療しか受けられない。まともな治療を受けようと思ったら、ヤミでカネを支払わなくてはならない。それも法外な金額のカネを、です。
私たちは今も、こうしたお偉方の特権のためにいくらカネが国庫から支払われているか知らない。いまだにその統計数字は秘密扱いされているのです。
しかし現在、この欺瞞的な無料医療システムをやめて、有料にしようという世論が高まりつつあります。カネが少々かかってもいいから、いい病院、いい医者にかかりたい、切実にそう願っている人たちがたくさんいるんです。そのかわりに、税負担も少なくしてもらう。自分の健康は、自分の賃金の範囲でまかなう、ということです。
一方、この動きは患者側ばかりでなく、医者の側にも歓迎されています。自分の能力や腕前によって、賃金に差がつくわけですから。自分の技術を向上させよう、よりよいオペレーションを心がけようという意欲も湧くわけです。現在のままであれば、ひと握りをのぞいて、多くの医者は自分の腕を磨こうとはしないし、患者に対して親切な態度で接しようともしないでしょう。そんな努力は一切、無駄なのですから。
第二の問題は薬です。薬の不足の問題です。コネもカネもない人は、医師から処方箋をもらっても、薬局にはそもそも薬がないのですから、半永久的に薬を手に入れることができません。切羽つまった人は結局、あらゆるコネを使い、公定価格の何倍ものカネを支払って、ヤミで薬を入手するほかに手はないのです。
こうした医療システム現状を変えるいちばんの近道は、保健省第四総局を撤廃して、お偉方を普通の人と同じ医療環境におくことでしょうね。そうなれば彼らも、普通の人と同じ苦労をしなければならず、このシステムを変えなくてはならないという切実さもわかることでしょう。
医療システムの話はここまでにして、今後のソ連医学の発展の見通しについてですが、まず第一に、ソ連の若い医者をなるべく多く、医療技術の発達したアメリカへ送り、勉強させて帰国させなくてはいけません。これがいちばんのポイントです。
繰り返しになりますが、強調しておくと、ソ連の医者の技術のポテンシャルは決して低くはありません。条件さえ整えば、世界の第一線にたつことも可能だと思っています。
よく同僚とも話すのですが、もしアメリカの若い医者をここへつれてきて治療させたとしたら、ソ連の若い医者の半分しか仕事ができないでしょう。彼らは高度な医療機器を使うことに慣れきっている、しかし、ここではそうした機器は不足しているので、自分の腕や経験によって補わなくてはならない。あまり自慢になる話ではないかもしれませんが、つまりアメリカと比較すると、それほど医療整備や機器の点で見劣りするということです。この点を改善すると同時に、ハイテクを駆使した先端医療技術の成果をとり入れること、これが第一のポイントです。
第二のポイントは、ある意味ではより重要なポイントです。ソ連医学界の根本的欠陥といってもいい。ソ連では医者が新しい医療技術についての着想を得たとして、それがパテントとして結晶しても、実際に現場に導入されるとなると、たいへんな困難がつきまとうのです。
私自身の話をしましょう。
私は、乳癌の手術に関する新しい技術を開発したと申し上げました。ところがそれを実際のオペに用いるために必要なレーザー光線の機械がソ連にはありません。メーカーに頼んで新しくつくらなくてはならない。しかし、そのための予算がまったくないのです。研究所にも保健省にもないのです。あるいは持っていても出さない。仕方ない。私は、自腹をきってその機械を試作するしかない。試作し、現場に導入して改良を重ね、生産過程にのせるまで、すべて自分でやらなくてはならない。まともにやっていたら、とてもではないができっこない。
幸いなことにいま、グラスノスチのおかげで、テレビが味方についてくれることになりました。私の新しい手術方法の試みについて、テレビ番組を制作中です。この番組によって関係各方面の関心を集めることができるのではないかと、期待しているのです。おかげさまで、どうにかその見通しがたちそうです。
とはいえ、このテレビ番組製作に費やす私のエネルギーもバカにはなりません。なぜこんなまだるっこしいことを私がしなくてはならないのかと、ときにグチをこぼしたくもなります。
西側だったらなあ、と思うんですよ、正直なところ。私の発見した治療法は画期的なものなんです。本当に自信があるんです。非常に効果が高い。このパテントを西側の医療機器会社や当該機関に持っていけば、きっと二つ返事で協力してくれるでしょう。機器そのものの制作費は向こうで負担してくれて、私自身はそれ相応の収入を手にできると思うんですよ。
ところがソ連ではそうはいかないんですよねえ……。
私の考えは甘いでしょうか。私自身としては、甘いとは思ってないんですが。それなりに自負はあるんです。というのは、乳癌の問題は、社会体制に関係なく、日本でもアメリカでも、いや、世界全体での問題でしょう。もし、あなたの書く本に、私のレーザーメスの新治療法が紹介されれば、きっと日本の医師が注目してくれるのではないかと、期待しているんですよ。はっきり言いますとね、将来は日本へ行きたいと思ってるんです。日本へ行って、日本の医療の技術を学び、私の新技術も教える、そんな交流の道が開けるんじゃないかって、ひそかな期待があるんです。私が開発した治療法と同様の手法を、日本やアメリカの医者が、一からつくりあげてゆく必要はないわけですからね。すでにそこに存在する自転車を、何も再発見する必要はない。借りて乗ればいいだけですから。
ちょっと、説明しましょうか。私の治療法について。
一般的には、乳癌の場合、癌におかされている部分だけを切り取るわけですけど、それにしても女性にたいへん大きな犠牲を強いるわけです。誰だって、女性ならば乳房を切り取られるのは嫌にきまってます。乳房を失えば、その女性の人生に大きな影響を与えますからね。なんとか乳房を残したい、残したまま癌を治したいと願うのは、当然のことです。その点でレーザーメスを使ったオペは、女性の希望にかなっている方法なのです。
そもそも乳癌の治療法には、まだまだ不明な点が多い。乳房をどれくらい切りとればいいのか、切りとったあとの乳房に、癌が再発する可能性はどの程度のものなのか、わからないことがたくさんあります。乳癌のオペの技術が開発されたのは、今から100年前のこと。まだまだ開発途上の治療技術なんですよ。アメリカでもレーザーメスによる治療はまだまだ、数えるほどしか行なわれていない。
西側の技術と、どこがどう違っているか、ですって?
いや、それはあまり明かしたくないな。アイデアを盗まれたくないですからね。ひとつだけはっきりいえるのは、これは西側にはない技術だ、ということです。私が知るかぎり、似たような技術の存在は、西側の文献には見当たらない。くわしくは話せませんが、私のノウハウというのは、レーザーの応用に関するものです。基礎となるレーザーは、西側のものでもソ連のものでもかまわないですが、その技術水準はソ連製のほうがやはり落ちますね。取り扱いが厄介ですから、ソ連製は。他の技術と同じです。そもそもレーザー技術の元祖はソ連なのに、それを改良していく段階で、西側に抜かれてしまった。このゲルツェン記念研究所は、1960年代に世界で初めて、レーザー光線を医療に取り入れた研究所なんですよ。レーザーとはまた別に、当時白ロシアのミンスクで、乳癌を治療する新しい方法、つまり、高温による癌治療法も発見されたんです。癌細胞は、高熱に弱いですからね。42度くらいに上げると死んでしまうのです。ですからやり方としては、癌におかされたところの体温を部分的に高める方法と、体温全体を42度に高めて、頭だけ冷やす方法と、二種類考えられる。この高熱治療法とレーザー治療法は、併用も可能です。
こうした画期的発明をする力は、ソ連の研究者にはあるのに、それを応用し、実用化してゆく段階になると西側に水をあけられてしまうんですよねえ……。医療技術にかぎらない。あらゆるテクノロジー全般にいえることだと思いますよ、これは……。
ソ連の医療技術の水準が、少なくとも着想段階では西側にひけをとらないというのは、専門家の間ではよく知られた話なんですよ。たとえば心臓外科の分野。この分野でもいい着想がいくつかあり、発表もされているのですけど、現場への導入までに3年も4年もかかってしまうので、その間に西側で先取りされて実現されてしまう。西側では一年もあれば実用化してしまいますからね。これは、わが国の官僚主義がもたらす弊害のひとつです。
たとえば、近眼の矯正手術。
ごぞんじでしょう。これは、マイクロサージェリー研究所のフョードロフ所長がはじめた手術です。この研究所の眼科外科の水準が世界の最高水準にあることはたしかで、そのため研究所の所員たちはそれぞれ、世界中をまわって眼の手術をやっています。そして外貨を稼ぎ、そのカネでさまざまな医療器具を買い入れ、それによって自分たちの方法をさらに改良するという、たいへんいい環境を築くのに成功しました。もちろん、初期の段階では、フョードロフ所長も官僚主義の壁を乗りこえる必要があったわけですが、彼はたいへんに強い意志を持った人物ですから、困難にくじけることなく初志を貫徹できた。しかも彼は、医者としての能力だけでなく、その技術を組織化していく経営者的な手腕にも恵まれていました。だからこそ、成功することができたのだと思います。
私もおよばずながら、企業家的マインドを発揮してやっていますよ。テレビを利用する方法がそのひとつです。
私がレーザーメスの新治療法を思いついたのは、82年のこと。以来、200人あまりの患者に手術をほどこしてきました。手術の方法が完全に完成したのは、86年です。しかしまだ改善の余地はあるわけで、そのためにも資金が必要なのです。
テレビは、先ほども言いましたように、私の名前を新しい治療法について、世間に広めるうえでたいへん大きな役割を果たしてくれます。
はじめてテレビでとりあげられたのは84年のことで、このときは白ロシアのみのローカル番組でした。90年9月放映の番組は、モスクワの中央テレビ局が制作し、全国に放映します。ですから、反応も全然違うものとなるでしょう。
ただし、テレビ局が医療機器製作の足しになるような資金を私に提供してくれるわけではありません。事実はその逆です。つまり、宣伝になるのだからと、私のほうがテレビ局にカネを払わなくてはならないのです。
保健省や、私の所属する研究所が撮影をテレビ局に依頼したのであれば、省や研究所なりがおカネをテレビ局に支払うことになるのですが、それは望めない。開発費の一部は保健省が負担していますが、それはほんの微々たるもので、やはり大半は私自身が自分のカネをつぎこまなくてはなりません。
私の医師としての給料は月に300ルーブル(90年7月時点)。改良型のレーザー機器を完成させるには5,000ルーブル必要です。月給ではとてもまかないきれない。そこでどうするかといったら、各地の企業は工場などへ出かけていって、講演したり、あるいは工場付属の癌専門委にいろいろアドバイスして、アドバイス料をもらうんです。相場は一回に100ルーブル程度ですね。それを月に10回こなせるとしたら、5ヵ月でどうにか必要な資金がつくれることになる。テレビに出れば知名度がさらに上がりますから、講演の依頼も増えるでしょう。それが見込めるならば、テレビ局にこちらから支払っても、元がとれるとふんでいるのです。
講演のアルバイトで資金づくりをしているということは、そのまま書いてもらってけっこうですよ。ソ連の医療研究の現場では研究資金が不足しているのは、周知の事実ですからね。またくさしつかえはありません。
日本人のソ連観が変わりつつあると、あなたはおっしゃったが、その事情はこちらでも同様です。
日本という国のイメージはこの国でも長らく歪んだ形で伝えられてきました。しかしペレストロイカ以後、冷戦が終結し、日本やアメリカのイメージはとりわけ若い世代のあいだで、急速に変わりつつあります。
仮想敵国ではなく、お互いに共存していかなければならない友人として見つめているということを理解してください。医療技術の分野でも、ささやかながら相互の交流ができたならば、と私はいま、夢見ているんです。