「ソ連と呼ばれた国に生きて」 1992 JICC出版局
私は「ソ連」を信じてないわ いざとなったら イタリアに亡命するつもり
スベタラーナ・バーバラ(「アガニョーク」女性記者)
チャーミングな女性である。いつもジーンズ姿で、髪はショート、ボーイッシュないでたちだが、丸い大きな瞳が可愛らしい。だが、それで甘くみて話しかけると、とんでもない目にあう。貌に似合わず、恐ろしく辛辣で、過激である。頼もしいとも思うが、それ以上に痛ましくもある。チャーミングな女性が、チャーミングでいられない社会とは何だろうか、とも思う。
この国の将軍たちは、みんな粛清しちゃったほうがいいわ。はっきり言って、どうしようもないバカばっかりなんだから。私が《アガニョーク》に入ったのは、90年の4月、3か月目にして初めて書いたのが、29号にのった「テコを誰にまかせるべきか」っていう、ソ連軍の将軍たちについての記事なんだけど、取材している過程でもううんざりしてきちゃった。
マカショフ大将が、『平和時に敵に勝つ方法』っていう軍隊規律の本を書いているんだけど、これがものすごくくだらないの。この本の内容を引用しながら批判した文章を書いたんだけど、まあ、聞いてもらいたいもんだわ。
たとえば、お風呂の入れかた。まず、お風呂は、あたたかくないといけないっていうのよ。きれいでなくちゃダメだし、お湯は熱くないといかん、と書いてるわけ。そんなこと、当たり前でしょ。
次に髪の毛。軍人は短く刈らなくちゃいけない。毎月5日と15日に散髪に行け、だって。兵舎のベッドには、シーツと枕カバーがないとダメだとか、軍隊の基地には噴水をつくるなとか、なぜかクジャクを飼ってはいけないとか、くっだらないことばっかり。
まだあるわよ。軍人はピストルを持って家に帰ってはいけないっていうのは、夫婦ゲンカのとき危ないからだとでも言いたいんでしょうけど、わけがわからないのは、隣の家の奥さんと紅茶を飲んではいけないっていう注意。何よ、これ。で、自分の奥さんを疑って行動してはいけない、でも、尻にはしかれるなって書いてるのよ。
立派な司令官になるための条件ていうくだりでは、酒と女と泥棒はいけない、仕事はちゃんとやれ、とか。あったりまえでしょう、そんなこと。もう、ほんとに大馬鹿。ぜんぜん教養がない。こんな人が、共産党大会で堂々と演説してるのよ、信じられる?
私は、モスクワ生まれ。えっ、女の年を聞くの? まあ、いいか。ジャーナリストが不作法なのは、万国共通だものね。90年現在で27歳よ。結婚してるわ。子供は、4歳の男の子がひとり。
父はゴーリキー記念映画製作所の映画監督で、母はエンジニア。ごく普通の中等学校を79年に卒業したわ。ほんとうはすぐモスクワ大学に入りたかったんだけど、現役で入学するのはとても難しいの。労働経験があると入りやすいので、一年間、科学技術情報研究所でセクレタリーをして、それからモスクワ大学のジャーナリズム学部に入ったの。今でもまだ、大学に在籍中よ。いろいろとまわり道してきたから。
実は、80年に入学してから、一回大学をやめさせられちゃったの。まじめに勉強しなかったから。入学してから、失望しちゃったのよね。一般教養で、ロシアの古典文学とか、ソ連共産党の歴史とか、ジャーナリストとしての仕事に必要のないバカバカしい科目ばっかり並んでいたものだからね。期待が大きすぎたんだと思う。ずっとジャーナリストになりたいってあこがれていたし、大学に入ったらすぐ、現実に役に立つ実践的な知識を教えてくれるものとばかり思っていたから。すぐにジャーナリストになれて、記事を書くことができて、有名になれるという夢を思い描いてたんだけど、現実はだいぶ違った。なんだか、イヤになっちゃって、授業をサボってふらふらしてたら退学になっちゃった。それからまた、思い直して入り直したの。でも、いまでも、あの学部の授業はたいして意味ないと思ってるわよ。あそこで学ぶのは、せいぜい2年あれば充分。それ以上は必要ないわ。
モスクワ大学のジャーナリズム学部というのは、ジャーナリストになるためには、この国で一番のエリートコース。それだけに競争も激しい。優先されるのは、すでにソ連の新聞とか雑誌に、何か自分の記事が載ったことがある人ね。何の実績もない人は、ちょっと入れない。私は友だちと二人で、モスクワの『地下鉄新聞』というローカル・ペーパーの編集部に、仕事させてくださいって頼みにいったの。それで労働者へのインタビューの仕事をもらって、新聞に掲載してもらった。モスクワの地下鉄は世界一だなんてまだ言ってた時代だから、大いにほめちぎりました、はい。
入学してからは、もうちょっとちゃんとした出版社の雑誌に原稿を載せてもらおうと思って、『ジャーナリスト』という雑誌に電話をかけて、少しは仕事をさせてもらったわね。記事を書くだけじゃなくて、郵便物の運び屋とか、つまんない仕事も一年くらいしたわ。一般的には、私のようなジャーナリスト志望の女の子はどうするかというと、中等学校を出たら、大学の夜間学部にでも通いながら、どこかの出版社にもぐりこんで、セクレタリーとか雑用係とかをするわけ。そうすると、一年のうちに一回ぐらいは、小さい記事を書かせてもらえるの。何ていうのか、暗黙のルールみたいなものよね、それって。中等学校を出たばかりの子に、たいした仕事できるわけないんだけど、つまらない小さな記事ならいいだろうってわけ。そんな仕事、ほんとうは実績のうちには入らないんだろうけど、いちおう形式上必要なのよね。一定のルールなわけよ。この『アガニョーク』の編集部にも、事務仕事している女の子たちがいるけど、彼女たちの中にも、そういう将来へのステップを考えている人、いるんじゃないかしら。
なんでジャーナリストにあこがれたか?
うーん、難しい質問よねぇ、それは。小さい時から、あこがれてたのよね。なんていうのかなぁ、ロマンチックな仕事じゃないかと、なぜか思い込んでたのよ。ちょっとぉ、笑わないでよ。
十年前、私が大学に入ろうとするころは、自分科学系のブームが起きていたの。20年前は、物理とか科学とか、自然科学系の学部が人気があったみたい。テクノロジーが世界の運命を決めるって考えられていたのよね。十年前は、ちょっと事情が違った。サミズダート(地下出版物)などから、新しい作家が出現したりして、人文系がにわかなブームになったわけ。その影響もあるとは思う。
もちろん、普通の女の子たちのような生き方を選ぶ手もあったわよ。中等学校を出て、すこし働いて、適当な時期に結婚して、子供を産んで……。私の幼なじみなんて、みんなそうね。理想だとか夢だとか、そういうことはおよびじゃないの、みんな。
女の子の夢といったら、一般的にはもちろん女優とかスチュワーデスとか、モデルとかになりたいって思うものよ。それはどこの国の女の子の夢でもあるでしょ。でも、十年前には、普通の女の子たちはそういう欲望を押し殺して、ひた隠しにしてたわ。高望みの夢は見ずに、共産主義建設のためにつくす、とかね。ウソよ、もちろん。でもまだ、グラスノスチはなかった。何もかも、ウソだらけの時代だったから。
もしかしたら、私は、少しでも退屈でない人生を求めていたのかもしれない。ずっと昔から、私は退屈でしょうがなかった。この社会が変わるとも、変えられるとも思えなかった。だからせめて、ジャーナリストになって、少しは刺激のある毎日を過ごしたいと思ったのかもしれない。あなただって、ジャーナリストなら、その気持ち、わかるでしょ。
私たちの世代ってね、ひと昔、ふた昔前の世代と違って、フルシチョフの雪解けの時代も知らない、いわゆる停滞時代の子供たちだから、シニカルで日和見主義的な考えがしみこんでるのね。この社会を変えようとか、悪をただそうとか、そんなだいそれたこと考えてない。社会主義の理念とか理想とか、全然信じてなかったし、プロパガンダを聞くだけで頭痛いし、未来を無邪気に信じてなかったし。せいぜい、この社会の特権をうまく利用してやろうとしか、思ってなかった。若者が集まって、井戸端会議してるとき、もし誰かがプロパガンダをうのみにしたようなことを言ったら、みんなヘンな目でみた。私もそう、醒めた若者のひとりだったわ。
でも、古い世代って全然違うのよね。特にスターリン時代に教育を受けた人は、ものすごくプロパガンダに影響されている。社会主義は間違ってるなんて言われ洋ものなら、すごくショックを受けて、しまいには怒りだす。ものすごく頑固。それに対して停滞時代の若い世代は、政府がウソをついているのも知っているし、それなら自分も、自分の利益のためにウソをついたっていいだろうって割りきってる。そういうのが過半数。対照的ではあるけど、どっちもどっちよね。
外国へ行きたいってあこがれは、強烈にあったわ、もちろん。でも、ソ連から出国するためには、相手国の人間からの招待状が必要だし、そんなチャンスにそうそう恵まれるものではないと思って、たいした期待はしてこなかった。
14歳の時に、イタリアへ行ったことがあるの。遠い親戚が向こうにいて、招待してもらったの。あそこは、ソ連とは別世界よ。私はいざとなったら、イタリアに亡命するつもり。書いていいのかって? もちろんよ。全然かまわないわ。やるときはやるから。
ペレストロイカになったというのに、なんで亡命しなくちゃならないのか、ですって? あのねえ……(嘆息)。いい? この国で、まともな暮らしができると思う? モスクワの商店では、何が買えないか、ではなくて、何を買えるか数えたほうが早いのよ。それも日ごとに少なくなって、買えるものの数といったら、もう片手の指だけで間に合うわ。でもまあ、そんなことだけだったら、私も他の女たちと同じように我慢できるかもしれない。でも、『アガニョーク』で記者をしていて、ソ連の体制を批判してきた、という「実績」があったら、ゴルバチョフのあとに反動的な政権が成立したあかつきには、見逃してもらえるわけないじゃない。コロチッチ編集長以下、全員シベリア送りよ。これは誇張でもなんでもないわ。みんな覚悟してることよ。そうなる前に、私はこの国を逃げ出すわ。
ブレジネフ時代、この国に明るい未来はない、と思ってた。アンドロポフが登場して、少しいい方向へ向かった、で、チェルネンコになって、何もかも元の木阿弥に戻った、と思われた。そしてゴルバチョフの時代が来た。彼はペレストロイカを始めたわ。それは大歓迎だけど、西側の人たちが考えるほど、私たちは楽観的じゃない。ソ連の歴史って、極端から極端に揺れ動くのよ。また、どうしようもない、ひどい状況になる可能性は充分にあるわ。現に経済はめちゃくちゃで民族紛争は激化して、毎日血が流されている。いつクーデターが起きても不思議はないもの。何しろ、バカな将軍にはこと欠かない国ですからね。私はソ連という国を信じてないわ。私の絶望は、そんなに浅いものじゃない。
亡命のこと、夫とはちゃんと話したことはない。もちろん両親とも。夫もジャーナリストだけど、土壇場ではどうしようと思っているのか、よくわからない。いずれにしても、彼の意見がどうであろうと、いざとなれば私は子供を連れてこの国を出てゆくわ。そうなる可能性は、残念ながら低くはないと思う。ま、もし、そんな事態になって、私がイタリアへ亡命したら、向こうでデートしましょ。亡命の成功を祝ってちょうだいね。
このインタビューの半年あまり後、彼女に再会した。場所はローマでも、ヴェニスでも、ミラノでもなく、無粋なことにクーデター事件直後のモスクワだった。彼女の予言はみごとに的中したわけだが、不幸中の幸いというべきか、その冒険的試みが3日間の悪夢に終わったことは周知の通りである。
気分はどう? と尋ねた。まだ、この国から逃げ出したいと思ってる?
彼女は、憂鬱を隠そうともしなかった数ヶ月前とはうってかわって、別人のように晴れやかな笑顔で首を振った。
ううん。やっぱり、自分の生まれた国が一番いいわよ。
実はね、つい最近、一カ月ほどイタリアに滞在していたの。遠い親戚からの招待状がきて、出国許可がおりたのよ。イタリアは素晴らしい国だし、大好きだし、旅行はとても楽しかったけれど、一カ月もいるとやっぱりロシアが恋しくなってくる。ムリね、やっぱり他の国で暮らすのは。私にはできない。よくわかったわ。経済はメチャクチャだし、物もろくにないし、でたらめな国だけど、私はやっぱりロシアが好き。クーデターは起こったけれど、あんな形でつぶれちゃったし、当面の危機は去ったと思う。これからもまた、変なことが起きるかもしれないし、生活の困難は続くでしょうけど、亡命はたぶん考えないでしょうね。ロシア人はロシアで暮らすのが一番よ。あなただって、日本で暮らすのが一番でしょ。私もそう。だって、私はロシア人なんだから。