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「ソ連と呼ばれた国に生きて」 1992 JICC出版局

宇宙開発を無駄遣いと批判するより、官僚の特権を廃止すべきだよ

ゲオルギー・グレチコ(宇宙飛行士)




 熊のぬいぐるみみたいだ、と思った。初対面の第一印象である。モスクワ郊外の、国際宇宙飛行士協会のオフィスで会った、ソ連有数のコスモノートは、モスクワ五輪のときのシンボル、熊のミーシャをただちに連想させた。がっしりとした体格、短くて太い指、まるまるとした人なつこい笑顔。
 彼が現れるのを待つ間、協会のオフィスのロビーで、詩人でシンガーソングライターのウラジーミル・ヴィソツキーを特集したテレビ番組を見ていた。各界の著名人が、この国民的人気をもつ大詩人の魅力について語っていた。各界の著名人が、この国民的人気をもつ大詩人の魅力について語っていた。「次は宇宙飛行士のグレチコさんです……」。司会者がそう語ったとき、本人がちょうど現れた。

 私は詩人じゃない。自分の心をうまく言葉で表すことができない。だからこそ、ヴィソツキーの詩や歌にひかれるんです。彼は、民衆の生活と心を歌いました。狩人や登山家や兵士や、その他さまざまな人生を送っている人びとの、心の底深くにある心情を歌ったのです。あるタクシードライバーが、ヴィソツキーに、「あなたはきっと長年、運転手をしていたのでしょう。そうでなければ、運転手の気持ちをあのように歌えるわけがない」という手紙を出したことがあるそうです。もちろん、ヴィソツキーにはそんな経験はない。経験がなくても、人の心の秘められた心情を理解し、表現できるんですね。
 私は、宇宙飛行士になるために厳しい訓練を受け、幾度ものむずかしいテストをくぐり抜けてきて、もう少しでロケットに乗れるというところまでたどりついた1969年に、足を骨折してしまいました。全開するまで半年間かかり、そのあいだに同僚に追い抜かれてしまったんです。カムバックしてから必死に努力しましたが、半年の遅れをとり戻すのは容易ではなかった。私は9年間に5回、宇宙飛行のチャンスを手にしましたが、すべて第二の宇宙飛行士でした。補欠です。これは本当につらい体験でした。
 第一の宇宙飛行士と同じ訓練を受け、同じテストにパスして、準備を整える。ロケットの発射5分前まで、第一飛行士と第二飛行士は完全に平等です。同じようにスタンバイしている。ですが、5分前までに、第一飛行士の身に何も起こらないと、第二飛行士は宇宙服を着てヘルメットを抱えたまま、ロケットを見送らなければならないんです。今回も乗らなかった。次回こそ……そしてまた、うなだれる。
 こんな残酷な繰り返しのなかでは、モラルを維持することはすごくむずかしい。しかし、人間は人間でなければならない。人間にとっていちばん大事なことは、自分の原則にしたがうことです。金持ちになることよりも、自分のモラルに応じて生きることの方が大切です。人間は何よりも、自分自身によって尊敬されなくてはいけない。そう思いつつも、第二飛行士であるということは、苦しいことなんです。
 こういう第二飛行士のつらい気持ちを、ヴィソツキーは見事な詩で表現しているんですね。私がテレビ番組で詠みあげた詩は、このようなものです。
 二人は同じ道を歩き、同じ訓練をうけてきた。いつでも同じ宇宙飛行士として平等に扱われてきた。しかし、それは打ち上げまでのこと。宇宙船が打ち上げられたら、新聞の見出しには一人の名前だけが載る。二人のためのスペースはない。もうすぐ打ち上げの日が近づく。パラシュート訓練で、大きく揺られて舞いおりながら、第二飛行士の右の目と左の目は別々なものをみている。右の目は同僚の着陸の成功の模様を喜びながら見ているが、左の目は何を見ているのかわからない……そんな内容の詩です。本当に驚きです。そのとおりなのです。一方では成功を祈り、他方で失敗をのぞむ、相反する二つの気持ちが第二飛行士の心のなかでは揺れ動いている。彼がなぜこんな詩をつくれるのか、不思議です。この詩のとおりの気持ちを、私は5回も味わったわけです。
 私の同僚のなかには、第二飛行士であることに疲れ、精神的に敗れて、いちども飛びたつことなく、去っていった者もたくさんいました。私が第一飛行士として、晴れて宇宙へ飛びたつことができたのは1975年。喜びは、打ち上げから2、3時間してから初めて襲ってきましたね。それまでは、不安と緊張だけでした。生きたまま戻れるのか。きちんと仕事をできるかどうか。訓練ではパスしても宇宙での本番は成功するだろうか。自分の同僚、スタッフとのコミュニケーションはうまくいくのか。何より、自分は自分のプライドを保つことができるだろうか。
 結果的には大成功でした。途中、アクシデントもありましたが、無事に乗りこえることができたんです。機械が一部故障したんですが、私はそれを宇宙で自分で修理したんです。このファースト・フライトは30日間でした。今までに、3回、宇宙を飛んでいます。フライト・レコードは4カ月半。3回目のときは54歳で、すでに孫が二人いました。でも、これが最後のフライトだとは思っていない。私は、もういちど、宇宙へ行きたいと思ってます。1991年で60歳になりますが、まだまだやれる自信があるし、実際、その可能性もあります。

 60歳になると聞いて驚く。短く刈った髪にちらほら白いものも混じってはいるが、せいぜい50歳前後にしか見えない。精悍で、エネルギッシュで、馬力があり余っているのか、語り口までせっかちである。
 1931年生まれのレニングラード出身。ウクライナ出身で国家規格委員会に勤める技術者の父親と、白ロシア出身でパン工場の主任技師の母親との間に、ひとり息子として生まれた。

 ひとり息子ですから、たいへん可愛がられて育ちました。大事にされたんですが、しかしながら、私は青年時代にはオートバイに乗ったり、アルペンスキーをしたり、セスナ機の操縦、パラシュート降下、スキューバダイビングと、危険なスポーツばかりやって、両親をたいへん心配させました。子供の頃から冒険好きで、落ち着きのない性格なんですね。母親が、「お前は落ち着きがないだけじゃなくて、母親が、「お前は落ち着きがないだけじゃなくて、他人も落ち着かなくさせる子だね」とよく言ってましたが、たしかにそのとおりで、今もそういう生活をしてるんですよ。落ち着きがなく、他人のこともあれこれとせきたてて、あわただしく仕事をやらせる、そんな毎日です。
 中学生のとき、極北探検に出かけたこともあります。私の中学校の後援をしている地質大学から、ある年の夏、代表が来てこう言ったんです。「我われは極北の地質調査のため、探検隊を組織している。ついては、その手伝いに生徒を2、3人貸してほしい。なに、彼らはちょっとした手伝いをしてくれれば、あとは魚つりをしたり、キノコ狩りをしたり、自由に遊んでもらってかまわない」。
 喜び勇んで私は志願したんですが、行ってみたらとんでもない。働き手が足りないとか言われて、重さ20キロの鉱石を一日に25キロも運ばされました。でも、賃金は一カ月に200ルーブルももらえました。1946年、終戦の翌年の話なんですが、当時としてはたいへんな金額です。技師の月給が130ルーブル、技師長が180ルーブルという時代ですからね。要するに、極北地帯ですから、賃金の割増しがつく。それから高山の仕事ですから、またまた割増しがつく。それで、こんなに高い賃金になったわけです。
 こんな大金を手にしたのは生まれて初めてのことでした。母から小づかいをもらっても、一カ月にせいぜい5ルーブル。だから、200ルーブルもらってびっくり、使い道を知らないものだから、友だちとアメ玉をたくさん買って、食べすぎて下痢を起こしたことを覚えてますよ。
 あのころは戦争直後で、物価がたいへん高かった。パンが8ルーブル、ひと瓶のミルクが5ルーブルという、苦しい時代でした。お菓子なんてほとんどない。アメ玉ぐらいのものです。それでも、戦争中は甘いものはいっさい口に入りませんでしたから、200ルーブル手に入ったときは、あこがれのアメ玉をつい、5キロも買ってしまったわけです。それをいっぺんに食べたのだから、腹をくだすのも当たり前です。
 レニングラードと聞くと、誰しもすぐあの悲惨なドイツ軍による封鎖を思い出すものですが、私は開戦の一週間前に、父の故郷の、ウクライナのチェリニコフへ送られたので、体験せずにすみました。当時、開戦の直前にはレニングラードでも、戦争が始まるという噂がひろまりましたが、それは嘘だ、敵の挑発だと打ち消されてしまったんです。私はたまたま難を逃れたわけですけど、チェリニコフもドイツ軍に占領され、二年間、占領下で暮らすはめになりました。
 私が体験した戦争とは、まず砲弾の恐怖です。いちど、50メートルの至近距離で砲弾が炸裂したことがありました。そのとき私は、水の入った樽のそばに避難していたんですが、急に水が奔り、体を濡らしはじめた。樽の栓が抜けたのだろうと振り返ったら、私の肩のすぐ上に砲弾の破片が突き刺さって、そこから水があふれだしていたんです。もし破片が飛んだ場所が、あと20センチ下だったら、今日こうして、あなたとしゃべることはなかったでしょう。
 占領下の暮らしは、つらいものでした。
 私は、おばあさんとおばさんの住む家に身を寄せていたんですが、おじさんが戦死してしまい、おばさんの子供が3人、私、おばあさんと、年寄りと子供ばかりで、働き手はおばさんひとり。とても家族全員を養えません。それで私と、私と同じく10歳になる従兄は、朝から晩まで働かなくてはなりませんでした。まず、駐屯しているドイツ軍のもとで雑役をして、余った時間は、家の近くの自留地で野良仕事をしました。食べ物といえば、ジャガイモばかり。問題は衣服です。着るものがない。そこで、ジャガイモを一晩中すりつぶして、乾かして粉にする。それを翌朝市場に持っていって、手袋や帽子と代えてくる。物々交換ですね。もちろん、身にまとっているものといえば、ボロばかりでした。冬ともなれば、フェルトの防寒用の長靴も買わなきゃいけないし、たいへんです。
 その長靴を履いて学校へ行くんですが、途中、雪と泥で濡れてしまう。で、学校に入ると、その長靴をペチカの上で暖めて、教室は素足で歩く。みんなが靴を干すものだから、その臭いたるやたいへんなものでした。
 それでも、私たちはまだ自留地があったので、どうにか食べられた。担任の先生はそういう土地をもっていなかったし、どこからも食糧を手に入れるすべがないので、私たちがそっと、先生の机の下に、持っていたパンやワインとかをおいて、教室を出ていったものでした。
 教科書はなかった。というのは、教科書のなかにソビエト権力やスターリンについての記述があったからです。そのため、ドイツ軍がすべて没収していきました。ノートも、粗末なもので、壁紙の余ったものを綴じて、その裏を使ったものです。
 着る物も、食べ物も、教科書もない。そんななかで生活してきましたからね、だからそれに比べれば今の生活は、物不足だとかいっても悪くない暮らしをしていると思ってます。
 私は根っから楽観的な人間なんです。しかも、当時は子供でしたから、今はドイツ軍に占領されているが、いつか勝利の日がくるだろうと信じて疑いませんでした。なにしろ当時の教育では、ソ連は世界でいちばんいい国で、ソ連軍は世界最強で、ソ連人の生活は世界最高だって教えられてましたからね。そんな国の軍隊が勝つのは当たり前でしょう。勝利とは簡単なものだ、と思ってました。ソ連の勝利が、実はどれほど多大な犠牲を払ってかちとられたものであるか、知ることができたのはつい最近のことです。一般に2,000万人の死者が出たと言われていますが、これは決して正確に勘定された数字じゃありません。戦死者、戦病者、非戦闘員の死者をすべて厳密に算出して合計したら、実際はもっと多いだろうと私は考えています。
 いずれにしても、当時の私には、そんなことは思いつくことじゃありませんでした。子供の私が考えていたことは、もっとずっと素朴なことだったんです。
 戦争前は、射的場へ母親に連れて行ってもらったとき、弾丸がよく命中したので、よし、将来は狙撃手になってやろうと決心しました。その後、『三人の狙撃兵』という映画を観て、やはり、戦車兵になった方がいいと考え直した。その次、ドイツの爆撃機が来て、ソ連軍の戦闘機が迎え撃つさまを見たら、飛行機乗りになるしかあるまい、と心に決めました。
 43年に、チェリニコフが解放され、レニングラードへ帰ることになったんですが、その途中、モスクワへ立ち寄り、ゴーリキー・パークに展示されていたドイツ軍の捕獲品の展示をみる機会に恵まれました。そのなかに、メッサーシュミット163型という、ジェット推進の飛行機があった。これを見てすっかりあこがれてしまいましたね、このジェット機で、月へ飛んでみたい、火星へも行きたいと、空想はどんどんふくらんでいったものです。
 そして、45年に戦争が終わりました。私は14歳でした。今でもおぼえていますが、ドイツの無条件降伏が報道されたその日、学校へ行かなくてもいい、今日はお祭りだと言われて、大喜びしたものです。
 戦後、ペレマンという人が書いた、惑星間飛行に関する、少年向けの本と、ツィオルコフスキーという、ソ連におけるロケット技術の開祖の本を読んで、宇宙ロケットの実現はまったくの夢物語ではないのだと知りました。空想から現実へ、一歩近づいたわけです。とはいえ、ツィオルコフスキーによれば、人類が宇宙を飛ぶのは、早くても100年後になるという話でしたので、私の夢は宇宙飛行士になることではなく、ロケットの製作に向かいました。
 そして、レニングラード技術大学に入学したんですが、ここではロケット工学を教えていたので、もってこいでした。成績は、たいへんよかった。5年間の在学中、いつも満点でした。成績がよかったために、進路の選択の優先権が与えられたので、私はコロロフが所長を務める、大型ロケット設計のための研究所に勤務することにしたのです。1954年のことでした。モスクワ郊外にその研究所はあり、工場も隣接しています。今はこうして話すことができますが、もし2年前だったら、絶対にできなかったでしょうね。すべて秘密でしたから。
 ナチスドイツから、ロケット技術者を連れてきたという話がよくきかれますが、その真偽は私にはわかりません。入所したのは、戦後9年も経過してからですから。少なくとも私が入ったときには、ドイツ人は見かけませんでした。しかし、ナチスドイツの開発したV2型ロケットの図面はたしかにあったようです。戦後、コロロフがつくったロケットはV2によく似てました。それを我々はR1という名前で呼んでました。ソ連産ロケット等第2号のR2は、V2を技術的に完成させたもので、この時点でドイツを抜き、次のR3でついに、ソ連は世界最高水準に達しました。現在のヴォストークは、R7に当たります。
 コロロフの設計所・工場コンプレックスの名前は、OKB(オカベ)1というものでした。私はそこで大学の卒論を書くかたわら、生計を立てるために、工場で技術者として働きはじめたんです。技術者といっても、実際の仕事は、部品の運搬とか、雑役に近いものです。しかし、卒論を書きあげてからは、ロケットの軌道計算の部品に配属されました。いま思い出すとおかしいのは、私が入った1953年頃はまだコンピュータがなくて、ドイツ製の大型電子計算機を使っていたことです。1956年に、最初のソ連製コンピュータが、たった一台だけ搬入されました。トランジスタじゃなくて、まだ真空管ですよ。メモリーも1キロバイトくらいのものです。これは(といって卓上のパソコンをさす)1640キロバイトですから、ずいぶん性能が劣っていましたね。あ、このパソコンですか? 国産じゃありません。外国製です。残念ながら、ね。
 卒論は、潜水艦にロケットを取りつけて、ガスの圧力で水中からロケットを発射させるための理論でした。あくまで純粋に理論的な作業なので、実際に飛ぶかどうかはわからない、ハハ。まあ、今はアメリカのトライデントなんていう水中発射のミサイルがありますが、私には全然関心がない。民間人ですからね、軍事問題には興味がないんです。それでも、軌道計算部門に配属されたばかりのころは、まず、軍事用のミサイルの軌道計算ばかりやらされました。その次は、人工衛星の軌道計算です。それから、月に飛ぶロケットの軌道の算出もやったな。地球からロケットを月へ飛ばして、月の裏側を撮影して、また地球へ戻ってくるというものなんですが、これが当時の計算機の力では難しいんですよ。今は、何でもないことですがね。
 そのほか、通信衛星の軌道、火星ロケット、金星ロケットの軌道、そして有人宇宙飛行船の計算もやりました。ガガーリンの時代がようやくやってきたわけです。
 私にも可能性が出てきたのは、63年のことでした。3人乗りの宇宙船を飛ばすことになり、宇宙飛行士と、科学者と、エンジニアのなかからそれぞれ選抜すると発表され、希望者を募ったのです。エンジニアからの志望者は200人、そのうち医学審査会の審査にパスしたのが13人。その13人のうちに、私も残ったのです。信じられませんでした。はじめからパスするなんて、まったく期待していませんでしたから。
 そもそも私の考えでは、宇宙飛行士というものはスーパーマンなのであり、私のような頭痛もちで、ときどき喉が痛くなるような人間じゃ、とても審査に通るはずがない、そう思って、はなからあきらめていたのです。おそらく、戦争のときの体験で、いつのまにか体が鍛えられていたんでしょうね。
 その後、私は少年の頃の夢の実現に向けて、全力で努力しました。いろいろな訓練が次々と課せられました。科学訓練、技術訓練、体力訓練、医学訓練……。私にとっていちばん面白かったのは、科学訓練プログラムですね。例の、第一回目の打ち上げのとき、宇宙船には、太陽や星を観測し、分析するための非常にいい機械が備えつけられていました。こういう化学実験や観測のための訓練は、とてもむずかしいものですが、私はわざわざその機械の使い方を研究するためだけに、クリミアの天体観測研究所に特別に二ヶ月間勉強しにいきました。それが実際のフライトですごく役に立った。打ち上げのときにこの機械が壊れちゃったんです。地上の指令部は、ほっておいていいと言ってきたんですが、私はその機械が恋しかったものですから、寝る時間を惜しんで修理しました。その結果、非常に珍しい太陽表面の爆発の模様を分析することができたのです。この点では、ソ連はアメリカに5年先駆けることができました。
 科学訓練プログラム以外に重要なのは、やはり精神訓練のプログラムでしょうね。たとえば危機的な状況に陥ったり、何か不測の事態のときに、パニックを起こさず、平常心を保つための訓練。床の上に線を引いて、その上を平行に保ちながら歩く。これは簡単ですが、ではその線が床から30メートルも上にあっても大丈夫か。こういうことを少しずつ、高さを上げて慣らしていくのです。それから、パラシュート降下。ある女性訓練生は、他のテストはすべてパスしたのに、どうしてもパラシュートを背負って飛行機から飛び降りれなくて、すべてをあきらめなくてはならなかった。
 そのほか、飛行機の曲乗りやグライダーなどリスキーなスポーツならなんでも役に立ちます。恐怖を克服する経験、危険のなかに身を投じても動じない神経を養うこと、それが宇宙空間へ出て行くにはどうしても必要なのです。宇宙では、恐怖にとらわれたら、もう何もできない。たとえば、豆粒のような隕石でも、宇宙船に当たれば弾丸のように貫通する。船内にいても安全じゃないんです。寝るときにそんなことを考えだしたら、眠れなくなる。眠れないと、分刻みで進行するスケジュールをこなすことができなくなってしまう。きちんと眠ることも、仕事の一部なわけです。そしてそのためには、自信が必要です。
 しかし、なんといっても、もっとも勇気がいるのは、宇宙船の外へ出てゆくことですね。宇宙遊泳しながら、船外作業をするんですが、外へ出るときには、ものすごい不安に襲われますね。何もない宇宙空間に浮かぶというのは、未知の経験ですからね。でも、やらなくてはならない仕事があれば、どうあっても外へ出て行かなければならない。
 二回目の打ち上げのときのことです。別の宇宙船とドッキングして、その連絡機械を通じて船外へ出ることになっていたのですが、その連絡部分に故障が発生したのです。外へ出る扉が開かなくなってしまった。たいへんな苦労をして開けたのですが、閉めたらまた開かなくなるかもしれないという危険がありました。もし開かないと、永遠に宇宙遊泳を続けなくてはならないわけです。そうした不安を払いのけて外へ出ていくには、強い性格、強い意志が必要でした。
 精神的な訓練には、こうした危険と恐怖を克服する勇敢さを養うだけでなく、人間関係を円滑に営むためのプログラムもありました。宇宙で何より大切なのは、チームワークです。パートナーを信頼できなくなったり、意思疎通がうまくいかなかったりして感情が乱れると、それはすぐそのまま、全員の死に結びつきます。宇宙船の狭い密室の中で長時間共に過ごし、重労働をこなすということはものすごいストレスです。そのストレスにつぶされることなく、人間関係を良好に保つためには、本人のもとからの性格もありますが、訓練も必要になるのです。宇宙では、グレチコもいないし、ルマニエンコもいないし、ほかの誰もいない。あるのはそれぞれが自分の能力をフルに発揮して相互に貢献する、ひとつのチームがあるだけです。そういう意識を共有できるようになること、それが訓練の目的なのです。

 自分に絶対の自信をもちながら、同時に矮小な自我へのこだわりを捨てることを要求される。難しい注文である。極限状況に挑むことはまた、自分の精神の可能性に挑むことでもある。その極限的な体験のはてに、何を見るのだろう。立花隆氏の『宇宙からの帰還』のなかに、アメリカの宇宙飛行士が宇宙で神の啓示を受け、地球へ戻ってから宗教家になった、というエピソードがおさめられている。その飛行士は、宇宙での精神的体験を、神の啓示という言葉に翻訳し、表現したのだろう。では、唯物論の国の飛行士はどうか。どのような体験をし、それをどう表現するだろうか。

 私はソ連の宇宙飛行士のほとんどを知っていますが、宗教的感情を味わったという話は聞いたことがないなあ。私自身、”神様”には出会わなかったし。しかしもちろん、さまざまな変化は体験しました。たとえば、宇宙ではカルシウムが不足するとか、医学的にも肉体に変調をきたすことは確認されています。
 肉体の変化以外の、精神的、神経的な変化というと、私たちが日常意識しないでいること、忘れていることを強烈に自覚しはじめることでしょうか。たとえて言うと、私たちは健康なとき、自分の身体について関心を払っていませんね。病気になって初めて、健康だったことに気づき、自分の身体の状態に全神経を集中するようになる。それと同様の変化がたしかに起きますね。宇宙へ出るということは、今まで自分を支えていた地球の自然や、自分の所属していた社会といった環境から切り離されることです。それはすごく人間を不安定にさせるもので、そのときになって初めて、今まで自分がいかに多くのものに支えられていたか、環境によっていかに守られてきたかを痛感するのですね。友人や家族の大切さ、地球の自然の素晴らしさ、そんなものが急に輝いて感じられるようになる。
 ソ連でいちばん有名な宇宙飛行士、ジャニベコフはこう言ってます。「宇宙では人間の感情は開いている」。
 本当にそのとおりですね。私たちは日常でも、笑ったり、怒ったり、悲しんだりしているわけですが、そういう感情のすべてがクリアになる。感情や意識の動きのひとつひとつが、水中で鼓動を聞いているときのようにはっきり、大きく、強く感じられるのです。生きていきたいという欲望や、私の場合だとすべてのスケジュールを完全にこなし、仕事をやりとげたいという願望、そんなものが日常よりも拡大されて意識されるのです。
 地球にある宇宙センターと、毎日連絡をとりあいますよね。そのとき、連絡担当者の話し方にこめられているニュアンスが、大きくはっきり響いてくるのです。たとえばそれが親しみをこめた声だったら、それだけで勲章をもらったような気分になる。逆に、無関心な、冷ややかさが少しでも含まれていたら、まるで見捨てられたかのような気分になる。自分が14歳の男の子になったような気がします。気持ちが純粋な状態になるので、それだけにちょっとした刺激に対しても感情が大きく揺れるようになるのでしょうね。
 いずれにしても、宇宙を飛ぶのは、素晴らしい体験ですよ。少しでも長く飛んでいたいですね。私の一回目のフライト・レコードは、30日間、2回目は96日間でしたが、1回目は当時のソ連新記録、2回目は世界新記録でした。その新記録を達成するまでは、アメリカの3人の宇宙飛行士の83日間という記録が最高でした。世界新を達成したとき、地上と宇宙船を衛星中継で結ぶ特別テレビ番組が放送され、ジャーナリストのひとりが、私にこう質問しました。「あなたは、そんなに長く宇宙にいてつらくありませんか」。
 私はこう答えた。
 「96日の昼はあんまりつらくなかったが、96日の夜はつらかった。何しろ女性がいないもので」
 でも、96日間の私の記録も、過去のものになりました。
 いま、アメリカは宇宙ステーションをもっていないので、記録は70年代中頃の83日間から伸びていません。それに対して、ソ連はミールという宇宙ステーションがあるので、一年間の滞在記録もあります。これは我々の誇りです。
 長いあいだ、ソ連人にとって宇宙開発は、国民のプライドのシンボルでした。いいかえると、ソ連国家のプロパガンダに利用されてきたのです。いい点ばかりか、国民に対して大げさに語られてきました。ところが、最近の傾向は逆です。かつては絶対に指摘されることのなかった欠点ばかり、言いたてられるようになりました。つい最近も、宇宙ステーションのドッキングがうまくいかなくて、スケジュールが遅れるというアクシデントがありましたが、おかげでマスコミからたいへんな批判を浴びえています。
 批判は、宇宙開発の内容ばかりでなく、財政面にも向けられています。統計によると、一年間の宇宙開発予算は7兆ルーブル。そのうち4兆ルーブルは軍事目的で、3兆ルーブルは平和目的に使用されています。それが無駄づかいであると、今では目の仇ですよ。
 ですが私の考えでは、ソ連の官僚システムのムダづかいをやめたほうがよっぽどいい。たとえば、ソ連では一定レベル以上の官僚はみんな運転手つきの車を与えられています。その特権を維持するための一年間の費用は、実に数兆ルーブルにもなると言われています。西側諸国では、そういう特権は大統領とか大臣とか、ほんのひと握りの人間だけだと聞いています。ソ連では何百万人もの官僚が、特権をもっている。こういう特権を廃止すれば、財源は確保できるはずです。
 だいいち、予算の点から言えば、アメリカの宇宙開発費のほうが多いんですよ。私に言わせるなら、平和目的の宇宙開発費の予算はそのままにして、軍事目的の予算を削減すべきです。軍事プログラムは金がかかりますが、平和目的のプログラムには金はたいしてかからない。それにこうしたプログラムはいったんストップすると、再開はきわめてむずかしくなるのです。幸いなことに、新思考外交のせいで、国際的な緊張は薄らいだ。これを機会に軍事予算を削り、国民の福祉や生活の向上、そして人類の進歩に貢献する平和な宇宙開発におカネを割(さ)いてほしい、それが私の願いです。


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