「ソ連と呼ばれた国に生きて」 1992 JICC出版局
12歳のとき、モスクワで、 革命の動乱をこの目で見た
ボリス・ポノマリョフ(元共産党中央委員会政治局員)
一見すると風采のあがらない小柄な老人にすぎない。鼻の下のチョビ髭は、かつてのナチス第三帝国の独裁者のそれによく似ているが、彼自身の印象は実物のヒトラーというよりも、「殺人狂時代」のチャップリンにむしろ近い。今日まで生き残った数少ないオールド・ボリシェヴィキのひとり、しかも元政治局員を指して、「独裁者に扮した喜劇役者」にたとえるのは失礼ではあろう。しかし、ソ連権力の中枢、モスクワの党中央委員会の建物の一室で対面した大物政治家には、どこかユーモラスな気配が漂っていた。どうもネクタイのせいらしい。襟元の結び目から垂れ下がっているネクタイは、上のタイが異様に寸足らずで、下のタイがずるっと長くのびている。インタビューのあいだ中、どうしても胸元のネクタイに目がいってしまう。自分で結んだのだろうか。国民を指導する前衛党の指導者は、ネクタイの結び方を「指導」してくれる女性秘書をまず雇うべきである。よけいなおせっかいだが。
(インタビューの趣旨の説明を聞いて)ソ連のことを紹介してくれるのは、たいへん結構なことです。ソ日関係の改善に役立つでしょう。よろしい、何でも聞いて下さい。
現在ですか? 私は定年で党の仕事を引退しました。今は大事なポストに任命されてはいないが、社会活動はやめていない。私はソ連科学アカデミーの正会員ですから、アカデミーの仕事には参加している。レーニン生誕120周年記念のときには、『文学新聞』に私の論文が大きくのりましたし、『プラウダ』にもときどき書いています。だから政治家としての活動をまるきりやめてしまったわけではない。公式的な肩書きはひとつもありませんがね。第27回党大会のときに定年でやめました。今、85歳半ですから。しかし健康状態は、いたっていいですよ。
私はモスクワから200キロほど離れた、ロシア中部のリャザン州のザライエスク氏に生まれました。1905年の1月生まれです。私の家は、一般の子だくさんの家庭で、父は鉄道労働者でした。私が生活費を稼ぐために社会へ出たのは早かった。11歳のときには、モスクワへひとりで出て働きはじめました。父が私を、知り合いの車掌のところまで連れてゆき、彼に一ルーブルを渡して「息子をモスクワまで連れてってくれ」と頼んだんです。こうしてひとりで働きはじめたわけですが、私は社会に出る時期だけでなく、政治活動をはじめた時期も早かった。
私が田舎から出てきたとき、モスクワは革命の動乱の前後にありました。1917年2月革命直後のモスクワは、騒然としていて、あちこちで集会がおこなわれていた。それこそ電信柱ごとに、誰が発言しているというくらい。当時は当然のこと、テレビもラジオもなかったから、発言者は木や電信柱によじ登って、高いところから声を張りあげていた。そしてそのとき私は初めて、レーニンの名前をきいたのです。
当時話題の中心になっていたのは、第一次大戦にロシアは参戦を続けるべきかどうか、ということでした。その帝国主義的な戦争にブレーキをかけるべきだ、という立場の人は、レーニンを支持し、ボリシェヴィキを支持した人たちです。まあ、あなたもソ連の歴史にきっとくわしいと思いますけれど、当時の臨時政府をひきいたケレンスキーは、この戦争を続けるつもりであり、そしてプチブル的な政党であるメンシェヴィキとかエスエル党なども戦争の継続を支持したのです。街頭で人々がそれぞれに自分の支持政党を応援してまくしたてていました。
私はそのとき、12歳とちょっと。1917年の夏のディスカッションを、私は12歳の少年の目で目撃していたのです。少年だった私の頭では、大人たちの議論のすべてを理解できなかったかもしれないが、しかし私の理解では戦争を支持するか否か、議論のテーマははっきりしていました。そして戦争に反対したのはレーニンだった。レーニンを支持するには、その理由だけで充分でした。
少年とはいっても、政治的、経済的状況についてくわしく話してくれる大人の仲間はいましたからね。当時のロシアは、帝国主義的戦争のため経済状態は悪化してしまい、モスクワにおいては肉も砂糖もパンも足りなくなってきた。その食糧不足、物不足のために私はモスクワにいられなくなり、故郷へ帰ることになりました。
故郷でしばらくすごしているあいだに、私は年長の仲間たちといっしょに地元で政治活動をはじめました。みんなでロシアの政治情勢について意見をたたかわせ、我々はやはりボリシェヴィキを支持すべきだと結論を出したんです。すでに地区党委員会が我々の町でも活動しはじめていましたが、我々の仲間の幾人かが、その党委員会へ出かけていって入党させて下さいと頼みこみました。それが1919年の3月の話です。
その頃にはロシアの国内情勢はますます緊迫の度合いを強め、レーニン率いる政府に反対して、多くの将軍らが立ち上がり、戦いをはじめました。イギリスやアメリカ、日本などの帝国主義列強の手を借りてレーニンの政府を打ち倒すための軍隊をつくったわけです。我々自身が手に武器をもってソビエト政権を守るべき時がやってきたのでした。1919年の4月には、東のシベリアで蜂起して次第にロシア西部へと迫ってきたコルチャーク提督率いる反革命軍と戦うという緊急の課題がありました。レーニンは共産党員とすべての勤労者に向かって、コルチャークの軍と勇気をもって戦うべきだとアピールを出したのです。そして共産党員は全員赤軍に入るべきだと訴えました。
党中央委員会は、ソ連各地の下部組織の半分が赤軍に入り、コルチャークと戦うべきだという決定を下しました。そしてその決定を受けて、実際に党員の半分が、彼らの自由意志にもとづいて赤軍に入ったんです。
もちろん当時は、党に入っていたのはごく少数でした。最も誠実な人間が入っていたと思います(机をドン! ドン! と叩く)。そして私たちはコルチャークと戦うために、党に入れて下さいと頼んだんです(机を再度ドン!)。
昔のロシアには県があり、その下には郡がありました。そして各県には赤軍の連隊が組織された。リャザン県の場合、中心都市リャザン市に連隊が組織され、我々もその連隊に入りました……いや、あまりにも思い出話が細かくなりすぎまして、申し訳ない。私はいろいろな仕事をしましたから、ほかにもっと面白い話もできるかと思いますが……いいですかな、若い頃の話を続けて。
あのときの戦いはたいへん重要なものでしたが、私が思うに、当時のザライエスクの若者の約10パーセントは正直で、政治的意識も高かったと思いますが、残りはそれほど高い政治的意識をもっていたわけではありませんでした。私は1919年の終わりまで、赤軍にいて戦い続けましたが、私のように若く未成年の者もかなりおりました。そこで当時の国防大臣によって、赤軍の連隊を再編成し、未成年は故郷へ帰すようにとの命令が出され、1919年の末に戦争へ行った仲間たちと一緒にザライエスクに戻ってきたわけです。年長の仲間たちは赤軍に残りましたが、我々は故郷でコムソモールを組織しました。当時のロシアには、コムソモールはまだまだできていなかった。どのように組織したかというと、ザライエスク市内の工場や学校へ行き、あるいは付近の村落を回ったのですが、若者の心をひきつけるためには演説するだけではだめだと私たちは考え、ブラスバンドとバラライカなどを使ったロシア風の楽団の二つのオーケストラをひきつれて回ったんです。
これはある程度功を奏しました。
私の家族の態度ですか? 私のすることに対してはずっと冷静な立場をとっていましたね(笑)。若い私に影響を与えたのは家族ではなく、やはり仲間たちでした。
仲間のなかに、セルゲイ・ゴルボノフという私より3、4歳年長の人物がいました。現在、タタール自治共和国の首都カザン市にセルゲイ・ゴルボノフ記念の大きな工場があります。モスクワのフィリ地区にも、ゴルボノフ記念クラブや飛行機工場がある。このゴルボノフは、モスクワからウクライナ共和国の南部のセバストーポリへ建設の指導に向かう途中、飛行機がおちて亡くなりました。
彼は若くして政治的にめざめた人でした。才能もあり、私より年上でしたから、本をたくさん読んでいて知識もあった。日常的な接触のなかで、私に薫陶を与えてくれたんです。こういう人の影響が、若い頃の私にはたいへん大きかった。
さて、コムソモールの組織をつくった私は、その後、郡のコムソモールの書記として選ばれ、2、3年やったあと、リャザン県のコムソモールの書記局のメンバーとして選ばれました。当時のザライエスク市にはドイツ人実業家がつくった工場がありましたが、革命崩壊後、またロシアへ戻ってきて生産活動を再開する腹づもりでしたが、彼が思っているよりもボリシェヴィキの政権は強力で崩壊に至ることなく、彼はすっかり待ちくたびれていました。地方の党権力機関は、休業しているその工場を国民のために使おうと考えた。そのために私がその工場へ入り、そこの党書記に選ばれました。
こうした仕事の一方で、私は自分の学習を続けていました。これもゴルボノフの影響です。彼は私と会うたびに、勉強をしなさいと強くすすめていましたから。彼自身は1922年に、ジュコフスキー記念軍事飛行アカデミーに入学していたんです。
そこで私は、1924年にモスクワ大学の社会学部に入学し、26年までモスクワ大学で勉強しました。当時の教育課程は3年半でした。そこで私はまたその学部のコムソモールの書記に選ばれた。ソビエト政権の70周年が祝われたときに、面白いことに私の学生時代の書類が発見され、私の同僚がそれを私に見せてくれました。当時の「モスクワ大学」という新聞に、私のドキュメントが残っていたんです。
ごぞんじのように、1924年にレーニンが亡くなった。それは共産党と国民にとってたいへんつらいことでした。レーニンが亡くなったのは、56歳のときだった。残念なことにたいへん若いうちに亡くなってしまった。ですからのちのちになって私たちは、仲間同士集まっては、「もしレーニンがあと十年長く生きていたら」ということを、よく話しあったものです。もしそうであれば、国民にとって大きな幸福であったろう、と。スターリンの個人崇拝もなかったろうし、スターリンのやったひどい粛清もなかったことでしょう。
それはさておき、レーニンの没後に、党中央委員会所属のプロパガンダグループがつくられました。レーニンの思想や共産主義についていろいろとプロパガンダをおこなうために、そういうグループが結成され、地方へ派遣されたのです。各グループのリーダーは、革命前に入党したボリシェヴィキ党のOBが中心でした。そういうグループが必要だったというのは、まだまだ当時のソ連国民の間には、レーニンの思想も共産主義イデオロギーもきちんと理解していない層があったからです。
私もそのグループのリーダーに選ばれ、中央アジアのトルクメン共和国のアシハバードへ派遣された。私は生っ粋のロシア人で、ロシア中部生まれ。中央アジアには一度も行ったことがない。そういう私がトルクメン共和国へ派遣されることになったんです。ま、仕方ないから行きましたけど、あのとき私は22歳で、現地では自分よりはるかに年長の人たちを指導していたんです。
私が政治指導した人というのは、たとえば向こうのトルクメン共和国の閣僚とか、そういう偉い人でした。しかし、私はいろいろな資料を読んで、各事業についての知識もちゃんと準備していきましたから、困ることはなかった。私はもともと年齢以上に若くみえますからね。当時は髭もはやしていなかったから、なおさらです。ずっと年長の同僚たちに尊敬されるためには、勉強し、多くの知識を仕入れるのは当然でした。
一年か一年半ほどして、私は今度はドンバス地方へ派遣されました。そこのアルチョモスキー地区で、プロパガンダ活動を一年半ぐらい続けました。そこに滞在している間に十月革命の十周年記念日が近づいてきた。地方の党機関の人たちは、モスクワからきた党員である私に敬意を払い、革命記念日の式典ではあなたが基調報告を行なってください、という。その地方の党組織は人数が多く、筋金入りの共産主義者ばかりで、しかもみんな私より年上ばかり(笑)。ですから私は入念に準備して、基調報告を行ないました。
よくおぼえています。あのときのこと。非常に広い会場に、たくさんの人が集まっていた。ほとんどの人は私より年上で経験があり、たいていは内線に参加して戦功をたてた英雄ですよ。私は徹夜で基調報告をつくって臨んだのですが、あれは我ながらうまくいったと思いますよ。みんな拍手してくれましたし。
でも、終わってから、党組織の仲間の一人が私に近づいてこう言ったんです「あなたの演説はたいへん素晴らしかったが、欠点がひとつあります」
私があおざめて、「どんなところですか」と聞き返すと、彼は笑ってこう言いました。「あなたがたいへん若くみえることです。それだけが欠点です。髭でもひとつはやしたらどうですか」(笑)。
それはまあ冗談でしょうけど、党中央委員会の赤い教授大学に入れるようにあっせんを頼みました。昔は、そういう名前の大学があったんです。社会科学を中心に高等教育を施す大学ですが、もちろんそこへは簡単に入れない。論文を書かなくてはいけないし、筆記試験もある。しかし私はすべての試験に合格して、1929年にその大学に入学し、3年間勉強しました。ソビエト政権のおかげで私はいろいろなところで教育を受けられ、自分の可能性がのばすことができたんです。もちろんそれは、私だけが特別なのではなく、他の、私のような労働者階級出身者のためにも門戸が広く開かれていました。奨学金をもらうこともできましたが、私の家庭は金持ちではなかったから、自力では私の教育費を出せなかったので、休暇を利用してアルバイトをしました。もちろんたいしたカネにはなりませんが、生活しながら勉強することはできました。ですからソ連の若い人は当時から教育の機会は充分に与えられていたのです。
たとえば1928年には、党員で技術大学の学生には、抽選で1,000人に、プラスアルファの奨学金が支払われるという決定がなされました。その千人の党員はだいたい家庭もちで、年は25から27歳くらい。彼らの多くは、のちになって優れたエンジニアに成長しました。もちろん、私の在籍した赤い教授大学からは、数多くの政治指導者や学者が生まれたことはいうまでもありません。
素朴な疑問をひとつした。
何を学んだかはともかく、ずいぶんと「勉強」したことはたしからしい。だが、いくら「勉強」したとはいえ20代前半の若者が40代、50代の、自分よりはるかに年長で、人生経験も実務経験も豊かな政治家や官僚、企業経営者らを「指導」する気分というのは、いったいどういうものなのだろう。不安はなかったのだろうか。彼らの前に立ち、高見から指図を下す特権が自分にあると信じられるその根拠は、いったいどこにあったのだろうか。
それはやはり、自分の仕事ぶりです。私は自分の仕事ぶりで他人に教える権利があると思った。それだけで立証することができると思いました。もちろん、自分がよって立つイデオロギーが絶対的に正しいという確信があったことはいうまでもありません。私は彼らより、社会科学をよく勉強し、よく知っていたという自負がありました。それをプロパガンダする権利があったと思います。
とはいえ私は、指導するときには、「マルクスいわく、うんぬん」などというバカなマネは絶対にしなかったですよ(笑)。もっと具体的なテーマを、具体的に話しました。たとえばドンバス地方にいたときには、ソ連共産党第14回大会で、ソ連の工業化の推進というたいへん大事な決定がくだされ、それを受けて私たちのプロパガンダ・グループは、工業化は重要な路線であるということをプロパガンダしはじめたわけです。その場合、レーニンの論文からいろいろ引用もしましたが、常に具体例をあげて事情を説明しました。のちには、私は自分でも論文を書くようになったんです。
赤い教授大学を卒業してからすぐ、私はその大学の副学長に任命されました。1933年、28歳のときです。学生からいきなり副学長になったんです。どうしてか? たぶんここが(自分の頭を指さす)、良かったからでしょう(笑)。その学校は大学といっても、大学院のような性格をもっていました。勉強していた学生の大半は30代。入学するためには党歴が10年以上、党活動家としてのキャリアが5年以上必要でした。
党歴と、党活動家としてのキャリアの違いについて、ここで確認のために問いただすと、インタビューにずっと同席していた40代前半と思われる目つきのするどい党官僚が、言葉をさしはさんだ。
「10年の党歴というのは、入党してから10年以上経過しているということで、党の専従の活動家として5年以上活動したことがある、という意味です」
流暢な日本語である。あとで聞くと、新聞特派員として日本に数年滞在していたことがあるという。インタビューをサポートするお目付け役なのだろう。彼は「アパラチキ」という響きが、最近のソ連ではいい印象を与えないことに神経質になっていて、私が「専従の党活動家というのはつまり、アパラチキということですね」というと、「アパラチキというのはあまりいい言葉ではない」と、小さくふんと鼻を鳴らして笑った。「アパラチキという言葉は、日本とアメリカが発明した言葉ですよ」
失礼しました(笑)。アパラチキという言葉は、それでは日本語だろうか、英語だろうか。彼に聞きもらしたのは、今となっては残念ではある。
副学長としての仕事は、1939年まで続けました。学長は、ボリシェヴィキの大学OB。彼はしかし、いわばパートタイマーで、実際にはほとんどすべての仕事を私たちがやりました。
1935年の夏には、コミンテルンの第7回大会が開かれました。この時分のコミンテルンの指導者はブルガリアの有名なコミュニストであるゲオルギー・ディミトロフです。聞いたことありますか? 彼は反ファシストの戦いで非常に名高い人です。ヒットラーが政権の座についたとき彼は、ドイツで地下活動をやっていた。ヒットラーがどういうふうに政権をとったか。議会の放火事件があったとき、彼はそれを共産主義者のせいにしたでしょう。その証拠としてディミトロフはじめブルガリア共産党員と、ドイツ共産党の中央委メンバーひとりを逮捕したのです。そのライプチヒの手紙は、よく知られています。しかし彼らが放火したと証明できなかった。ディミトロフらは牢獄で鉄の鎖につながれ、裁判は3ヵ月続きましたが、しかし彼は法廷ではっきり自分の主張をしました。自分を弁護するというより、ナチスの非道を訴えたのです。まず彼は、彼をはじめとして被告とされている者は絶対に議会に火をつけていないと断言し、その犯行はヒットラーの代理人がやったと証明してみせたのです。勇気あるふるまいをみせました。勇気があるだけでなく、頭もよかった。彼は裁判の前に、ヒットラーとへーリングが法廷に出頭するように主張したのです。あの裁判は公開されていましたから、仕方なくへーリングは裁判長の召喚に応じ、ディミトロフとへーリングの討論が実現したのでした。
ディミトロフは激しくせめたて、そのためへーリングはカッと頭にきて、大声をあげて怒りだしました。それをみてディミトロフは、なぜあなたは怒るのですか私の質問がそんなに怖いのですか、と聞いた。その言葉は全世界に知られる有名な言葉となりました。
問題はそれが、公開の法廷だったということです。ナチスは議会に放火した共産主義者は犯罪者だということを世界に印象づけたかったわけですが、才能があり、勇気あるディミトロフの行動によって、ナチの陰謀は失敗してしまったのです。
あとでディミトロフは、ソ連国籍をとりました。当時のブルガリアはファシストが政権をとったので、国内にとどまれなくなったのです。彼はモスクワに移り、コミンテルンの活動をして、第7回大会で指導者に選ばれたのです。当時はコミンテルンのための全体的活動の新しい戦略をつくりださなければいけない時期で、世界中の共産党の指導者が参加しました。もちろん、野坂参三をはじめ日本共産党からも参加者がありました。私にはコミンテルンに参加する義務はありませんでしたが、ディミトロフがソ連共産党に彼を補佐する優秀な党員が数人ほしいと頼み、私が中央委に呼び出されたわけです。私は党の規律に従い、コミンテルンで仕事をはじめました。当時の最重要課題は、全世界のすべての共産主義勢力と反ファシズム勢力を結集させることでした。すでにヒットラーは政権の座にあり、積極的に戦争準備をしていましたので、それをなんとか抑えこまなくてはならないと社会党や社会民主党をふくむすべての反ファシズム勢力に警戒を呼びかけました。
フランスやイギリスは、もしヒットラーがヨーロッパで戦争の口火を切るなら、まず最初にソビエトを攻撃するだろうと考えてコミンテルンの呼びかけに冷淡だった。しかし、実際にはヒットラーはフランスやイギリスを攻撃したわけです。まずチェコを裏切り、フランスやベルギーを破り、イギリスと戦い、そののちソビエトに侵入したわけです。
なぜか。コミンテルンは反ファシスト的プロパガンダを、ヨーロッパ各国に繰り広げていました。それに対し、ドイツ、イタリア、日本は三国同盟を結び、反コミンテルン条約を締結して対決の姿勢を強めると同時に、ヒットラーは共産主義者から世界を守るために戦争の準備をしていると宣伝していたわけです。要するに西側諸国を怠り、そのために大きな犠牲をだしてしまったのです。
思えば、たいへんつらい戦争でした。たいへんつらかった。ソ連側の犠牲者が多かったのには、スターリンのミスもありました。ヒットラーがソ連にもうすぐ侵攻するという情報がたくさん彼の手元に届けられていたんです。ゾルゲの名前をご存じですね。彼も日本で、ドイツがソ連へ侵攻するという情報をつかんで本国へ報告していました。スターリンは、しかしそういう情報を信用できなかった。その理由はわかりません。今もなお謎のままです。
戦争の始まる一カ月前に、ソ連政府は声明を発表しています。
ソ連ではドイツがもうすぐ侵攻してくるという噂が飛んでいるが、それはソ連とドイツを衝突させようとするための挑発であって、事実ではない、というその生命は、明らかにスターリン自身がつくった文章でした。それはタス通信を通して国内はもとより全世界に配信されました。ソ連人は、軍人も一般市民もみんなスターリンのこの言葉にだまされ、戦争に対しての備えが甘くなり、結局緒戦で大きな被害をこうむってしまったのです。
あのとき、コミンテルンにいた私は、ディミトロフの直属の助手として働いていました。当時は外国からの情報は、一般の人にはもちろんのこと、共産党員に対しても公開されず、すべてスターリンのもとへ集中していました。そのときは在ベルリンソ連大使館も情報収集をしていましたし、国防委員会も軍事情報を集めていましたが、それらはすべてスターリンが一手に握っていたのです。ですから当然のこと、私もくわしい正確な情報は入手していません。しかし、政治的情勢の進行プロセスから、だいたいの見当はついていました。
私はあの頃、ファシストに反対するプロパガンダ活動の一環として、いろいろな記事を書いていました。それらの記事はすべて私の個人全集におさめられています(本を一冊取り出してみせる)。これは私の全集の第一巻です。81年に刊行されたものなので、今は手に入れることはできません。
ここに41年7月30日付の私の論文がある。戦争が始まってから一番はじめに書いたもので、タイトルは「完全に組織して注意を怠るな」というものです。この記事をはじめ、私が書いてきたことは、まず、ファシストと妥協しようとした日和見主義者の失敗について。そしてフランスでもチェコでもオーストリアでも、ヨーロッパ諸国において反ヒットラー運動が高まりつつあるということ。我々ソ連人民も反ヒットラー戦線に結集しなくてはならない、そして我々の団結の旗はレーニンである、ということ。
我々のプロパガンダは、まずはもちろん『プラウダ』を通しておこなわれ、そのほか外国の新聞にも記事を送りました。それからラジオですね。公式、非公式あわせて、国内外に放送をしました。非公式というのは、ヒットラーの占領下にある国々には、公式的な手段でプロパガンダをおこなえなかったからです。
さて、43年に入るとコミンテルンはスターリンによって解散させられ、私は党中央委員会国際部の部長となりました。その後、61年からは国際問題担当の中央委員会書記として選ばれ、86年までずっとそのポストについていました。それと同時に、ソ連最高会議の外交問題委員会の委員長にも選ばれた。これはなかなか重要な仕事でした。最高会議の代表団としてアメリカ、フランス、イタリア、スペインなどに出かけて各国の要人と会談したりしたものです。アメリカのニクソン大統領とも会いましたし、レーガンとも。あの頃レーガンはまだカリフォルニア州の知事でしたね。2回目の渡米のときは、カーター大統領の時代でした。米議会にも我々は行きまして、向こうの議員と討論したものですよ。でも私はいつもきちんと勉強しているから、難しい政治討論でも決して負けることはなかった。米議会といえば西側の民主主義諸国、キャピタリズムの諸国の総本山ですからね。そこで、激しい討論をしたんです。
私はこう言った。ソ連という国はアメリカに対して戦略的な計画も意志もないこと。我々は外国の領土を必要としていないこと。ソ連が他国の領土を狙って拡張主義的な戦略を練っているというプロパガンダがなされているが、それは正しくない、そのプロパガンダを実証する証拠はどこにもないこと。ですから、我々はすべての核兵器を禁止しようではないか。核兵器だけでなくすべての化学兵器を全廃しようではないか、という提案をしたのです。
面白いエピソードがあります。ちょうどワシントンにいたとき、キッシンジャー国務長官の報告がありました。彼は、ソ米両国は全人類を何回も全滅させる核兵器を持っている、というのです。その翌日、アメリカのある議員と会ったときに、私は「アメリカの国務長官もこういう報告をしているのに、今さらどうして新しく核兵器をつくる必要があるだろうか」と言ったんです。その議員は反論できなかった。
私は、ですから常に新しい核兵器の生産に反対し、平和のために戦ってきたわけです。数年前、外交委員会の委員長のときには、最高会議の総会で全世界の国民および議会へのアピールを読みあげました。その中で私は、ソ連や東側諸国にしても西側諸国にしても、もはや互いに戦争をする意志は毛頭ないと明らかにしたんです。86年のウィーンにおける社会主義インターナショナルの大会に参加したときも、同様のアピールを行ないました。私たち、世界中の社会主義と社会民主主義勢力は、あらゆる軍拡競争に反対し、反戦運動を結集してともに平和のために戦おう、と訴えたのです。
私は長年にわたり党中央委の国際部で仕事をしたのですが、一貫して平和のために戦ってきました。その過程で多くの人物と知り合いました。フランスの原子物理学者で平和運動家のジョリオ・キュリーとか、イギリスや日本の反戦運動指導者とも一度ならず会い、親しくなりました。名前は……忘れました。私は日記をつけていないから。
そして現在は、平和のための闘争の新しい段階が訪れたと思います。85年のはじめごろゴルバチョフ書記長が、2000年までにすべての核兵器を廃絶しようというアピールを出したんです。新思考外交として有名になった新しい外交路線を、我々ソ連共産党は積極的に実行に移しているのです。
新思考という言葉そのものを、初めて口にしたのはアインシュタインです。核兵器ができた時代には、人間は考え方を変えなくてはいけないと彼は言っていた。我々はその新思考という概念を基礎にして、すべての国々との新しい関係を築こうとしている。国家間の関係では、暴力の行使とか、核兵器の使用は絶対に禁止すべきであるという外交路線です。ごぞんじのとおり、この分野では大きな成功をおさめており、ヨーロッパにおけるソ連とアメリカの中距離核ミサイルが廃絶されましたし、長距離核ミサイルの削減交渉も進んでいます。また、ソ連は一方的に大規模な兵力削減をおこないました。
にもかかわらず、ここで日本についていえば、日本が今でも軍拡を続けており、年々軍事費が高くなっていること、これは実に残念なことです。全世界で軍事力が削減されているときに、日本は逆の道をたどっている。ソ連は極東地域では兵力をかなり減らしたわけです。中ソ国境からは20万人の兵隊を、モンゴルから30万人の兵隊を撤退させました。ソ連は口先だけでなく、実際に兵力を削減することで、行動で示しているわけです。そういうときに日本の軍事費が高くなっていくことに、私たちは驚かざるをえない。
もちろん、私たちはソ日両国の首脳が話し合いを重ね、両国の関係が改善されることを期待しています。もちろんです。私自身も、両国の関係の改善を支持しています。そのために必要な条件もすべて整っていると思います。
ソ連のマスコミでは、日本で達成された偉大な技術的・経済的成果について、しばしばとりあげられてきました。短期間のうちにたいへんな成長をとげた日本を、我々は素直に評価しております。ソ連ではまだまだそこまで到達していない。もちろん経済的側面だけでなく、日本の政治的な動向も、ソ連のマスコミで取り上げられております。ですから、我々はソ日が対立する政治的、軍事的な理由はないと申し上げているんです。
北方領土問題? いや、何も秘密ではないですよ。ソ連指導部の公式見解は、サンフランシスコ条約によって北方領土問題は解決ずみである、ということです。私も、指導部と同じ意見です。
将来のこと? 私は予言者ではありませんからね。問題は我々の国の間の善隣的関係の構築を邪魔してはいけない、ということです。ノーマルな関係の発展のために、私たちの間には共通点もたくさんありますから、北方領土問題はおいといて、まず共通点から我々の関係の改善をはじめるべきだと思います。
ゴルバチョフと西ドイツのコール首相の話し合いを思い出して下さい。ドイツをソ連は激しい戦争をしましたが、それは昔の話です。今は時代が違う。ソ連と西ドイツの関係改善は、劇的に進行しているじゃないですか。ヨーロッパ共同の家の構築と、アジア共同の家の構築は、同時に進められるべきです。
北方領土問題について、日本共産党が強硬な主張をしていることは知っています。我々の友人であるべき日本の共産主義者が、日本の民族主義的精神をあおりたてている。こういうことわざがあります。『ローマ法王より筋金入りのカトリック教徒になりたい信者もいる』。今と同じケースです。北方領土問題について、それが両国の相互利益にもとづいたノーマルな関係をつくることに少しも障害にならないという論文を、今後たくさんつくることもできます。
あなたとここで、北方領土問題について議論しても仕方がありません。ただひとつ申し上げたい。私は約15年前、日本へ行ったことがあります。ソ連最高会議外交委員長としていろいろな政治勢力の指導者と会いました。日本共産党の代表者とも、自民党の実力者とも会って話しあいましたが、そのとき日本の政治指導者はまったくこの問題を口にしなかった。誰もまったく言わなかったのです。これは嘘ではありません。
最近は、あなたがおっしゃるとおり、自民党から日本共産党まで、すべての政治勢力が北方領土返還を主張していること、そして日本の国民の世論のほとんどがそれを支持していることを私は知っています。しかしプロパガンダの専門家である私に言わせてもらえば、これはソ連などよりよほど、日本のほうがプロパガンダがうまく行われたということの結果です。日本国民の頭の中に徹底的にこの問題を繰り返し叩きこんで世論を形成した結果でしょう。プロパガンダの勝利です。たいしたものです。
ソ連についていえば、政治指導部の姿勢がやわらかくなってきたのは事実です。従来通りの見解に、必ずしもこだわらないかもしれません。それは今後の両国の交渉の経過を待ちましょう。
最期の質問は、過去から現在までのソ連指導者の評価ですか。まあ、それについてもソ連共産党第27回大会においてゴルバチョフがおこなった基調演説のなかで、すでに評価がおこなわれていると思います。それにつけ加えることがあるとしたら、フルシチョフのことでしょうか。フルシチョフは第20回大会において、スターリンの個人崇拝を批判しました。それはたいへんな英雄的行為だった、正しい行為だったと思います。スターリンは筋金入りの共産党員を無実の罪で次々と粛清していきました。スターリンのしてきたことを暴露し、亡くなった人の名誉回復に道をひらいたこと、そしてベリヤを裁判にかけたことは、フルシチョフの功績です。秘密警察の長官で数多くの人間を粛清してきたベリヤは、スターリンのパペット(あやつり人形)でした。
最近、フルシチョフの回顧録が出版されましたが、たいへん興味深い。彼の人生で最も偉大な業績は第20回大会の報告であると思いますが、他にはミスも多かった。たとえば農業問題。彼は農民に自留地を与えることに反対し、そのため農産物の生産が落ちてしまった。そういう誤りはいっぱいあったと思います。
ブレジネフは、フルシチョフほど目立つ人間ではありませんでした。彼は独ソ戦争に最初から参加し、最期まで戦った勇敢な人物でした。しかし政権の座につくと、独断が多くなり、ソ連の国民生活のあらゆる分野で発展がストップしてしまいました。ブレジネフが書記長の時代を一般に停滞の時代と呼ぶことはごぞんじでしょうが、これはまったくうまい言葉だと思います。
現在は、まったく新しい時代を迎えつつあります。ゴルバチョフ書記長は、第28回党大会において、ソ連国民の生活を改善するためのプログラムを発表しました。あとはこの大会において決められた課題を実行に移すことです。ゴルバチョフは権威のある指導者ですが、指導者だけが頑張っても何も変わらない。国民すべてが行動をおこすこと、それが改革を成功させることにつながると思います。