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「潮」 1991.Mar.

ペレストロイカとコンピューター

宇宙飛行をする技術がありながら食糧危機に陥る真の原因は?





「ソ連という謎」を考える契機


 日本人はもう、秋山さんのことを忘れてしまったのですね、と、先日モスクワからやってきた友人があきれたようにそう言った。日本人初の宇宙飛行士・TBSの秋山特派員のことである。国家テレビラジオ委員会で働くジャーナリストの彼女は続けて言う。
 「ソ連人は、ガガーリンのことを今も忘れていないというのに……」
 日本人にとっては、あれはあくまで一過性のお祭りイベントにすぎないものだから、忘れられていくのはある意味で当たり前のこと。自主技術で国産ロケットを開発し、打ち上げに成功したわけではなく、ただ一回分のフライト・チケットを買ったにすぎないのだから、ソ連国民にとってのガガーリン体験とは比べようがない。感動の深さや質が全然違う。
 日本人の忘れっぽさについてそう弁明しながら、つけ加えて、僕は彼女にこのようなことを言ったように思う。
 金余りニッポンにとっては、あのイベントは脳天気な80年代最後の打ち上げ花火のようなものだった。しかしそれを可能にしたのは、50億円というジャパン・マネーの威力だけではなく、まぎれもなく、ソ連の宇宙開発の技術力・組織力の底力である。にもかかわらず、そのテクノロジーの水準と、それを支えるシステム、背景にある社会構造について、誰も深く言及しようとはしなかったのは残念なことだ。日本人が「ソ連という謎」について考えるいい契機となったはずなのに。なぜあのソ連で有人宇宙飛行が可能だったのか。そして経済が破綻した現在でもなお、それが可能なのか−−。
 「ソ連軍がリトアニアで武力行使」というニュースに接して、僕はいま、あらためて彼女との会話を思い出している。
 この数カ月間、モスクワの食糧不足がいかに深刻な危機的状況にあるか、われわれはいやというほど聞かされてきた。しかし、こうしたソ連からの消息にふれて、いぶかしむ人も少なくないだろうと思う。国土は日本の60倍、豊かな穀倉地帯を抱え、天然資源にも恵まれている。そして、やすやすと有人宇宙飛行を可能にするテクノロジーもある。そんな国の国民が、まともに肉やパンを手に入れられず、石鹸や下着にも事欠くというのはどういうことか。
 原点に立ち返ってみよう。ゴルバチョフは87年に上梓した『ペレストロイカ』(講談社)の中で、こう書いている。
 「ある時点で−−これは70年代後半にとくに顕著になってきたのだが−−一見どう説明したらいいかわからないような事態が出現した。わが国が活力を失いはじめたのだ」
 「鉄鋼、原料、燃料およびエネルギーの世界最大の生産国において、それらの資源が不足しているというばかげた事態が出現している。資源を浪費し非効率的に使用したためである。食糧用穀物の最大の生産国の一つでありながら、年に何百万トンという資料用穀物を輸入しなければならない」
 「わが国のロケットは、驚嘆すべき正確さでハレー彗星を追跡し、金星にまで行くことができるのに、こういった科学技術の成果を経済活動に効率的に役立てるという面では明らかに遅れをとっており、ソ連製家庭電化製品の品質は劣っている」
 つまり、現在の経済カタストロフィーは、ゴルバチョフ登場以前からすでに始まっていたプロセスなのである。今さらながらこのことをもう一度思い返す必要がある。ペレストロイカという「上からの革命」は、バルトへの武力行使によって決定的なピリオドを打った、といえるだろう。しかし、「ゴルバチョフのペレストロイカ」は終わっても、それを必要とした社会的な条件は今も昔も変わってはいないのだ−−。


レーガン大統領への公開書簡


 ペレストロイカが起こった原因は、決してゴルバチョフが登場したからでも、共産党の善意でもなく、それはコンピュータリゼーションと情報化、新しいテクノロジーの開発によって、情報を独占することが不可能になったことが大きな原因である−−。
 かつてレーガン大統領(当時)に公開書簡を書き、ソ連国内の雑誌に発表した人物がいる。
 ステファン・パチコフ。大物政治家でも高名な反体制知識人でもない。「パラグラフ」という、コンピューター・ソフトの協同組合(コーペラチフ)の経営者である。彼にいわせれば、ペレストロイカとは、テクノロジーと情報化によってもたらされたある種の文明史的必然、ということになる。1950年生まれ、大学で数学と経済学を専攻、89年までは科学アカデミー付属中央数理経済研究所の研究者だった。
 気さくな人物である。モスクワ市内の古びた建物に間借りしているパラグラフ社をたずねたときも、ポロシャツにジーンズという軽装であらわれて、にこやかに僕の手を握った。二重扉の広いオフィスに大きな机をかまえ、レーニンの肖像画をバックにして反り返り、慇懃無礼な応対に終始する共産党官僚などとは違う、新しいタイプのリーダーである。
 もともとはコンピューターの専門家ではなかった。6年ほど前、パソコンを手に入れた友人が、その使い方について彼に相談を持ちかけたのが、コンピューターと関わる最初のきっかけとなった。ずぶの素人だったが、それを機会に西側から関連文献を取り寄せて独習をはじめ、のめりこんでいくうちに、行き詰まりにあえぐこの国の社会改革は、コンピュータリゼーションと切り離してはありえないと深く確信するようになった。


「テトリス」のパラグラフ社


 「私に転機が訪れたのは、88年の初頭だった」と、ステファンは言う。
 「『科学技術の進歩』紙に、『われわれは何をなすべきか』という論文を発表して、ソ連社会が落ち込んでいる停滞の”深い穴”からいかに抜け出ることができるか、そのためにコンピュータリゼーションはどのような展開がありうるか、自説を展開したところ、思いがけない大きな反響がありました。数多くの経済学者、コンピューター技術者などから共感の声が寄せられ、それがパラグラフ社の設立に踏みきるジャンピング・ボードとなったのです」
 ステファンと彼のパラグラフ社は、幸運なスタートを切ることができた。彼の学生時代の恩師である経済学者のアベル・アガンベギャンを取締役会長に、副会長にはチェスの世界チャンピオンのがスパーロフを迎えて、同社が発足したのが1985年6月。アガンベギャンは、ゴルバチョフの経済改革ブレーンの一人であり、がスパーロフは、国民的英雄であると同時に、民主化を訴える在野のイデオローグでもある。社会的影響力・発言力のある人物を後ろ盾にして、時流にも乗ることのできたパラグラフ社は好調な滑り出しをみせ、89年の決算では、各種ソフトの売り上げによって20万ルーブルおよび7万ドルの黒字を出すことに成功した。90年の決算はまだ出ていないが、国内向けソフトの売上高は約120万ルーブル、外国向けソフトの売上高は、おそらく100万ドルを超えるだろう、という。その中には、コンピューター・ゲーム・ソフト「テトリス」の売り上げの一部も含まれている。88年から90年間にかけて、全世界で400万本もの驚異的なセールスを記録したゲーム・ソフト「テトリス」の作者、アレクセイ・バジトノフは、89年までは科学アカデミーのコンピューター・センターで人工知能の研究にたずさわってきたが、90年に入ってから退職し、パラグラフ社に籍を移した。今後はゲーム・ソフトに加え、さまざまなコンピューター・ソフトの開発を手がけるつもりであるという。社会全体のコンピュータリゼーションは遅れていても、個人レベルでは、彼のような優秀なプログラマー、エンジニアは決して少なくはないという。
 パチコフの同業者、ライバルは少なくはない。パラグラフ社のようなコンピューター関連のコーペラチフは、ペレストロイカ以後、雨後のタケノコのように出現した。そのレベルはピンからキリまである。西側の安物のパソコンを転売して利ザヤを稼ぐだけの、性質のよくない、犯罪組織すれすれのもあれば、「ダイアローグ」社や、「インテルクワトロ」社のように、ソフトを自主開発する力のある組織もある。しかし、とパチコフは自信ありげにいう。
 「大半のコーペラチフは、外国からコンピューターを輸入し、国内市場で販売する商社的性格のものばかりです。たしかにソフトを開発している会社もいくつか存在しますが、それらは国内市場がメインのため、稼いだおカネは国内で回流しているにすぎない。それに対してわが社の方針は、自社製品を海外市場で売り、外貨を獲得することです。国内で10万ドル稼ぐより、海外から1,000ドル稼ぐことのほうが、困難ではあるが価値がある」


世界と互換性のある国


 時代の変数を巧みに読みとり、利潤を稼ぐだけのビジネスマンには終わりたくない。パラグラフ社を在野の科学技術センターとして育てあげ、ペレストロイカにいくばくかでも貢献したいと彼は言う。自らたのむところがあるのだろう、穏やかな口ぶりながら、次第に熱を帯びる彼の言葉と表情には、なにやら幕末維新の憂国の志士を思わせるものがある。その意気が、たとえば先述した<レーガン大統領への公開書簡>のような形をとってあらわれる。
 「私が訴えたいのはこういうことです。つまり、先進諸国におけるテクノロジーの進化こそ、ソ連にペレストロイカをもたらしたのだということ。この点が、私と、他のペレストロイカ支持者との観点の違いです。西側諸国とソ連のコンピュータリゼーションの格差は圧倒的です。もしソ連が世界の技術進歩に遅れまいとして、電話、ファックス、コピー機、パソコン、モデムなどの、発達した情報伝達・記憶保存機器を導入して、技術革新をはかり、先進国の仲間入りをしようと思ったら、必然的に政府は情報の独占管理を放棄せざるをえなくなる。こうした技術革新の世界的な趨勢の中で、ソ連には二つの選択肢があった。ひとつは外界から、技術進歩から、エレクトロニクスの情報機器から自らを閉ざして、大きなアルバニア、大きな北朝鮮になることです。もうひとつは、正常な国になること。つまり、世界の趨勢にしたがって情報化社会に移行することです。そして、結果としてゴルバチョフ政権は後者の道を選んだわけです」
 情報化、ハイテク化は、情報・イデオロギーの独占とは決して相いれない。よく知られた話だが、ペレストロイカ以前のソ連では、当局による電話の盗聴が頻繁に行われていた。いまも完全になくなったわけではないだろうが、市民のあいだにある猜疑心や恐怖感は最近では随分薄らいだ。しかし、OA機器は、まったく普及していない。コピー機をほとんど見かけることがないのは、長い間、その設置が当局の厳重な管理下に置かれてきたからである。機密書類の漏洩や、地下文書(サミズダート)の発行に利用されるのを極度に怖れていたためであろう。だからむろん、ファックスなど、めったにお目にかかることはないし、データ通信も、双方向性のニューメディアも今はまだ夢のまた夢である。
 「そう。共産党は情報を独占することによって、その支配を貫徹させてきた。ですから、情報化社会への移行は、従来の共産党政権のようなふるまいが不可能になるということです。ペレストロイカの一連の民主化政策やグラスノスチは、そうした政治的決断が生んだ必然的な結果なのです。ソ連のおかれている苦境を脱するためには、ゴルバチョフはこうした道を選ぶほかはなかった。いいかえれば、アメリカ、日本をはじめとする先進コンピューター大国の存在によって、ソ連という国の正常化のチャンスが到来したともいえる。コンピューター用語を借りていえば、ソ連は『ワールド・コンパチブル』、つまり世界と互換性のある国になろうとしている。また、そうならなければいけないんです。
 経済と情報の両面において鎖国していたソ連が、西側の発達したコンピューターや各種エレクトロニクス機器という”黒船”の出現によって、マルキシズムの夢からさめ、開国をいやおうなくされた、ペレストロイカとはつまりどうも、そういうことであるらしい。
 あの寒い国で、ペチカのように熱く燃えている”憂国の志士”は、ビジネスとは別に、ソ連科学アカデミーの有志と協同で、ソ連におけるコンピュータリゼーションの構想づくりに没頭している。まとまれば、具体的な政策提言もしていく予定である。その他にも、経済改革についての論文執筆、あるいは世界のコンピューター事情についての講演、子どもたちのための無料コンピューター・クラブの開設と、休む暇もない。「絶望は愚か者のすることだ」という格言を口にする資格を、彼のような人間は十二分に備えている。


ソ連版FBIの嘆き


 話は少しそれる。
 ソ連の国民生活レベルにおける電子情報化、コンピュータリゼーションの立ち遅れについて例を出せばきりはないが、ひとつだけ印象的なエピソードを紹介したい。「全体主義的管理国家」と、わが国でも長年喧伝されてきたソ連の警察力、とりわけその情報収集と処理能力のおそまつさについて。
 90年の4月、グルジア共和国の首都トビリシであった内務省組織犯罪取締局の特別問題捜査官の話である。彼の実名は、職業上の都合もあって伏せる。仮にIとしておく。
 組織犯罪取締局とは、近年急速に規模を拡大し、凶暴化してきたマフィア組織に対抗するために、新たに米国のFBIをモデルとしてつくられた、中央直轄の強力な対暴力組織専門機関である。
 エリート捜査官のひとりであるIは、しかし会うなり開口一番、マフィアの対策は困難を極めている、何よりもまずわれわれの設備はひどすぎる、と慨嘆した。
 「マフィア対策の第一歩は、まずとにかく情報です。社会の表に出ている日本のヤクザなどと違って、ソ連マフィアは地下に潜っている。操作以前に情報を集め、分析しなくてはならない。しかしそのための装備があまりに貧しいのです」
 情報の収集と分析、データの管理の手段は、まったく電子化されていない。過去のデータは書類としてストックされているだけで、検索するにはひどく手間がかかる。加えて各共和国間の連絡はきわめて風通しが悪い。たとえばある共和国で起きた犯罪の捜査のため、別の共和国の過去のデータにアクセスしたいと思ったとすると、担当官は何枚もの申請書を書き、おそろしく繁雑な手続きをへなくてはならない。犯罪に使われた盗難車のナンバーから持ち主を割り出すまでに、日本でならばコンピュータにインプットすれば5分ですむところだが、ソ連だと6カ月もその手続きのため待たされることもある。官僚主義の弊害といってしまえばそれまでだが、これでは迅速な捜査など現実問題として不可能である。
 「だから西側のようなコンピューター・システムが欲しい。キーボードを叩けばどんなデータにもアクセスできて、しかもソ連各地といつでも連絡がとれ、情報交換がスピーディーにできたらどんなにいいか……。でも国家はわれわれに投資をしてくれない。それだけ財源もないし、技術もない」
 ソ連版FBIは、しょぼくれた顔つきで肩を落とし、額に手をあてて、ため息をつく。
 ソ連は日本とは社会条件がまったく違う。国土は広大で、民族は100を超え、社会構成はきわめて複雑である。グルジアのマフィアが、中央アジアで麻薬を仕入れ、モスクワへもっていってさばく、そんな放埒なふるまいにおよんでいるときに、警察は横の共和国とも満足に連絡がとれずにいる。捜査の困難は、わが警視庁とは比較にならない。コンピューターを魔法の箱のように考え、万能視するのはいきすぎとしても、コンピューターと通信ネットワークの整備が急務という彼の主張には切実な響きがある。実際のところ、ごくごく日常的な業務にまで、テクノロジー不在の状態に彼らは悩まされ続けているのだ。
 「西側とは話にならないほど、われわれは遅れてますよ。だいだい自分の部下との連絡すらままならないんだから。事件が発生しても緊急配備ができない。パトカーに無線がそもそもない。無線装備があるのは交通警察だけ。仕方なくわれわれは自費で無線機をつけている。とぼしい給料の中からね」
 ところが敵のマフィアは、高性能の無線やトランシーバーを装備したベンツに乗っている。彼らが国産大衆車ジグリー(外国に輸出されるときの名前はラダ)で追いかけても、絶対に追いつけない。
 「ついこの間も、緊急の事件が発生して、トビリシから60キロ離れたところにいる部下に電話で連絡しようとした。ところが、ご存じの通り、ソ連ではまともに電話が通じない。『事件なんだよ!』と私が焦って怒鳴っても、オペレーターは『回線がいっぱいでムリ』とひと言。にべもない。そんな状態なんですよ」
 そんなありさまでは、緊急通報を受けてから現場に直行し、現行犯逮捕することは不可能ではないか。僕がそういうと彼は怪訝な顔をした。そんなことは当たり前だ、という。
 僕は日本の警察の、もっとも基本的な110番システムについて説明した。
 110番通報があると、警視庁や各県警のセンターにつながり、受信した人間がコンピューターに連結したボードの上にメモをとる。それが各部署に配置されたモニターに瞬時にうつされ、すぐ緊急配備が行われる。仮に事件が銀行強盗だとして、犯人が逃走したなら、情報は現場の最末端にまですぐ流される。逃走車のナンバーは各地に配置された自動車ナンバー自動読みとり装置にただちにインプットされ、自動的に通過車両をチェックする。犯人のモンタージュ写真は、目撃者の証言によってコンピューター・グラフィックスで映像化され、その日のうちにマスメディアに乗って全国に流される−−。
 「信じられない」
 Iは目を丸くした。
 「まるでおとぎ話だ。現行犯逮捕なんて、われわれには夢のまた夢だ。われわれは今まで、パプアニューギニアのレベルにいたんだな」
 信じられない、と、僕もまた口にしかけて、彼の肩を落とした姿を見てあわててのみこんだ。
 日本の警察組織のコンピューター化が著しくすすんだのは80年代に入ってからのことである。それは一方で、個人情報の集積をすすめ、プライバシー侵害や、管理社会の一層の徹底につながりかねないという批判をうんではいる。しかし、そんな懸念にとらわれるはるか以前から、110番にダイヤルすれば、パトカーが現場に急行する、それがごく当然のことと信じられている社会の中にわれわれは生きてきた。ソ連ではそんな常識すら通じない。西側におけるコンピューターと通信テクノロジーの爆発的進化のスピードに、なんとか遅れまいと追走するソ連のコンピューター・エンジニアの必死の努力は、こんな途方に暮れてしまうような荒野の中で行われているのだ。気の遠くなる話である。


ソ連のコンピューター開発史


 パチコフは、ある日本人の商社マンに、西側とソ連のコンピュータリゼーションの格差は永遠に縮まらないだろうと、面と向かって直接言われたことがあるという。酷なことを口にする人間もいるものだが、パチコフは「私もその通りだと思う」と冷静に言う。
 「ソ連がこの状態を脱するには、西側に追いつこうとするのではなく、世界のハイテク化、コンピュータリゼーションの中で自分の場所を見いだすしかない。パラレルマシン、トランスピュータ、プロセッサー、数理計算、新しい対話方式などのソフトを開発する、といった独自の道を見つけることである。すべての分野で西側に追いつこうとするのは、無駄で、展望のない、愚かな課題であると思う」
 しかし、とふりだしに戻ってみる。そうはいっても、独自に開発した技術で宇宙にロケットを飛ばし、核ミサイルや原子力潜水艦をつくりあげてきた国ではないか。フルシチョフなどは、スプートニクの打ち上げに成功したときには、高らかに社会主義体制の勝利を宣言したものだ。ある一時期までは、米国と肩を並べる科学技術大国だった、少なくともそう思われてきた。それがどうして、ここまで落魄したのか。
 その疑問を解く手がかりを与えてくれたのは、ソ連科学アカデミー付属情報問題研究所の、科学書記官ヴィクトル・ザハロフだった。パチコフよりひとつ年上の41歳。ペレストロイカを強く支持する改革派のテクノクラートである。ザハロフは、ソ連のコンピューター開発史について、長時間にわたり概説してくれた。
 彼によれば、ソ連が電子計算機の開発に本格的に着手した時期は、西側とそう変わらず、1940年代の後半だった、という。レベジェフ科学アカデミー会員の指導のもとに、ソ連最初の大型汎用機がつくられた。M1、МЭСМ(メスム)、БЭСМ(ベスム)の三機種である。
 「それらはすべてソ連国内での自力だけの開発でした。そして、それは当時、ソ連の計画経済システムの運営に貢献し、国民経済にとってたいへん大きなプラスをもたらしたのです。50年代に入ると、コンピューターそのものの開発に加え、コンピューターの産業への応用、工場などの生産手段の近代化にも役立てられるようになりました」
 第二次大戦後から60年代までの、ソ連の経済成長率はきわめて高かった。統計に水増しがあったにせよ、日本、西独をのぞいた西側の先進資本主義国の成長率をはるかに上回り、このことが「貧富の差のない平等な社会の実現」というイデオロギー上の幻想と相まって、世界中に”社会主義体制の優位”を印象づけることになったのは、周知のことである。
 ここで重要な問題となるのは、コンピューターと、経済効率性の関わりである。経済学市場有名な「計画経済論争」という議論が、1930年代に自由主義経済学者のミーゼスやハイエクと、社会主義的な計画経済体制の可能性を信じるランゲらとの間でたたかわされたことがある。そもそもマルクスに限らず、自由市場経済、資本主義経済の批判者たちはつねに、利己的な経済活動の野放図な放任は、資源の浪費、搾取などの社会的不公正、恐慌などの経済的混乱を巻き起こすとして、経済システムを中央集権化し、計画的なものにするべきだと主張してきた。これに対してミーゼスらは、市場なき計画経済は不可能だと批判したのである。市場は生産者と消費者が出会い、需要と供給のバランスを調整する装置である。それなくして経済メカニズムはなりたたない、というのが彼らの論旨だった。
 一方、バローネやランゲらの反論は、市場がなくても、計画経済システムにおける中央計画当局が市場の代行をして、需給関係のバランスをとればいい、それは理論的には可能だというものだった。
 理論上可能であるとして、問題はその実行可能性である。すべての資源、労働力をかみあわせ、合理的な経済計画を立てるためには数万本の連立方程式を解かなくてはならない。そのためには巨大なマザー・コンピューターがどうしても必要となる。30年代にはそれは夢物語に思われたが、テクノロジーの進歩はわずか20年も経たないうちに、それを現実のものとした。大型コンピューターの出現は、だから計画経済体制のリアリティーを一挙に高めたのであり、言いかえれば、ソ連の社会主義体制はどうしても巨大なマザー・コンピューターの開発を必要としたのだ。
 「ですが、その当時、妙なこともこの国では起こっていたのです」と、ザハロフは続ける。
 「ご存じでしょうが、50年代のはじめに、サイバネティクスは科学ではない、ニセ科学であると、党からイデオロギー的な批判を受けたのです。これは自動制御技術などの分野にとって大きな打撃でした。あの頃のソ連は、共産党員であろうとなかろうと、本当に社会全体がイデオロギッシュでした。あらゆることが、マルクス・レーニン主義の名のもとに、一方的に党によって価値判断されていたのです。アインシュタインの相対性理論がオカルト科学であると批判されたこともありましたし。おかしなことですが、事実、そんなことがまかり通っていました」


コピー路線に戦略転換


 ソ連共産党の自己正当化のプロパガンダは、今から考えると信じられないような内容のものばかりだった。西側における科学・技術上の発明・成果は、「ブルジョア科学」として退ける一方、科学誌の歪曲・改竄を平然として行って恥じない。そんなでたらめなプロパガンダがまかり通っていたのは、ひとつには科学、テクノロジーの進歩という、それ自体に自立性をもった運動がマルクス主義のイデオロギーの束縛を超え、逸脱していくのを恐れたためなのだろうか。いずれにしろ、50年代後半に入ると、内実はともかく、外見上は有効に機能していたかにみえた社会システムに、はっきりとした亀裂があらわれた。政治的には、1956年、フルシチョフによってスターリン批判が行われ、共産主義の神話の崩壊の第一歩が踏みだされた。そのフルシチョフも、ザハロフにいわせれば「理解に苦しむ」ような政策をうちだす。
 「62年にフルシチョフの命令によって、それまでは科学アカデミーに直属し、集約化されていたコンピューター開発の諸機関が、バラバラにされ、新しい官庁がつくられたのです。電子産業省、機械建設省など、いくつかの官庁に、研究者のグループは分散させられました。私はいまだによくわからない。フルシチョフという人は、ある面ではとても変な人でした。きっと何かの考えがあったんでしょうけど、結果的にはこの分散措置以降、ソ連のコンピューター研究は非常に遅れるようになったんです」
 分散と集中には、それぞれのメリットとデメリットがある。戦後日本におけるコンピューター開発は、国家の独占体制も、また特定民間企業の極端な寡占体制もとらず、数社が競合する形となり、結果としてその国内間の競争が、逆に市場における寡占のメリットを享受するIBMにも伍していけるだけの力を蓄える要因のひとつにもなった。しかし、市場における品質と価格の自由競争にさらされないまま、たんに分散させられただけのソ連のコンピューター・エンジニア・グループは、米国に対する競争力を失い、失速していく。
 「それからです。西側のコンピューターをコピーする路線をとるようになったのは。その頃から、追いかけごっこが始まりました。共産党のあるイデオローグは、当時こう言ってました。『われわれのコンピューターがもし、他国の機能より遅れていたら、すぐコピーしなくてはいかん。もしその機種がわからないなら、なおのこと、コピーしなくてはいかん』。笑い話(アネクドート)のようですが、これは本当です。苦い真実(プラウダ)です」
 計画経済体制の根幹、生命線でもある大型コンピューターの開発が、無計画の計画、ともいうべき自由市場体勢においてこそ進み、それをこっそりとコピーしなくては面目が保てないというこの皮肉な逆説−−。
 60年代初頭につくられたБЭСМ(ベスム)−6という機種は、ソ連コンピューター史上に残る傑作であるといわれている。大陸間弾道間から宇宙ロケットの軌道計算にまで用いられたこのコンピューターは、ソフトもハードもすべてソ連のオリジナルで、米国に宇宙競争で先駆けることができたのもこの機種のおかげであるという。しかし、БЭСМのラインはこの「6型」でピリオドをうった。ソ連政府が米国のIBMをコピーする路線に戦略転換してしまったためである。
 「このストラテジーは間違っていたと思います。ベスムのラインも放棄せず、続けるべきだった……」
 そういってザハロフは悔しそうな表情をみせた。科学アカデミーのコンピューター・センターには、この”名機”が今も稼働中であるという。そう遠からずのうちに天寿をまっとうするに違いない「彼」に、自身の運命を語らせたいものだと思う。後継者があらわれなかったばかりに、思いがけず30年も第一線で現役をつとめることになった「彼」こそは、ソ連の「栄光」の頂点と、その転落の一部始終の目撃者であるのだから。
 それはともかく、IBM360のラインのコピーが始まった。国際条約に入っていないことを理由に、IBMには一切パテント料を払っていない。ココムがまだなかった時代のことである。そして70年代に入り、今度はDECのラインをコピーすることにした。
 「今度はライセンスを買うつもりだったのですが、いざ商談に入ったところ、アメリカに拒否されたそうです。2年前に亡くなったナウモフ科学アカデミー会員から、私はそう聞いてます。彼はDECのコピーラインの設計者でした。『停滞の時代』、ソ連はそうやってコピーマシンを作り続けてきたのです。原則的には、こういうマシンはとても性能のいいものでしたけど、でも中央集権の政治システムのもとでは、効果的に機能していたとはいえなかった。なぜか。相互のつながりがないからです。西側の場合、社会のコンピュータリゼーションとは、コンピューターが双方向の通信ネットワークで結ばれて、それが有機的に機能している社会的な関係の網の目のことをさすのでしょう。ところがソ連という国は、中央からの指令を一元的に受けていくだけのシステムですから、生産や消費の現場の情報がフィードバックされないのです。あくまで、命令です。ジョージ・オーウェルの『1984』で描かれた、マザー・コンピューターに支配された管理社会、まさしくあの世界を、ソ連の共産党官僚はイメージしていたのです」
 巨大なコンピューターが誕生しても、結局のところ、中央集権的な計画経済システムはうまく機能しなかった。市場メカニズムにとってかわることができなかったからである。市場とは、モノやサービスを交換する場である以上に、情報を交換する場である。消費者の、気まぐれに移ろいゆくニーズ。生産者の現場におけるひらめきや工夫。社会の消費の現場や生産の現場に偏在するそうした情報の処理は、中央計画当局が消費者のニーズをあらかじめ予測し、計画を立案し、生産と流通の一切を統制することが困難になった。西側に対してさまざまな障壁を築いていても、ソ連にも消費社会の波はじわりじわりと押し寄せていたのである。


パソコン革命への出遅れと恐れ


 「決定的だったのは、70年代の半ばごろ、アメリカをはじめ西側でパソコンが登場したことです。私の考えでは、本当に社会がコンピューター化、電子情報化するのは、パソコンの登場以降のことです。パソコンの登場によってコンピューターが大衆化され、一人ひとりの人間、あるいはそれぞれの企業の情報処理能力が飛躍的に向上し、しかも横に連絡しあうことが可能になりました。中央の巨大なマザー・コンピューターが不要になったのです。これは革命です! すべてはアップルから始まった。残念なことにわれわれはビッグバンをみのがしてしまいました。しかし当時、ソ連の党官僚も学者もエンジニアも、このビッグバンに大きな関心を払いませんでした。こんな重大なことに!」
 ソ連の指導者たちが、ことの重大さに気づき、ようやく重い腰を上げたのは80年代半ば近くのことだという。この10年ほどの出遅れは、ソ連にとって大きなダメージになった。ソ連の現場のエンジニアは、制限された情報環境にあっても、もれ伝わってくる西側のパソコン革命の消息に地団駄を踏んでいたが、上層部からの指令なくしては、その研究に着手することはできなかった。
 「おそらく、党指導者たちは、パソコン革命を侮っていただけでなく、恐れてもいたのでしょう。一人の人間、ひとつの組織の情報処理能力が向上するということは、中央からの統制がしづらくなることですから」
 80年代後半、ラジオ産業省、電子工業省など、47の省でパソコンの開発が始められたが、今度はそれぞれがバラバラに開発したために、規格がまちまちとなってしまった。中央計画経済システムには、「集中」によって、開発コストの無駄を省くというメリットもある。ソ連が軍事力、宇宙開発力において優位性を示すことができたのは、資源や人材、資金の集中投下があったからこそだった。ところが、パソコン開発においては、各省庁間の権益争いのために、この集中のメリットをいかせなかったのである。協力体制もとれず、相互交流もなく、無駄に無駄を重ねることになった。
 おかしな話である。資本主義においては、商品は売れなければ廃棄される。したがって必ず資源の浪費をうむと、マルクスは『資本論』の第一章「商品論」で批判的に分析しているというのに−−。
 「いや、それがソ連の実状なんですよ」
 結局、各省庁間のパソコン利権争奪戦は、計画経済体制のもとでは官庁が、必然的に利権集団化することの見事な証明でもあったのだ。
 83年7月、アンドロポフ政権によって、科学アカデミーが再びコンピューターとオートメーションシステムの開発を集中的に手がけることになった。これにともなって、いくつかの新しい研究所が設立された。ザハロフのつとめる情報問題研究所もそのひとつである。


ゴルバチョフのパソコン教育導入


 ソ連政府がコンピュータリゼーションに真剣に取り組むようになったのは、ゴルバチョフの登場以降である。情報科学部の担当に、科学アカデミー副総裁のエフゲニー・パブロビッチ・ベリホフが就任し、彼の指導のもとでプロジェクトがスタートした。37歳でアカデミー会員となったベリホフは、もともとは核物理学者。むろん改革派である。
 転機は84年12月、ゴルバチョフが英国を訪問したときに訪れた。サッチャーに「彼となら話しあえる」といわしめ、一躍、ゴルバチョフを国際政治の表舞台にひきあげることになった歴史的なこの訪英の旅にベリホフも随行した。
 「そこで、パソコンを使った授業風景を見学したのです。ゴルバチョフにとってこの体験は衝撃的なものだったらしく、帰国するとすぐに、学校教育にパソコン教育のプログラムを導入するよう命じて、大幅な予算配分を行っています。そして、そのゴルバチョフに、旅の間、パソコン教育や、コンピュータリゼーションの重要性を説き続けたのが、ほかならぬこのベリホフ氏なのです」
 85年、学校教育用のコンピューターをどこから採用するかという問題に際して、担当当局の外国貿易省は、国際入札コンペティションを行った。世界中のメーカーが参加するなかで、採用されたのはパソコン本体がヤマハ、プリンターはシャープだった。
 「こうして、ソ連のコンピューター教育がスタートしました。とても面白いのは、ソ連の大衆にとって、『ヤマハ』というのは『パソコン』と同じ、ということです。ちょうどジーンズならリーバイス、タバコならマールボロと同様に、商品の代名詞となっている。ソ連の消費者にとってはファースト・ブランドですからね、浸透度はとても大きい」
 「われわれの研究所でパソコンの需要はいったいどのくらいあるか、リサーチしたところ、家庭用のパソコンをのぞけば、ミニマムで1,700万台、マキシマムで3,100万台。ところが90年までの生産計画ではパソコン生産目標は110万台で、実際に到達できる数字の見込みはおそらくその半分です。とても需要を満たすことはできない。90年以降も、今のところ見通しがまったくたちません。これがわれわれの最大の問題なのです。


支持すべきは変革のプロセス


 現在のソ連における「コンピューターブーム」は凄まじい。グラスノスチによって、西側との間に国民生活レベルにおいて格段の差があることを知り、愕然としたソ連人たちの多くは、その原因をコンピューターに求めている傾向がある。にもかかわらず、需要は満たされず、飢餓感はつのる一方で、そのため大げさではなく、コンピューターと名がつけばブランドや機種に関係なく、飛ぶように売れる状況で、投機の対象ともなっている。自由市場ではもっぱらNIES製品が出回っており、とりわけ、韓国メーカーの進出ぶりは著しい。パソコンを筆頭に、エレクトロニクス商品ならばメイド・イン・ジャパンが世界一というブランド・イメージは、ソ連国内にしみわたってはいる。しかし一方、北方領土問題のために日ソ関係の進展がはかばかしくなく、いっこうに日本との経済交流がすすまないことに、ソ連の一般大衆は焦れてもいる。その空白を埋めるような形で、韓国との貿易が拡大し、それにつれてソ連国民の間で、韓国のナショナル・ブランド・イメージが急速に高まりつつある。90年に入ってからの劇的な韓ソ関係の転回も、そうしたことが背景となっている。
 91年、ゴルバチョフを迎えて、さて日本政府はどうふるまうのだろうかと、ソ連各地を歩きまわる間、ついそのことばかりが気にかかる。
 日本を含め、西側先進諸国は、ソ連から木材をはじめとする原材料を買うといった、単純な貿易関係に終止符を打って、自らの能力を別の方面に向けるべきだと力説していたステファン・パチコフの言葉が思い出されてならない。
 「たとえば、対米ビジネスの世界で最近、日本がアメリカに対して教師の役割を果たしているように、ソ連に対しても生産の組織化、ビジネスの運営について教える教師の役割を果たしてもらいたいと思う。ソ連はようやく長い悪夢のような時代に別れを告げ、正常な国になるチャンスをつかんだところです。しかし、同時に大きな機器にも見舞われている。民族問題を抱え、食糧がモノ不足のため、国民はとげとげしくなっている。いつ国内線が勃発してもおかしくない状況下にあります。バクーの事件と同じことが、モスクワで起きても、誰も驚かないでしょう。追いつめられると、個人も国家も何をしでかすかわからない。絶望的な状況にあるソ連を、先進諸国は隅に追いつめないでほしい。ソ連の国民に、ほんの少しでもいいから、ペレストロイカの成果をみせて、ソ連社会が正常化の方向に向かっていることを具体的に示す必要があるのです。商店に下着やパンやバターが出回ることが必要なのです。私の友人のカスパーロフは、『西側はゴルバチョフを支持しているが、本当に支持するべきは、今ソ連が直面している変革のプロセスそのものでなければならない』と主張しているが、そのとおりだと思う」
 パチコフは、日本を訪れたことがない。日本に対する思い入れはきわめて強いがそれはあくまで、ソ連のメディアを通じて知りえた日本イメージを基礎としている。したがって彼の語る対日観は、ペレストロイカの時代の知識人が抱いているイメージの典型をあらわしている。特別な日本びいきではないことを心得たうえで、彼の言葉に耳を傾けてみたい。
 「私にとって日本のイメージというのは、文字通り理想的な国です。私のなかで理想化、美化されすぎているかもしれない。いつか日本に行くことができたとき、期待が高すぎて失望することがあるかもしれないと恐れているほどです。私に限らず、現在のソ連人すべてにとって、日本はあこがれの国です。おそらくソ連人が羨望と敬意のまなざしで見上げている国は、世界広しといえども日本だけでしょう。インドのように数千年の歴史と文化をもっていても、世界の進歩からは大きく遅れている国もあれば、アメリカのように大国であっても、文化的伝統が浅い国もある。日本は古き良き伝統と文化、民族的独自性を保持しつつ、世界最高の技術水準に到達するという両極を見事に共存させており、それだけでもわれわれには脅威なのです」
 ソ連人が、極端から極端に走りやすい人々であると、すでに書いた。今ソ連で流布されている好意的な日本イメージは、美化されすぎた極端なものである。しかし、それは期待の大きさのあらわれであり、それが落胆と失望に変わったとき、反対側の極端へ走ることもまた充分にありえる話なのだ。
 91年1月、ソ連は大きな歴史の極が曲がり角を迎えた。われわれが拱手傍観している間に、彼らは「隅に追いつめ」られていったのかもしれない、という思いが僕にはある。領土問題にとらわれすぎるあまり、「ソ連の変革のプロセスに支持を与える」ことに消極的でありすぎたのではないかという悔いである。もっとも誰がどう手をさしのべようとも、事態はなるようにしかならないのかもしれない。
 電子情報化、コンピュータリゼーションに成功した国が、コンピューター・ゲームのようなハイテク戦争にのめりこんでゆき、失敗した国がカラシニコフを市民に向けて撃ちまくる。文明史は単線的に直進してゆくものではなく、また、先を急いだからといって野蛮な姿を消すというものでもない、そんなことをわたしたちは今、思い知らされている。


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