「ソ連と呼ばれた国に生きて」 1992 JICC出版局
ペレストロイカを始めたのは、失脚したソロヴィヨフだった
アレクサンドル・デグチャリョフ(共産党中央委員会イデオロギー部書記)
ある意味では、ソ連共産党員としては、私のライフ・ストーリーは典型的なものですね。
私はロシア共和国北東部の、ヤクート自治共和国のチクシに生まれました。北極海に面した港湾都市です。父は北極圏への探検隊員でした。彼はもともとはウクライナ生まれ、15歳のときにレニングラードへ出てきて数年工場で働き、その後船乗りになって、北極圏への探検隊へ加わったこともあるんです。昔のソ連では北極の島々に位ってテントですごす隊員たちは、現在の宇宙飛行士のように英雄扱いされたものでした。
母はシベリア生まれです。イルクーツク州のレナ川付近の村に生まれました。母が生まれた村はバム鉄道が通っています。レナ川はシベリアで最も大きい川で、母はその川で船に乗り、ヤクート自治共和国へ行って、父と出会ったわけです。私が生まれたときには、父は北極圏のポーラ・ステーションで仕事をしていました。彼はいちばん低いレベルから出世していって船長にまでのぼりつめた人物でした。私は父の仕事の都合上、少年時代、青年時代を極東のチュコト半島ですごしましたが、この近くにはラーゲリがあって、鉄条網のある塀を横目に見ながら学校に通ったものでした。ラーゲリにどんな人間が入っているのか、噂では聞いていましたが、日本人がいたかどうかはわからない。私の住んでいた地元では、そういう噂はありませんでした。日本兵の抑留者は、おそらくもっと南のほうにいたのではないでしょうか。
そういえば、日本人といえば、大学院の同級生にカンダ・アキノリという日本人がいました。今、どこかの商社で仕事しているらしい。彼も私同様、歴史学部の大学院で、彼はロシア中世史を専門に勉強していました。
私はチュコト半島で中等学校を優秀な成績で卒業し、大学進学のためレニングラードへ出てきたんです。そこも優等生として卒業して大学院に進学、73年にはイワン雷帝時代をテーマに修士論文を書いて合格しました。27歳のときでした。それからレニングラード大学で、歴史学の教官として教えはじめたんです。今までに書いた論文・記事の類は、約150本。本も執筆しています。ロシアの農民の生活についてとか、農奴の起源といったテーマのものから、子供のための歴史の本までいろいろです。ゴーリキー文学賞も受賞しています。たとえば『クリコボ原野の戦い』という本では、1380年にタタール人とロシア人とのあいだで起きた一大決戦について描きました。「タタールのくびき」と呼ばれる、タタール人の支配から逃れるために、モスクワ大公国のドミトリー大公の軍隊が、キプチャク汗(ハン)国のママイ汗(ハン)の軍隊と戦い、これを破った歴史上の出来事をテーマにしたものです。
博士論文に合格したのは82年。15世紀から17世紀にかけてのロシアについての論文でした。私は36歳。当時としては、最も若いドクターでした。
ですから私は、本来は学者であって党活動家ではないんです。ですが、教職のかたわらにやっていた党活動のほうが、しだいに忙しくなっていったんです。
党組織に入ったのは、最初はレニングラード大学でした。レニングラード大学の党組織は非常に大きかった。そんな党組織のなかで私は認められたんです。
博士号を取ってから大学を離れ、レニングラードの党州委員会で仕事をはじめました。そしてペレストロイカの時代になってから、党州委員会の書記に選出されました。いや、いま私は「ペレストロイカの時代」と言いましたが、「ペレストロイカの瞬間」と訂正させてください。何しろ何千年にわたるロシア史を学んできたんですからね。専念のロシア史のなかでみれば、ペレストロイカの時代は、本の瞬間にすぎません。いま、グラスノスチによって活気づいているソ連のマスコミは、この時代の出来事をにぎやかに描写していますが、それはスケッチみたいなものです。本当のドラマは、今の新聞や雑誌の記事ではわからない。
たとえば89年にレニングラード第一書記のユーリー・ソロヴィヨフが失脚して、たいへんな騒ぎになりました。彼はペレストロイカという歴史のドラマの重要な役者でした。世間にはまだあまり評価されていませんが、本当のペレストロイカをはじめたのは誰か、『アガニョーク』のようなたくみな言葉ではなく、実際の行動でペレストロイカを切りひらいたのは誰か、いずれ明らかになることでしょう。
今までソ連経済は、中央の省が計画にもとづいて統制を行ってきましたが、今では国営ではないコンツェルンができています。最初の二つのコンツェルンは88年の前半にレニングラードで生まれました。その二つのコンツェルンをつくるには2年にわたる闘いが必要でした。その闘争を率いたのが、ソロヴィヨフなんです。イデオロギー担当の私も、ソロヴィヨフ・チームの一員でした。そして我々の闘争を支援してくれたのが、ゴルバチョフです。にもかかわらず、実際の活動においては、困難がつきまといました。
暴飲対策をごぞんじでしょう。
85年からそのキャンペーンが始まりましたが、レニングラードはすべての居酒屋を廃止するといった乱暴な措置をいきなりとるのではなくて、市民がくつろいで飲める小さな店をつくり、それから暴飲を戒めるキャンペーンを始めたんです。国民から酒を飲む楽しみを完全に奪うのではなく、別の楽しみを与えながらよい方向へ導いていこうとしたわけです。しかし87年になると、我々はモスクワの党中央委に4回も呼び出され、KOされました。87年8月には、レニングラードでも酒の売買が極端に制限されたのです。
環境問題でも先駆的な仕事をしました。アラドガ湖という湖は、パルプ工場によって汚染されていたのですが、その工場を閉鎖したのはソロヴィヨフです。報道では、住民の反対運動によって工場が閉鎖に追いこまれたとされている。しかし実際には、レニングラードの党州委員会の進歩派はたいへんな努力をしたんです。マスコミというものはどこかの事件を話題にして書きますが、深くは分析しない。間違っていることは少なくありません。
もちろん改革を妨げる保守勢力は存在します。ですが、共産党の保守派をマスコミが攻撃しようとするあまり、結果として間違って党内の進歩的勢力まで倒されるようなことになれば、それも結果としては保守派の勝利になってしまうんです。そこのところが、まだまだ理解されていない。
今や、情勢はますます緊迫の度合いを深めています。90年の第28回党大会は終わりましたが、実は88年の第19回全国党協議会の決議が最も重要な決議だったと思います。そこではグラスノスチについて、ヤコブレフの主導で重要な決定がなされ、昔のような検閲が廃止になりました。
いや、たしかにあなたのおっしゃる通り、検閲がまったくなくなり、完全に言論の自由が保障されるようになったわけではありません。たとえば軍事機密を発表することは許されません。でもそれはどんな国でも同じじゃないですか。ナゴルノ・カラバフやバクーなどで起きた民族衝突問題に関して、取材規制が行われているとあなたは指摘されるが、バクーは戒厳令地域ですから、それは当然でしょう。取材規制や検閲が行われるのは当たり前です。アゼルバイジャン共和国で報道に規制があるとすれば、それは中央の決定とは別に、現地当局が勝手に決めてやっていることです。現実にはたしかにそういうことはありますよ。
しかし体勢は大きく変わりつつあります。ほんの3、4年前まで検閲はものすごく厳しかった。たとえば私が書いた博士論文は、合格するまで検閲のためにずいぶん時間をとられたものでした。でも今は、私の教え子の論文検閲などは5分ですんでいます。今日、昔のような厳しい検閲はない。私はその変化のプロセスをよく知っています。私は今、モスクワのソ連共産党中央委員会のイデオロギー部で働いていますが、前はこの部署で検閲をやっていたのですから。
完全な言論の自由が達成されたわけではないということは、認めます。現在は、言論の自由の前夜なのです。グラスノスチというのは過渡期の政策です。わが国の社会主義は発展しつつあるプロセスにありますから、いずれ言論の自由が達成されるとき、グラスノスチは終わりを告げるのです。
実際、私たちは社会主義的理念の実現に向かっています。すでに人類社会に存在しているさまざまな理念の実現に向かっているのです。社会主義的理念が無効なのではありません。理念自体も発展しつつあるんです。ブルジョワ的理念から、フーリエやサン・シモンらの空想的社会主義へ、そしてマルクス・エンゲルスと続いてきた過程をみれば、その発展の足どりは明らかでしょう。もちろん歴史はいい方向にばかり、まっすぐ進んだわけではありません。ドラマチックな一時期において、社会主義の理念はときどきドグマ化しました。戦争のときに実行に移されたトータルなコントロールの理念は美しくありません。当然のことですが、戦時共産制は社会主義理念の歪曲です。スターリンのやったことには大きな間違いがありました。彼は社会民主主義者を認めなかったし、この巨大な国を一人で動かそうとしました。
彼がどうして政権の座についたか、ひとつには知識人の不在が理由です。1927年の時点でソ連共産党員の60%は、読み書きのできない人でした。実質的に当時の党は知識人のいない党であり、スターリンは政権についてからも、知識人を弾圧しました。
マルクス・エンゲルスにも間違いはあります。「18世紀の秘密外交政策」という文書ですが、これはロシア語に翻訳されていません。私はこの文書をレニングラード大学の図書館で、英語で読みました。ですから一般の人はこの文書を読むことはできないのです。この文書のどこにどういう間違いがあるかについては、細かいことはいいません。一ページずつコメントしなくてはなりませんから。とにかく間違いだらけです。
レーニンについていえば、革命と内戦の後、彼は社会主義社会の理念について大きな変更を行いました。ネップの導入です。財政改革に着手し、農民に対して分別のある政策をとり、教育を普及して文盲を撲滅しようというキャンペーンを行ないました。しかしスターリンはそれらを台無しにした上に粛清を行なった。我々の歴史にとっての、暗い夜です。しかし、歴史というものは、書き直すことのできないプロセスです。
スターリンの知識人に対する弾圧の一例としては、偉大なロシアの女流詩人であるアンナ・アフマートワに対する弾圧があげられます。彼女は1946年、スターリン政権の政治局員で、社会主義リアリズムを提唱したジダーノフによって抑圧され、沈黙を余儀なくされました。それに関連して、レニングラードの『ズベズダ』『レニングラード』という雑誌が廃刊においこまれ、その廃刊決議にスターリンがサインしています。我々は1988年にこのスターリンの決議の廃止運動を起こしましたが、クレムリンに2回断られました。3回目の手紙には、ソロヴィヨフも私もサインしました。その後、私はモスクワへ転属になったのですが、私がモスクワに移ってから、決議の廃止決定がなされました。この決定は、とりわけ作家やジャーナリスト、知識人にとっては、自由な言論への道をひらく象徴的出来事だったことでしょう。
ふり返ってみれば、レーニンはまぎれもなく才能のある政治家でした。現実の困難にあたって自分のかつての考え方を変えて、リアリスティックな立場に立って平和的な発展の道を模索していきました。彼がネップを主張したときには、党員の大多数はわけがわからなかった。レーニンの提案は最初、少数の支持者しかいなかったものの、その後自分の考え方をうまく説明することができました。やはり彼はすぐれた、分別のある政治家であるといわねばなりません。
レーニンが民主集中制(共産党一党独裁)をはじめたことにあなたは批判的ですが、しかし問題はそんなにカンタンじゃありません。ひとりの人間の力で一党独裁のシステムが実現にうつされることはありえません。当時のロシアには90以上の政党がありました。そのときの社会条件のもと、他の多くの政党は自然に消滅したんです。すべてがレーニンのせいであるというのは正しくない。
同じように、今のソ連の事情をみていると、数多くの新しい政治団体、政党が生まれていますけれど、もし共産党員が仮に1900万人いるとしたら、そのうちの少なくとも900万人か1,000万人が、こうした新しい団体・政党の解散をのぞんでいることでしょう。にもかかわらず、ふえていきつつあるじゃないですか。そのすべてをゴルバチョフひとりがつくったという言い方をするのは正しくないと思います。それはソ連社会という複雑で多様で巨大なコミュニティの、自然的な発展の結果であると思います。
日本はコンセンサス重視の社会でしょう。皇室と複数政党制が共存している。うまいバランスだと思います。ロシア帝国時代にも、皇帝の権力と複数政党が共存していた時期もありましたが、そのバランスがとれていたのはわずかに12年間にすぎません。1918年に皇帝が殺されて、複数政党制もなくなりました。皇帝と複数政党制の両方とも同時につぶれてしまったんです。それは歴史の発展の論理がもたらしたものでしょう。いや、あるいは単なる偶然かもしれません。いずれにしても、歴史は複雑な力のしのぎあいの過程です。それを一人の人間が理解するとき、必ず単純化が起こります。わかりやすく、シンプルな図式に整理して理解しようとするのです。
もちろん、であるからこそ常に、歴史の見直し作業は必要なことです。それはわが国だけに限らない。日本でもアメリカでも同様でしょう。
現在のアメリカは、民主主義の砦を自称しています。しかし、同じ20世紀の1960年代まで、アメリカ・インディアンの人権は抑圧されてきました。彼らアメリカ・インディアンの何代か前の先祖は、殺され、土地を奪われてきた。それも歴史的事実です。
アメリカは現在、とても強くみえる。本当に強いかもしれませんが、だけど1941年のパールハーバー直後、サンフランシスコ近くに日本の潜水艦が浮上したときには、全米がパニック状態に陥りました。41年以降変わったかどうかわかりませんが、基本的にはアメリカ人は、臆病者ですよ。もう少し正確に言うと、アメリカでは南北戦争のような内戦をのぞき、自分の領土で一度も対外的な戦争をしたことがない。ですから自分の国土に敵の攻撃の手がのびるとあわてふためくわけです。これはアメリカの歴史が育んだ、国民的性格です。
それに対してロシアの場合、外敵の進入によって国内が戦場になった経験が何度もある。この歴史的経験が、ロシアの民族的性格をつくりだしたと思います。ロシアでは、この1,000年間で数百回の戦争がありました。タタール・モンゴルのくびきの時代、その250年間では、小規模の戦闘が300回以上ありました。今世紀では、二つの世界大戦が、わが国を戦場として戦われました。今のソ連の若い人にはあまりわからないかもしれませんが、ロシア人の民族的性格にそれは非常に大きな影響を与えました。広い国土、厳しい気候、中心的な文明世界に比べていつも立ち後れていた社会の進歩、それらの要素と同様に戦争の経験も、民族的性格の形成に大きな役割を果たしたわけです。
ロシアの偉大な詩人、アレクサンドル・プーシキンは、タタール・モンゴルのくびきについての詩を書いています。「ロシアが煙と炎の中にいたとき、ヨーロッパでは素晴らしい宮殿が建設されていた」と。
この8世紀間にわたり、各世紀ごとに必ず一回はモスクワは外敵に占領されてきました。例外は20世紀だけです。ドイツ軍はモスクワの30キロ手前まで来ましたが、ついに占領はできませんでした。もっとも、20世紀はまだ終わってはいない。今世紀は残りあとわずかで、世界情勢を考えると今世紀中は大丈夫と思いますが、そのあとはどうか。いま、見通しのわからないプロセスがヨーロッパで起こりつつある。アジアでも民主化の爆発が起きているが、それが21世紀に何をもたらすのか、わかりません。
たしかなことは、20世紀の歴史の舞台にヨーロッパ以外に大きな勢力が出てきたこと。大ざっぱにいえば、アメリカ、ソ連、日本、中国、その他。そうした大国間のゲオポリティカルなパワーバランスが求められているわけです。現在のような状況は、今までの人類の歴史をふり返ると何度かあったように思います。こういうときは、パワーバランスの変化により、世界の機構もどんどん変わります。サイバネティックスの概念を借りていえば、複雑なシステムの変化を考える場合において、一次的なファクターとか二次的なファクターとか差をつけて考えてはいけない。すべてのファクターを重要なものとして考えていかなくてはなりません。今は二次的、三次的なファクターであっても、いつそれが支配的な要素になるかわからないからです。
たとえば19世紀の半ば頃であれば、ドイツの小国が統一し、その結果二つの大戦が起こるなどということは、誰にも思いもよりませんでした。もし、124年前(1867年)にロシアの皇帝がアメリカにアラスカを売らなければ、現在の世界の軍事戦略情勢は全然違ったものになったでしょう。アラスカがロシアのものであったら、ロシアは世界の原油をコントロールできたはずです。
もちろん、アラスカなしでも、ソ連には多くの資源があります。ソ連にはたいへんなポテンシャルがある。土地資源もあれば、人的資源もあります。問題はそれを発揮させることです。ゴルバチョフの始めた改革がうまくいけば、ソ連は質的に大きく変わり、素晴らしい成長をとげるでしょう。物事はうまくいくはずです。途中で『アガニョーク』やその他のマスコミが我々の邪魔をしなければ。もちろん彼らも我々と同じ方向に進むことを望んでいるんですけれど、彼らは必要以上に早く行こうとしすぎている。
どこへ向かおうとしているのか? それは選択肢が多すぎるし、不確定要因も多すぎて、具体的にどこの方向へ向かいつつあるのか誰もわからない。今の状況から考えると、ソ連の解体は不可能だと思います。解体というより、非統合化(ディス・インテグレーション)、という表現をつかったほうがいいと思いますが、そういうディス・インテグレーションを求めている勢力はたしかに存在しますが、それよりもソビエトのインテグレーションを求める勢力のほうがはるかに多いと思います。
もっと長い目でみてほしい。各民族は、自由意思でロシア帝国に、あるいはソ連に入ったんです。当時の地政学的なファクターのため、そういう道を選んだわけです。トルコにいじめられていたアルメニアはロシアに助けられて、ロシア帝国に入りました。グルジアにしてもそうです。彼らが、いったんは破壊されかかった彼らの民族的統一を保存することができたのは、ロシアのおかげであると思います。このインタビューは、ソ連が崩壊する1年半前の90年7月に行なわれた。現役の党官僚だった彼の「ソ連解体は不可能」という言葉は、冷静な分析というより彼自身の願望が混じっていたことだろう。それはともかく、民族独立問題、彼の言葉を借りればソ連のディス・インテグレーションの問題を、単純な多数決の論理で語られてはたまらない、と私はこのとき反論を試みた。ロシアに限っていえば、支配的民族の地位から滑り落ちることをのぞまないロシア人の数は少なくないかもしれない。しかし、バルト三国やグルジアなどの各共和国、諸民族のあいだでは、独立をのぞむ人間の数が圧倒的多数を占めている。そうした民族の人口の、全ソ連の人口に占めるパーセンテージが低いから、ソ連の非統合化をのぞむ人間の数は少数派である、というのは詭弁ではないか−−。
現在の状況は、以前のような状況とは違いますから、そういう要求が出てくるのは当然だとは思います。しかし、私たちの改革が成功すれば不満もなくなり、独立要求もなくなるでしょう。ソ連邦の枠内の中で各共和国の主権を認め、経済的独立の自由も与えられるわけですから。もう一度反論を試みる。
グルジアやアルメニアが、「自由意思」で喜んでロシアの支配下に入ったとは思われないが、とることの関係もあってある程度、やむをえないと自ら判断した側面はあるだろう。しかしそれは彼らにとって民族の運命を決するベストの選択であったわけではない。緊張した状況下の緊急避難的な選択にすぎない。国際的環境が落ち着きをとり戻したならば、そしてソ連中央の抑圧が弱まれば、自立した民族としての本来あるべき姿を追い求めようとするのは自然ななりゆきではないか。
「もしも」の話をした。
もしも、第二次世界大戦時にソ連がもっと早く参戦して日本軍を破り、スターリンが計画していたように日本の国土の何割かを占領して、そのあげく日本共和国としてソ連邦の一部にしてしまったら−−。実際にはアメリカをはじめとする他の連合国の意思もあるから、ありえない話ではあろうが、仮にそうなったとして、その後独立を望まない日本人がいるだろうか? ソ連邦内の経済的主権などという言葉に丸めこまれて、民族独立の要求を大半の日本人がとりさげてしまうなどという馬鹿げたことがありえるだろうか?民族の独立要求をかかげている立場に自分の立場をおきかえてみれば、少しはわかりそうなものだ。ロシア人が現在の人口の10分の1だとしたら、喜々として他民族に従属することがありえるだろうか?うーん……。まあ、今後どういう展開になるか……私には想像もつきませんよ。
ただ問題は連邦共和国ではなく、ロシアにも民族感情がめざめてきている。たとえばロシア人からみると、我々はみんなソ連という大きな家に住んでいて、この家の住人にはだいたい同じような生活水準が保証されているわけです。
だけどグルジアを例にとると、車をもっている人は1,000人中90人いる。それに対してレニングラードは1,000人中30人です。モスクワは1,000人中50人。ロシア人はいったいどうしてなんだ?! 平等な生活が保障されているはずなのにこの差はどうしてだと、疑問をもつ。
エリツィンは、そういうロシア人の、ある意味では当然の感情を利用して偉くなりましたが、しかしエリツィンのやり方は危険です。
たとえばウクライナは主権宣言をしていますが、これはたいへん大きな問題です。現在はウクライナ共和国に入っているクリミア半島は、60年代まではロシアの領土でした。誰かがそういう歴史的事実を思い出すと、たいへん危ないことになる。あれだけ仲よく暮らしてきたロシアとウクライナとのあいだに領土紛争が起きるのではないか(彼のこの予測は、実際その通りになった)。
だから、そういう民族主義的な方向に物事が進めば進むほど、いろいろな問題がでてくるはずです。われわれは相互に歴史的、経済的に深い結びつきをもっていますから、そういう結びつきを破ろうとする人たちはまったく何もわかっていない人たちだと思います。だいたい、ソ連の人口のうち6,000万人が、自分の共和国に住んでいないという事実があるのです。このようなファクターは、まだあまり表に出てきていませんけれど、そのうち表面にあらわれて大きなファクターとなりかねません。
今後のソ連の変化についての展望ですが、国外のファクターを切り離すことはできないと思います。国内外のファクターがからみあって、進行していくだろうと思います。ドイツの統一や、アジアにおける民主化の爆発、アメリカの軍事プレゼンス、そうした国外のファクターがソ連に影響を与えることでしょう。国内のファクターである民族的感情の高揚は、急性的な性格のものですから、一番表に出ています。この一、二年でソビエト経済の改革がうまくいけば、民族主義的ファクターの比重は落ちていくでしょう。そしてソ連に入っている共和国の、連邦の参加条件を一律ではなく多様にすれば、なお一層、状況は改善されるだろうと思います。昔のロシア帝国では、フィンランドやポーランドは議会をもち、中央アジアでは昔ながらの汗国のスタイルでした。スターリンがすべてを単純化して、すべての国を同じシステムにしてしまったわけです。自然に動いている社会に、ギプスをしたようなものです。しかしそのギプスの中に肉も骨も残っていますから、私たちはそのギプスの拘束を弱めて、せいぜい包帯どまりにしようと考えているわけです。
経済問題についていえば、あなたは中央計画経済と自由市場経済を共存させるのは、サッカーの最中にラグビーを一部認めるようなもので混乱を招くだけだとおっしゃるが、サッカーとラグビーが相まって新しいゲームが生まれる可能性もあるではありませんか。
経済の面でのペレストロイカのアイデアというのは、基本的には自由市場経済への移行であると思います。自由市場経済というのは、政治的多元主義と並んで、我々は長い歴史のなかで、一時期、その二つの価値を捨てたこともありましたが、いまそれらを復活させようとしています。
世界各国では、経済に対するコントロールが弱かったり、強かったりそれぞれですが、まったくコントロールされていない経済はありません。たとえば18世紀や19世紀の自由放任主義の資本主義国家のような経済体制は現在の先進国では存在していません。そして自由市場へのコントロールの方法は、多くの場合社会主義的な性格をもっていると思います。それは社会民主勢力の大きな成果です。ですから、まったくコントロールされていない自由市場経済への移行は不可能です。ただし、たしかにあなたのおっしゃる通り、現在ソ連でとられている方法は最適ではないでしょう。ペレストロイカの発展の過程で、その修正は避けられないでしょう。
ですが楽観的に未来をみています。今のソ連の25歳とか30歳とかの若い世代の人とは、私は違っていると思う。要するに彼らはすごくプラグマティックなんです。アメリカ式の合理的な仕事のやり方をする。決まりきった仕事ばかりではなく、コーペラチフのように新しい活躍の場所もひらけてきましたし、新しいことをやろうとする情熱もあります。今の若い人からみると、5、60歳の人間はアパシーを感じているとみえるでしょう。古いスタイルをそう簡単に捨てることはできません。私はちょうどその中間の世代。ですから年配の人をかわいそうに思い、若い人をうらやましがっているんです。
今の若い人を、うらやましいと思いますよ。私の人生を例にあげると、自分の能力をフルにいかし、希望を実現することができたと思います。一緒に仕事をした仲間うちでは一番若くして博士号を取得しましたし、当時のレニングラード州党委員会の中では一番若い書記でした。モスクワに移ったときも、同様のポストについている人間の中では一番若かった。だけれども若い人がどんどん、僕らの世代にとって代わるために出てくるでしょう。まあ、私はここでグチをこぼすつもりはないですが……(グチをこぼしてもらってけっこうですよ、と言うと)うーん、仕事が多すぎる(苦笑)。今、私は党中央委員会メンバーに選ばれたので、仕事が多すぎて。しかし月給はわずか770ルーブル。もちろんこういう仕事ではなく、自由に仕事をしていたら、もっと収入が多かったでしょう。教職とは別に、いろいろ原稿を書いて、原稿料収入もあったでしょうから。
私には成人した息子がいるんです。彼はこのまえ兵役を終えて帰ってきて、今はレニングラードの税官吏をしています。やはり私にとってはレニングラードが一番ですよ。家族もいるし、友人もいるし。たしかにモスクワは大きいが、複雑すぎる。若い人には理解できるかもしれないが、私には理解しにくいですね。今の中央委員会での仕事が終わったら、たぶんレニングラードに戻るでしょう。政治はむずかしい。学者としての生活に早く戻りたいですよ。
自分たちの課題を遂行する前に、やめるはめになることもありえます。私たちのチームが政治的に敗北した場合です。私の所属しているチームは、ゴルバチョフのチーム。なかなか、強いチームですよ。だけどそのチームの参加者がやめさせられることもありました。そういうことも、あるんですよ。日本の柔道が国際試合で負けるみたいに、ね。